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詩の効用について ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

詩の効用についてのページです。

詩の効用について

 
前回ここに転載したミクシィ・コメントにたいし
さらに三村京子さんからコメントをいただき、
それにミクシィで対応しました。
これも大事な記事だとおもうので
以下に転載します。



ミクシィに一詩篇がアップされたとする。
その一行目が緊張感にみちていて、
全体をゆっくり読もうという判断をしたとする。
これは何を意味するのか。

既存資本のなかで人が行動選択をどのようにして、
結果、社会を変えてゆくかというのは
柄谷行人などがいっている「とりあえずの運動」です。

たとえば柄谷さんは購買運動を言い、
明言がはっきりしないけれども不買運動もいっているはずです。

「労働者=消費者」が社会運動を起こすためには
資本の枠組を温存するのであれば
このように彼のいうことも当然、一理あるとおもいます。
それだけでも社会が変わる側面がいっぱいあるから。

それでたとえばエコ商品の価値があがってゆき、
反エコ商品が潰されるということにもなります。

むろんミクシィも資本です。
たぶん東浩紀のいう「データベース消費」くらいは
視野に置いているとおもう。

そうした資本の「しつらえ」のなかで
行動を起こすとはどういうことなのか。

データベース消費によって体感的=昆虫的「速読」に、
なだれうってほしいと資本自体が願っているとおもう。
消費対象の「本体」ではなく、
その「影」に快感を覚えてほしいとなれば、
ミクシィ自体が「速読=消費=昆虫的体感挨拶」を
じつは促している媒体なのですね。

このとき、資本の敷いたレール以外を汽車が走ろうとすれば、
柄谷的購買運動と同じ水準で、
素晴しいアップ記事(日記)にたいしては
読み飛ばしをせず、ゆっくり読もうという
「運動」が起こるのも当然だという気がします。

要するに、資本が「つくってくれた」レールには乗っかる。
けれど「乗っかりつつ裏をかき」、
彼らの思惑以外のところで愉しんじゃおう、ってことですね。

ふたたび論点を集中させます。
このときになぜ、「詩」が有用になるのか。

データベース消費という言葉によって
東浩紀→現今の社会学者を類推しました。

この欄の読者がどうおもっているかはわかりませんが、
現在の日本の社会学は、
東浩紀の注意喚起もあってすごく優秀だともわかるとおもいます。
東的図式では、大澤真幸、北田暁大がその駆動両輪です。

僕が疑問におもうのは、
このふたりの優秀な社会学者をもってしても、
「社会学」が現状肯定的な「解釈学」の域を
抜けていないのではないかということです。

なるほど、大澤さんは、国際政治における「喜捨」をいう。
けれども一旦の喜捨が
ポトラッチを招きかねないのではないかという、
リアルポリティックス的反論には有効な再反論がなせないでいる。

北田さんの系譜にある鈴木謙介さんは、
ユビキタス社会下の「自由」の逆説性を見事に分析する。
けれども、その突破口として「宿命」を出すとき
論理構成がすごく苦しげな気もするのです。

これはもしかすると社会学の限界を明示しているのではないか。

社会学の言辞は、自身の有効性を疑っていない。
だから、精神分析、経済学、哲学、現代思想などからも
アトランダムに概念語を輸入してきて
一旦の解釈体系をつくりあげるのだけど、
「それ自身がそれ自身でしかない」言葉は、
現状解釈の限界をついに超えられないでいるのではないか。

社会学の弱点はこのような前提から総括することもできる
--要するに社会学には「詩性」がない。
「それ自身であってそれ自身でない」言葉のありかたからは
暴力的に現状世界を転覆してゆく力があるのだけど
(それが詩性です)、
つまり社会学にはそうした直観的膂力が欠けるのです。

現状、社会学だけが現状社会を精密に描写していることは
おそらく誰しも異論がないとおもいます。
その場合の精密さはたしかに美徳なのだけど静的。
その静的な姿を打ち破るためにこそ
いまここで詩が必要なのではないか。

僕はつまびらかにしませんが、
ハイデガーの哲学が成立するためには
ヘルダーリンの詩が必要だった。
日本的思考はいつしかそういう前提を必要としなくなりました。

柄谷も蓮実も詩は視野に置かないと明言する。
この風土は東-大澤-北田-鈴木謙介にも
着実に継承されています。
西脇や吉岡や石原や岡井から
思索を立ち上げる思想家がいないのは一体どうしたわけなのか。

たとえば保田与重郎なら万葉などが
思索の多くの契機をしめていた。
この傾向は、小林秀雄や吉本などにも続いてゆくのですけれども。
そう、吉本がきつくて、その後の世代の思想家が
逆ポジションをとった、ということなのかもしれません。

こうなったとき、僕は最近、花田清輝のことを考えてしまう。
花田と詩の関連は、
日本でいえば小野十三郎や関根弘など、
モダニストの末裔とのつきあいに
表面上、限定されてしまう傾きもありますが、
実際はモダニズム詩の思考の発展を
評論という飛び火の場所で貫徹したのではないかと
おもうことがあります。
つまりモダニストの発展形としてとくに花田が極上なのです。

実は、柄谷の花田再評価に影響をあたえたとおぼしい、
乾口達司『花田清輝論』(柳原出版/03年)を
遅ればせながらつい最近、読みました。
この本は花田-吉本論争の精査からはじまるので
最初は構成的に辛いのですが
(とくにヒステリックな文献でしかない吉本の引用がキツい)、
以後、花田に照準があってゆくと
ベンヤミンにも比肩しうる花田の思考の柔らかさに
あらためて圧倒されることにもなります。

一個だけいうとマルキストとしての花田は
吉本よりぜんぜん優秀で、
それは彼のカント読解とも地続きだということが
乾口さんの適格な引用・考察ではっきりしてゆくのです。
それで意外な結論が出てしまう。
カント、マルクスを思考の可能性の中心に置いたとき、
柄谷と花田が時代を挟んで相似形を描いてしまうのだ、と。

ところが乾口さんが意図的にか書かなかったことがあるとおもう。

花田の思考は詩性に寄与するようなヤクザっぽさがあるのです。
だから逆に古びない。
柄谷さんのは詩性が徹底的に遮断されているので、
世界の思想地図が変わると
歴史的一流派になってしまう危惧もある。

となって、思考の諸形態のうち詩性を中心に置く、
ギリシャ的学問分類の必要をまた考えたのでした。

詩は世界を変える道具です。

もしかすると言外にだけど
そのことを僕は立教などの授業で伝えたのかもしれません。

それでいうと、三村さんもkozくんも不安がる必要がない。
音楽講義--とりわけそれに付帯する歌詞解析で、
やはり僕は詩の授業をやったのだとおもうよ。

花田のことに話を戻すと
僕が彼の書いたものを熱心に再読したのは
『復興期の精神』と『錯乱の論理』程度ですね。
あ、小説も再読した(難しかったけど)。

乾口さんの花田引用はじつはそれ以外にもわたっていて、
それぞれが瞬間的に、おもしろかった。
詩性がすげえ、と打たれたのです。
なんという読みすごしをしていたのかと戦慄した。
うちにある花田本、その全部を
精密に再読する気運なのかもしれません、
詩の復権のために。

ただ僕自身は花田の圏域を旋回していただけだという
慙愧に駆られてもいいのかもしれません。
たとえば連句--共同創作についても
花田がずっと熱く語っていたのだから。

あ、文学部は社会学部にたいし
もう、分析力では現状かなわない、
という言い方がよくなされます。

上に書いたことから
ご理解いただけるとおもいますが、
文学部生の突破口は「詩」ではないでしょうか。

ということは逆もいえる。
社会学が詩をもとりこんだら
無敵になる可能性がある、ということです
 

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2009年02月14日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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