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ミクシィに詩を発表する意義 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

ミクシィに詩を発表する意義のページです。

ミクシィに詩を発表する意義

前回の書き込み欄でのやりとりのつづきで、
三村京子さんが
「ミクシィに詩を発表する意義とはなんですか」という
ど真ん中の質問をしてきた。
それに応えたのが以下の文章です。



(三村さんへ)

僕は資本の裏づけのないひとたちが
気軽に「作品」を発表できる場が、
そしてそうした「作品」が波及してゆく場こそが、
ミクシィなどのSNSだとおもっています。

愚痴でも自慢話の場でも
相互の「つながり」(実質は自己愛の応酬)を
ただ確認する場でもなくて。

そうかんがえないと(ミクシィ内の)状況が変化しないし、
現状、ほかに有効な媒体がまだ出ていないのなら、
逼塞を解くためにまずは
「ここでこそ」作品が交流しなければならない。
これはまあ倫理的な立場ですね。

で、なんでミクシィで「詩」なのか。

詩は作品として小説や本格評論、本格随筆などよりも
手軽に書ける利点が一応あります。
理想論でいうなら、短詩ならば十分で書けるかもしれない。

それと評論などは
草森紳一さんが好例なように
「一文が高い」=一文が成立するために
多くの参照系を負っている、ということがあり、
それは読書量や時間や記憶力の豊富なひとに有利ですが、
詩では基本的にそんなこともありません。
つまり誰でも書ける、という点ではじつに民主的な表現といえる。

そういう民主制であるべき詩を
いたずらに密教化・特権化しているのが詩の同人誌などで、
その特権意識の「印籠」をかざしながら
若いひとのミクシィ詩に叱言爺ぃのように容喙してくる破廉恥漢を
僕はすごく許せない。

昨今は、勤め人でもフリーターでも学生さんでも
忙しいひとが多く、
手軽な媒体、手軽な所要時間で
何らかの「作品」を公表したいのなら、
とうぜん詩にたいしての注目も高まってゆくとおもいます。

つまりそれは、「作品にかかわる」「民主制」の問題なのです。
そして僕にも、無方向から作品に接したいという希望がある。

むろん「書きあがった詩、即、作品」ではありません。
改行形式をもちい、ただインスピレーションを書き散らす、
そういう姿のものもミクシィなどには目立ちますが、
それらは自身と言葉との関係性が不潔で、
ほとんど読めるものがないともおもいます。

それと詩作者として名をなしているひとなどの場合、
ヤバイ傾向は、
「詩らしきもの」を迷妄からアップしてしまうことです。

僕はこの点では、本質的かどうか、を
その一行目から最終行までずっと問うことにしています。

本質的でないフレーズは、
いわば「詩らしさ」を演出するための虚辞。
これらは排除してみても、じつは詩想の骨格が変わらない。

それと詩らしさを虚飾するために
詩語に依存するインチキもすぐに見破ることができる。

世界は多様な言葉で成り立つ雑多空間で、
そこに好みの偏向が生ずるのもまた
言葉にたいして民主的ではないのではないか。

本質的な詩とは何か。
言葉が作者の必要によって削られ、
そのことで読み手に「じかに」迫ってくるもの。
雰囲気で書いてしまったような曖昧なフレーズがなく、
構文が、助詞をふくめた語のつらなりが、
ただ孤独な裸の構造としてみえるもの。

むろん本質性にはいろいろな局面もあるとおもいます。
意味形成、認識、音韻、喩機能、破壊性、切断性、形式--
これらのどれをとっても
そこに真摯な着想があれば本質的になりうるのです。

ミクシィ詩の多くの失敗は、
言葉の過剰武装によるものか、
「情」の転化に失敗し、何か湿ってしまったものに多い。

僕は実人生(生活)を詩のモチベーションにすることに
否定的だというわけではありませんが、
言葉自体のつらなりのほうをモチベーションにしてゆくと、
そういう甘さも消えてゆくのではないでしょうか。

「自分」のようなものは切断や点在として
詩では残酷に扱うに越したことはない。
といって僕は芸術至上主義を標榜しているわけではありません。
言葉のユーモリストのほうにむしろちかい。

最近(ミクシィ記事にも書いたことですが)、
僕は詩にたいしていい比喩をみつけました。

改行詩の場合でいうと、
詩の一行が、書いた当人にも読み手にも馴染むためには、
語同士のぶつかりを下支えする空間性が必要なのです。
そして改行加算は空間性を強化する場合もありますが、
基本的には「展開」--時間性をつくりだす欲求のほうがつよい。

つまり、「空間」単位が「時間化」してゆくもの
--これが多くの詩の姿、ということになる。
何だ、詩は、映画とまったく同じ作用性をもつんだ、とも
気づかれるとおもいます。

一つの詩篇は一本の自主映画。
映画がミニシアターで公開されるように、
詩がミクシィで公開されると考えたら、
それは「夢のようなこと」ではないでしょうか。
自主映画の上映後に懇親会があるように、
詩のアップにも、懇親的な書き込みがあることを
僕などは夢見ています。
ロマンチストといわれるかもしれないけど。

特権性から離れ、民主的に当事者全員が振舞うことが必要ですね。

これは「詩は万人によって書かれねばならない」と宣言した
イジドール・デュカスの精神を継ぐものです。
そういえばゴダールも
「映画は万人によって撮られねばならない」と
一時期マニフェストしていました。

詩には効用があるのです。

じつは立教の文芸思想の現在三年生
(今度の三月までの三年生)の三分の一は
一年のとき前期は僕、後期は小池昌代さんで
詩作のスパルタ教育をしたのです。
その彼らが08年後期、僕の手塚・浦沢大教室授業の
期末レポートを出してくると、
断然、S評点比率が高かった。
それで僕は詩の効用ということを考えたのです。

詩を考えることは
言葉のつらなり、詩篇の成立基盤、
詩集の空間性のみの考察にとどまらず、
思考自体の詩性の発展につながる。
同時に、
「構造」(マンガ作品にあるもの/自分のレポートにあるもの)を錬磨し、
思考から無駄を殺ぐことにつながるようなのです。

この傾向は、僕が演習で詩作を教えた現・二年生にも顕著だった。

べつだん「詩による教育」を構想するわけではないのですが、
詩の効用はたぶん、それが思考の発展に手軽につながる点にあるのは
まちがいないのではないか。
となって、コミュニケーションにも
豊かさに向けた変化が生じるともおもう。

それやこれやで、
僕はSNSが詩作の楽園になればなあと夢想しているのです。

ということでいいでしょうか

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2009年02月13日 現代詩 トラックバック(1) コメント(0)












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