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待ち時間が半端なので ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

待ち時間が半端なのでのページです。

待ち時間が半端なので

 
本日は要件があって、ずっと待ち時間だったんだけど、
要件が遅れ半端な時間ができてしまった。
なので、状況に合わせ、半端な日記を書こうかな、とおもう。

一個は前の日記「飛/攻」に延々続いた書き込みで
書き落としたこと。
ネットの属性について。

僕は現今、情報プアが若いひとのあいだに進行している
という実感があって、
そのうちに彼らの参照領域から
新聞、TV、書籍、雑誌等が脱落してゆき、
最終的にはネットだけが
参照媒体になってゆくだろうという悲観をもっている。

となって、ネットに「作品」が存在しないと
たぶん「作品」が悲惨な末路を迎えるだろうとも予想する。
それで、ネットに「作品」が蔓延する逆転を考えざるをえない。

ただし書籍文化が一挙に終焉を迎えるような
大変動が起こるという悲観論もまた現実的ではない。
つまり、書籍を買えなくなった情報プアが
積極的に図書館を利用する逆転要素も秘められている。

このとき、本を買える優位性にある者がつくりだすネット情報は
情報プアが借り出すべき本を伝える義務があるともおもう。

今後はネットと連動した図書館が情報殿堂となる。
映画評論の分野でいうと
図書館営業が完全に成功すると、
全国で2000部がはけるという。
これを制作費自腹、最大部数500の詩集に適用できないか。
そうすれば自腹切りもなくなる。

廿楽さんの日記の書き込みに書いたが、
表現者を助成する第三者機関が必要だ。
しかも、匿名と成員のくじ引きで。
この機関は助成金を出さなくても
たとえば図書館に購入を推薦するだけで
詩作者を救うことができる。
その動きをつくるように
ネット上の詩作者たちは、自分が素晴しいとおもった詩集につき、
具体的にして全体的な評を書かなければならないのかもしれない
(僕はその作業を明日からおこなう)。

もう一個。
現在ミクシィで起こっている齟齬は
以下のような端的な図式でまとめることができる。
「ケータイアクセス(作文)派vsパソコンアクセス(作文)派」。

みよちんの書き込みで鮮明になったが、
僕の不平不満は
ケータイ依存性によって
ミクシィの共同性が
動物的(昆虫的)反射神経によって侵食され、
表現の沃土がデータベース消費にさらされている点にあると
総括できるようだ。

PC的ネットがケータイネットと敵対する--
これがたぶん現在の技術革新の型だとおもう。
類似が差異を噛みあうのだ。
姉妹的技術であったのに、なぜこんな面倒な事態になるのか。

それはビデオ→LD→DVD、
あるいはレコード→カセット→CD→デジタルテープ→CD
といった媒質の帰趨(変化)とも似ている。

ところが問題はそれだけではない。
どういうか、「人間の適応性」といったものが
さらに問題圏を複雑にもしている。

たとえば「なにぬねの?」近藤弘文くんは
ケータイ適性が強烈に高く、
詩作も気に入った詩の転記打ちも
すべてケータイアクセスでまかなっていると
衝撃の告白をしている。
彼の分断性の高い詩行の運びは
異様で素晴しい独創なのだが、
どうやらそれはケータイの媒体性に負っていると踏んでいる。

となって、女子中学生に訊いてみるといい。
近頃は名短篇のダウンロードサーヴィスもあるようだが、
ケータイで一番読みたい小説は何か、と。
「ケータイ小説に決まっているじゃん」と応えるだろう。
ケータイ小説はケータイの液晶画面とスクロール機能と視角、
それらの限定性が生み出した
メディアに根ざした表現なのは間違いない。



今日の待ち時間、
前田英樹さんからご恵贈いただいた
ちくま新書『独学の精神』を読んでいた。

大学改革の方向性を啓示した本かと身構えたが、
「身ひとつでなす」智慧・技術・思考がどんな体系を負うかを
新書らしい平明さで綴った倫理的な書物だった。

二宮金次郎が最初、話題の中心になり、
道学臭のつよい本かと誤解しそうになったが、
前田さんの家の改装をひとりでおこなう大工さんの話が出てきて、
鉋がけなど、前田さんが驚嘆する
「技術」を描写するくだりになると、
例のごとく--つまり剣道における重心のつくりかたや
セザンヌの目の考察にも似た、
アフォーダンスにも通じるような
描写の厳密な細緻が現れてきて
(といって、前田さんの流儀は
精密さを期すために無駄に膨れ上がることが一切ない)、
ああ、「見切り」がやはり剣道の達人だと嬉しくなってしまう。

しかも参照系がそのあたりからどんどん発展していって、
孔子→宣長→藤樹→宗悦→保田と
とどまるところを知らなくなって、
そうして最後、お馴染みのベルグソン登場と相成る。

大工的技術を支える「勘」は
個人の身体や気候条件など多様性に負っていて、
木との対話性をも内側に繰り込み、
それは化学的建築資材を組み立てる建築士的設計とは
知的体系がまったく異なる。

その木との対話をする場所が「身ひとつ」ということであり、
「独学」はそこから芽生える。
芽生えつつ、徒弟制度では継承も着実におこなわれてゆく。
これこそが叡智の姿だと。

それから前田さんの筆は農耕的な叡智にも及び、
知性の植物性と動物性との対立をより露わに描いてゆく。

この本の結語のひとつは「米を食べよう」。
こう書くと、
あっけらかんとしすぎているか
何かの回し者の意見かと誤解されそうだが、
その結語が読みすすめてゆくと実に気持よかった。
前田さんの剣士的に爽やかな風貌が蘇る。

そういえば、小池さんと僕が
例の池袋ジュンクのイベント後の飲み会で
まるで前田さんを
インタビューするおもむきになったことがあった。
剣道的身体の基本とは何か、ということ。

相手とつくる場が問題で、
踏み切る、引くがあって、
そこから、打つ、があると語られたとおもう。
それで大切なのは、「引く」のほうだと。
相手の殺気を真に受けてはいけない。

ボディビル的に愚かな肉体は上筋のみを鍛えるが、
武道に必要なのは下筋のほうなのです、ともいった。

僕もブルース・リーの信奉者なので(笑)、
その前田さんの意見に自分なりの上乗せをする。
すると前田さんがするするとさらに展開してゆく。
あれはおもしろいくだりだったなあ。



ミクシィの話に戻すと、

ケータイアクセスというのは
たぶんミクシィという牧草地に不意に侵入してくる
弓矢と刀剣のような、動物的な「線」だとおもう。
これはあしあとからも書き込みからもアップ記事からも
見事に感知できる。
寸言により構成されて、
「つながり」意識が偽装され表面的にはやさしいが、
内実はするどい切っ先により表現されているとすぐわかる。

つまり農牧労働の積み重ねの植物的やさしさと、
どこか種類のちがう運動によってつくられていると感じる。

僕はしかしそのケータイアクセスを
排除しようとするのではない。
またも花田清輝の意見を借りれば
「対立物を対立のまま統一」すればいいだけ。

ただ気になるのは、
ケータイアクセス主義者が
ミクシィに極度に疲弊しているということだ。

きっと操作上の身体性に要因が潜んでいるはず。
たとえばそれは「引く」ことができないのではないか
  

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2009年02月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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