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親鸞・吉本・雪担・金石 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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親鸞・吉本・雪担・金石

 
本当の宗教者の言葉は、譫妄の渦中から
発せられているような衝撃力をもつ。
熱量が通常とまったく異なり、
その異質性によって傾聴を動機づけられてゆく。

異質性は分類学的なもので内容分析することができるだろう。

・独自の概念が高い頻度で混入している。
・しかもそれらは世界内の具体的事物と高度に結びついていて、
その分離不能性がひたすら強靭と映る。
・比喩は理解への武器としてもちいられるが、
比喩の通常――「順接」ではなく「逆接」をも多く内実していて、
語られることの方向性が、困惑どころか驚愕をあたえ
聴き手の身体対象化を不可逆的に組織してしまう。
(以上の項目が詩文の成立条件と酷似する点に注意)



吉本隆明『最後の親鸞(増補版)』(春秋社、81年)を読んだ。
「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」の悪人正機説が
「なにぬねの?」の一部で話題になっていて、
ただ吉本のそれにたいする考えはかなり単純に整理されている。
たとえば以下――。



法然が説いたところは、
のちに親鸞が記しているように、
〈知〉と〈愚〉とにかかわらず、
また、〈善〉と〈悪〉とにかかわらず、
他力の念仏だけによって生死を超える道であった。
しかし結局は、親鸞の理解によれば、
本願他力なるものは絶対他力までゆくよりほかない。
そして、絶対他力にゆくためには、
〈知〉と〈愚〉が本願のまえに平等であり、
〈善〉と〈悪〉もまた平等であるというところから、
〈愚〉と〈悪〉こそが逆に本願成就の〈正機〉である
というところまで歩むほかなかった。
もっとも仏から遠い存在は、自力で仏に近づこうとしない。
いわば、他力にゆきつくよりほかすべがない存在である。
だから存在すること自体が、
絶対他力に近づく極北であるような存在をさしている。



本質的宗教論でありながら、
考察されている対象は、親鸞的「衆生」から吉本的「大衆」へ
分流してゆくような趣もある。
そして吉本の言葉の熱がたぶんここでの問題なのだった。

彼の『マチウ書試論』も当時の政治状況
――前衛党批判論に負う結構をあかしながら
〔※ユダヤの民にとってマチウ書(マタイ書)の置かれた
責任追及的な位置を吉本は強調する]、
けれどもイエスの具体的教説に記述が入り込んでゆくと
崇高な譫妄性を発する機微があった。
僕などはそちらのほうに惹かれたのだった。

吉本は戦争責任論、花田論争では
激烈というよりヒステリックな言葉を発し、
その世代性の生臭さは現在の読者を辟易させるだろう。
「詩人」の自負、といった病性の問題もそこにからんでいる。

ところが『言語美』『共同幻想論』でその圏域を一気に突き抜けてしまう。
自負によって文章が正義を産出しようとするのではなく、
展開の圧倒性によって
詩的直観におおわれた文が別地点に飛翔してしまった。
花田派は当時あまり表立っていなかったが
吉本のこの飛翔によって対象を見失った恰好にもなった。

話をもどす――『最後の親鸞』だ。
吉本のこの本が「悪人(愚者)正機説」の考察結果を自明性に置いて、
親鸞的「往相/還相」の考察に力点を置いたことは知られているだろう。
この考えは、親鸞が浄土宗内の先行者・曇鸞の思考を発展継承したものだ。
曇鸞『浄土論註』の肝腎箇所の吉本私訳を孫引する。



往相というのは如来がじぶんのもっている功徳をあげて、
すべての衆生に向けて施して、
一緒にかの浄土に生まれてからあと、
静かな心の統覚と、正しい智慧をもってする察知力を得て、
すぐれた手だての力を成就したならば、
生死の迷いにみちたこの世の樹林に戻ってきて、
すべての衆生を教え導いて、
一緒に仏のさとりに向かわせることである。



吉本はこれを土台に、『歎異抄』に採られた親鸞の言葉につき註記する。
圧倒的なことが書かれている。



念仏によって浄土を志向したものは、
仏になって浄土から還ってこなければならない。
そのとき相対的な慈悲は、絶対的な慈悲に変容している。
なぜなら、往相が自然な上昇であるのに、
還相は自覚的な下降だからである。
自然的な過程にあるとき、世界はすべて相対的である。
よりおおくの慈悲や同情や救済をさし出すこともできるし、
よりすくない慈悲や救済をさしだすこともできる。
しかし、さし出された慈悲が、実現するかしないか、有効か否かは、
慈悲をさし出す側にも、慈悲を受けとる側にも根拠がない。
ただ相対的であるこの現世に根拠があるだけである。
自覚的な還相過程では、
慈悲をさし出すものは、慈悲を受けとるものと同一視される。



還相とは悟達した者のこの世への凱旋ではない。
吉本は、「戻る」ということの衰弱を前提にしている。
それが「下降」という用語にはっきりと映る。
しかもその戻りによって対立物が合一をみる。
それで慈悲を受ける者/ほどこす者の弁別すら消え、
なにか光の弱い風土で、統一体ができる姿が夢想されているのだった。

しかしこれは親鸞、吉本どっちの夢想なのか。
吉本は『歎異抄』の当該部分の私訳を掲載しているだけ。
だから『歎異抄』本文にあたらなければならないが今はその余裕がない。

ただ、この吉本的な「還相」の強調は思考内での拡張使用が可能だ。
たとえば死の側からの視線もまた「還相」特有のものなのだということ。
《親鸞が、曇鸞の『浄土論註』にならって「往相」と「還相」をとくとき、
ある意味で生から死の方へ生きつづけることを「往相」、
生きながら死からの眺望を獲得することを
「還相」というように読みかえることもできる》。
資本主義の低迷にあえぐ現在の人は、この「死からの眺望」の「死」に、
「自然」「貧困」「発展終了性」「欲望終了性」などを代入することもできる。

いずれにせよ、「往相」「還相」は
吉本のライバル花田清輝の思考的鍵語「ブーメラン」をもおもわせる。
花田の「ブーメラン」もどこかで弁証法から外れているところがあるのだ。
アクロバティック、という印象をそこに加えてもいい。
そうした花田的な吉本は、この『最後の親鸞』のなかでは、
僕の知らなかった親鸞的思考の鍵語、「横超」の真髄を綴るとき現れた。



口にも文字にもあらわせないような、思惟を超えた信楽、
そこに具象化される〈真実〉と〈虚偽〉との距たり、
あるいは如来と人間とのあいだの距たり、
それを一歩でも縮めようとする所業は「横出」であり、
他力のなかの自力であった。
だがこの絶対的な距たりの自覚において一挙に跳び超される
〈信〉楽の在り方こそが「横超」と呼ばれた。
絶対的な距たりを縮めようとする行為は、
遠まわりの善であるという逆説の完成こそが親鸞の教理的な精髄であった。

すこしでも善の方へという志向性は善への接近を意味しない。
むしろ絶対的な距たりを知ることは、
その距たりを一挙に跳び超えるものである。



偏向をふせぐため、読書は宗教書つづきにし、
「現代の道元禅師」と呼ばれる川上雪担さんの、
『雪担老師語録』(リフレ出版/08年)を読む。
新潟県東山寺のこの住職の、「譫妄的崇高性」の言の数々は、
「68年世代」詩人と呼ばれながら長く沈黙、北見に住んで
その後ついに静謐な祈祷詩集『星を聴く』をもって復活した
あの金石稔さんがまとめたものだ。
この本に出会った機縁は、金石さんの恵与にあずかったため。
その彼のあとがきによると
雪担老師の言の抜書きにネット上で出会った金石さんが感激、
自分の意志で編集を進めたということだ。

書物は第一章が長い。老師による「般若心経」の独自の註解が、
語りことばで、しかも行分け多用の形式で
一行もしくは数行ごとに連続してゆく。
異言者あるいは預言者特有の奇態な日本語、
助詞も溶け誤用され、分節も崩壊しているようにみえるが、
強度に圧倒されて読みすすめると、卑近な例示も交えたその向こうには、
真理におそろしく迫る思考と博覧強記が伏在しているとみえてくる。
この老師の異言性をそのまま露出した金石さんの編集仕事は、
まさしく「詩人」のものだった。

第二章「法語」から、いろいろ引用してみよう。
まずはギョッとしながらも
雪担老師の本質を一挙につかんだ以下のくだり――



「人の死ぬるやその言やよし」
とは、同じく死語になりおわる、いやわしはそうは思わないです。
「坊主になってよかったことは、人の死に顔に接することです」
そう云うと、変な顔する人多いですが、
死人を仏という、示寂、寂を示すというんです。
たといよれちまったろうが、楽をしようが、そんなことには関係ない、
妄想曖昧模糊が失せるんです、生まれ本来の器に帰るんですが、
「どうしようもこうしようもない人間」
がたった今おしまいになったです=仏。
荘厳ですよ、わしら坐禅して坐の工夫がうまく行っていると、
死人の顔になります、はい寂を示すんです。



この日記の冒頭にしめしたことは、
たぶん吉本隆明より川上雪担にさらに適合するだろう。
その彼の閃光の言葉を以下に引く。
具体像が発話にどう取り込まれ、
聴き手のほうがどう対象化されるかに注意を払っていただければ。



一番上の位は如来さん、釈迦如来阿弥陀如来という、
むずかしいこたないです、
如来に返り点を打ってごらんなさい、来たる如しです。
他なーんもないんです、
おまえはだれだという、たいていの人、
くわしくはCD一個分ほどの履歴云々もって、
だからどうなんだと云えば、その回答はっきりしないんです。
下らんですよ。
達磨さんにおまえはだれだと聞いたら不識、知らんわいって答えたそうです、
知らないんです、来たる如しなんです。

花のように知らないんです。

どうですか、雀もたぬきも草木も空の雲も、
たいていこの、知らない部類に入るんでしょう、
人だけが知っているんです、知っている分嘘なんです、
騒々しいのは淋しいんです、
いいですか仏教が何を云っているのかわかりますか、
「人間も人間をそろそろ卒業して」と云っているんです、



この雪担老師の言葉には、親鸞の「還相」にも適用できるだろう。
さきほど引用しなかったが、吉本は「還相」で獲得されるものが
「非知」だと言明していたのだった(これも詩作と同じだ)。
浄土真宗、臨済宗の差異は雪担側からいえば只管坐打の境地だろうが、
同じ仏教の教理上の枝分かれだから共通項は無論このようにある。
ただし「禅味」の認識は不可視と可視を、苛烈な綯混ぜにもする。
以下の恐ろしい言葉を、ぜひ味わって読んでもらえれば。

《無常迅速だ、はかないだの、他の詩人の言葉を借らないんです。
我無うしてものみな、無常を見ることは不可能とを知る、これ仏教。》

浄土真宗の来迎の視線にたいし
禅宗の視線は「みない」ことで成立するのではないか。
以下はどうだろうか。



やがて死ぬ景色も見えず夏の蝉

蝉のように二百パーセント鳴いてごらんなさい。
いいですか百パーセントじゃまだ自分の皮つら残るんです、
色即是空パーラミターとほうらね、
あっちとこっちと一つこと二百パーセントでしょう。



おもわず論理展開に安直に納得しそうになる。
空蝉は夏に数多くみるが蝉の屍骸はみないなあと。
それは蝉が鳴く命を二百%燃焼させて、
自身を完全焼尽させたためだと。

そう考えて、いや蝉の屍骸なんて沢山みているじゃないかと反論が出る。
いや、出そうになって引っ込める。関係ないのだった。
「見殺すこと」が
雪担老師のなかでは叡智として組織されているのだから。


【上のミクシィアップをしたのち三村京子さんから
ラスト前の「見殺す」が仏教的認識にふさわしくないのでは、
と質問があって、それにたいし返答した一文(追加)】

すごく良い指摘です。

生き物を「見殺す」ということは、
基本的には仏教的慈悲にありえない。
釈迦の説話でも
虎に生身をあたえようとした話はあるし、
自然物と融和的であろうとした仏教精神では
殺生戒が普遍的だった。

つまり、そこのところはもう少し説明が要った。
内情をいえば、女房の帰宅時間が近づき、
記述を切り上げてしまったのです。
せいぜい「見-殺す」とか「見/殺す」とか
表記すべきだったかもしれません、
含みをもたすために。

僕がいいたかったのは「禅機」の問題でした。

現象を観念にして
観念にすることで現象を見殺さない、という
認識の再帰性みたいのが禅機にはある。
たとえば四角形をその形の閉塞性から円形に変型してしまい、
その円をもってすべての三角や四角や多角形に
救済をあたえるという認識の超越みたいのが禅にはあるのです
(それが彼らの理想境、「無」へと昇華する
--だから掛軸に「○」が書かれたりするのです)。

あるいは、ふたつのものがあるとする。
その一方に眼をつぶることで、
双数性の概念を温存しながら、
全体を点滅過程にしたりもする。

そういう現象を観念に替える操作のなかで
現象が一旦は「見殺し」にされる。
「見殺す」ことが認識の契機になる。

たぶんオウムのポアなんかは
そういう仏教的思考方法の悪用ですね。
彼らのポアは殺しと往生との短絡なんだけど
往生させるために殺すということは
すでに殺さないこととも同じだというのが
真の仏教的発想なんじゃないかな。

あ、多くの俳句がこの禅機を活用していますね。

正岡子規の

鶏頭の十四五本もありぬべし

の、「十四五本」という曖昧な把握は、
子規が病床から庭をみたからだという
リアリズム解釈が一般的だけど、
「十四五本」と修辞したからこそ
鶏頭という対象の具体性が「殺され」、
鶏頭群生の幽玄な概念が立ち上がってくる。

あるいはあんたの好きな西東三鬼を例にとろうか。

蓮池に骨のごときを掴み出す

リアリズム解釈では「骨のごとき」と比喩されたのは
蓮根ということもになるのだろうけど、
具体的な蓮根はここで「見殺され」、
やはり蓮根と骨の中間体のような--
つまり具象と観念の中間体のようなものが
ここにじつは出現している。

三鬼でもう一句。

われら滅びつつあり雪は天に満つ

これは「われら」「天」が二物対立の構造だけど
「滅び」の語が中間に置かれたことよりも、
二物が併置された、ただこのことによって、
「われら」「天」が相互に殺され、
消滅を迎えるような運動を感じさせます。

しかしその消滅を荘厳するものがある--「雪」です。
これなどもすごく禅機のはっきりした一句だとおもいます
 
 

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2009年02月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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