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高島裕・薄明薄暮集 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

高島裕・薄明薄暮集のページです。

高島裕・薄明薄暮集

 
開巻わずかにし、次の一首で、おや? とおもう。

うなじ見せ髪洗ふひとを思はしめ蕾うつむくかたかごの花

かたかご。片栗の別名。白く小柄で寂しい花をつける。
蕾の挙止はたしかに、はにかむようなうつむきが多い。
暗い湿地に寂しく群生している。片栗粉はこの植物から採られる。

この歌を読んだ第一観は、片栗の蕾に女性の俤をみた男歌ではなく、
その蕾の寂しさに自身を投影し、自身の未恋をかこちながら
なおかつその生=性に自恃をもつ若い女の歌だ、というものだろう。
作者はしかし、他の歌を読めば自明のように
雪深い地方で、妻帯せず母親と孤独に暮らす中年男、
職種も農業から派遣社員という苦しい道を渡る「男」だ。

短歌形式という問題がある。
つまり、花を中心にした植物を詠むと、
自然にそれは往古からの調べをあふれさせつつ
女歌へと変じてしまう魔法があるのではないか。

作者・高島裕はたぶん、短歌で存在の可変性を希求するひとなのだ。
それは彼の生の苦しさによるところも多いのだろうが、
これほど華麗な変身劇を目の当たりにすると、
いっそ収録歌の個々に署名などなければいいとまで願ってしまう。

註解なしで圧倒的な彼の自然詠を転記打ちしてゆこう。
そこから聴えるのは繊く、凛とした「女声」にほかならない。

鶸(ひは)ひとつ雪の梢を翔(た)ちにけり萌黄のこゑをそこに残して

花の下くぐるときのま幽かにも冷たきものがわれを包めり

咲き満ちたるまま夕暮れて桜花かずかぎりなき声となりゆく

そつと包めば蛍はともる、われの掌(て)の底に寂しき街あるごとく

月光(つきかげ)に泛びてそよぐ笹葉群(ささはむら)そこにひそかに昼つづきをり

月うけて笹群(ささむら)蒼く凍れるを残像として今日を閉ぢたり

雪掘れば雪の底ひに眠りゐる果肉のごとき青に出会へり

ひとりゆゑひとりの影をひきつれて朝々を行くわれもつばめも

薄明か薄暮か知らず ひとり目覚めて生まれたままの寂しさにゐる

掲出、最後の一首は
この高島裕の歌集『薄明薄暮集』(ながらみ書房、07年9月)の
書名の由来ともなったもので、歌集の掉尾に置かれている。

歌集は整序意識にみちて
春夏秋冬・羇旅・恋・雑(ぞう)の部立に分類され
五十首百首の単位で各章が並んでいるが、
あえて章を度外視し、一挙に女声歌を列挙したのだった。

ともあれ静謐な精神を感じる。
たとえば高島裕には仰角という特有の視線もあるようで、
それは裏返って、身の卑小さの演出をする。
恐怖にちかい感覚が謡われることもあるが
最終的には視線の方向性は祈りへと転じてしまう。
また、「上方(じょうほう)」が形象でなく音にみちることもある。
そうした機微をあきらかにすべく三首を連続掲出する。

花の下より見上ぐればいつせいに花の眼(まなこ)がわれを見下ろす

新雪の上(へ)に仰臥して目をこらす なほ降りつづく雪のみなもと

列なりてわが直上を行くときのかなしき声をかりがねといふ

二首目はひとつ前の日記の書き込み欄に引用した、
西東三鬼の名吟《われら滅びつつあり雪は天に満つ》をおもわせるし、
三首目中「いふ」には、河野裕子の名歌、
《たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり》の
「言へり」をおもった(女性的な決意こそが「言ふ」ではないか)。

安永蕗子への対応意識がはっきりした名歌もある。以下。

千年を情(こころ)のままで暮らし来ぬあるときは泥あるときは花

国を問ふ切なき声よ朝露の助詞助動詞を日本と呼べり

これは歌書中の二首連続引用で、
一首目に《日本といふ国。》の詞書がなされている。
それもあって、安永の
《日本に依り韻律に倚ることの命運つひに月花を出でず》をおもってしまう。

むろん高島は花鳥風月のみを抽象美として昇華する歌人に終始するわけではない。
生活詠から境遇がおのずと明らかになる例だってある。
ただしそれは通常、出来の点で見劣りがしてしまう。たとえば――

麦ばたけ夕日にゑまふ頃ほひをわが帰りゆく軽(ケイ)を駆りつつ

作業着のままで見に行く川花火 あぢさゐ色の少女(をとめ)ら流れ

ころころと芋の出で来る嬉しさに鍬振りてをり暑き夕べを

「軽」一字が軽トラックの略語と気づけば彼の労働の質がわかる。
「作業着」「鍬」でもそれは同様だ。それで作者の性別も判明する。
だがそれだけでは歌の調べが弱いままとなる。

ところが奇妙なことが起こる。
そこに正統な男声がとりついたとき韻律が今度は男性的に締まり、
高島の男声歌というもうひとつの個性が現れるのだった。
なんという変身容易性。
きっかけはやはり岡井隆との対照性を自身に降誕させることだったろう。

陽光は蜜のごとくにのしかかる。駐車場までひとり歩けば

四方(よも)の蝉聞こゆるままに眼(まなこ)閉づ このときのまぞ、夏の頂

一首目は「。」の使用が最近の岡井短歌写しであるというほか
「蜜」の主題も岡井、
《蒼穹(おほぞら)は蜜(みつ)かたむけてゐたりけり時こそはわがしづけき伴侶》
を想起させる。
二首目の口調が岡井をおもわせるのも明らかだろう。

この男声歌にはやがて異様な寂寥が混入しだす。
彼の労働環境を想起すれば、胸が塞がれるようなおもいとなる。列記。

四十歳(しじふ)われに幻肢のごとき夏休み、八月尽はいたく淋しも

思ふさま書(ふみ)読み暮らす秋一日(ひとひ)ふいに激痛のごとき寂しさ

横ざまにふぶくゆふべは空も野もほのかに赤し ここで生まれた

苔濡らす滝に対(むか)へばわたくしが滝そのものになる刹那あり

一首目「幻肢」は「ファントマ」ともいい、
事故切断後のいずれかの四肢が
「もうないのに」、痛む脳神経特有の症状をいう。
二首目は《ひさびさの休日。》という詞書とのスパークで哀しみが深まるだろう。
「激痛のごとき」の直喩が素晴しいが、ふとマラルメの
「あな肉体は淋し。われなべての書を読みき」とも交響する。
三首目、一字空白ののちの、原型のような口語文体の侵入は
これまた淋しさの窮みゆえのことだろう。

あ、とおもう。高島裕は保田与重郎を愛読しているらしいのだ。
本質的和調のなかに女声の艶麗と男声の寂寥が混成し、
日本的季節が荘厳されるというのはこの保田の影響からではないのか。

春雨はよろしく石を濡らせるに蛇足のごとき涙流せり

与重郎読みゐる真夜に顫へつつ苦しき野より返信とどく

「蛇足のごとき」の直喩が苦い一首目は
《義仲寺、保田与重郎先生墓前。》という詞書がなければ読みが成立しないが。

高島の男声歌は、やがて烈しい振幅をももつとも理解されてくる。
労働疎外なら、次の歌でわかる。
《派遣先の食品工場でライン作業》という詞書のある一首目も、
「下部構造」(マルクス主義的には「経済」と理解してよい)という一語に
自身が閉じ込められてしまった二首目も、
それぞれ切っ先するどい社会詠と呼ばねばならない。

8:00から17:00まで隙間無く流るる瓶の灼熱の川

人一生(ひとよ)昏き脚もて足掻けるを「下部構造」と呼びて澄ましゐき

これらの苦衷はやがて時代錯誤的・政治的「妄想」に結びついてもゆく。
いや、次に掲げる二首目は不穏ながら、
グローバルスタンダードの旗のもとアメリカ属国化する自国批判だった。

北一輝の肖像蒼く刷られゐる日本銀行券 夢に見つ

星条旗に描き加へたる星ひとつかつて日の丸なりし赤星

おそろしい自嘲の一首もある。作者の家が富山の辺境にあるとだけ註記すれば、
あとはその歪んだ自画像の迫力のみを味わえば済む。

おのが妻を他(ひと)に抱かするヴィデオなど需(もと)めて炎昼の県都まで来ぬ

しかし、この女犯願望は、世界の女性性を欣求する自己肯定にもすり変わる。

わが道に雪よ降れかし雪降らば寂しさは花、世界は女身(ぢよしん)

ではこの歌作者は女性にたいし悪辣な欲望をただおもいえがくのみなのか。
そうしてこれまでの論議のうち秘匿していた部立「恋」に
言及せざるをえなくなってゆく。

部立別に章構成された整序的歌集だとすでにしるしたが、
その部立構成を隠れ蓑に、
その展開が自己暴露的な衝撃力をもつ野心的な構成でもあったのだった。

そう、大きくいうと、四季の植物詠の女声性に陶然としたのち、
前出、「ヴィデオ」を唄う不埒な自画像のような歌がある。
このあいだを埋めるのが子供ある未亡人に「恋」をした
作者の純情歌の数々だ(それは悲恋に終わる)。
つまりこの歌群が本歌集の男声歌の中心で、
読み手は植物詠・雪詠の華麗と、恋情詠の切迫とに引き裂かれ、
結局は「短歌という器」が
作者変容の恐ろしい契機だとまずは知ることになる。

けれどもここでの恋情は
じつは男女どちらの種別でも変わらないという交換可能性の逆説ももつ。
高島は、いわばらんびきにかけて、短歌形式から性差を沸騰・消滅させ、
その情が叫喚にまでいたる機微を展覧するのだった。
つまり生活詠に即した具体的自己がこの歌集のなかにいようとも
作歌を契機に短歌媒体自体の変貌可能性を測定する、
一種、抽象詩のつくり手として高島がいるのではないか。
そのような読み筋でこそ、この『薄明薄暮集』が最大恐怖の光芒を放つ。

さて恋歌は最初、意中となる女との出会いを綴る。
スーパーのレジ係の女性の色白に悩殺されるというそれは
そのあまりの凡庸さ・散文性に、読者が赤面すること請け合いだが、
僕自身はこれを、やがて情の性差を消すための罠ともとった。
まずはそのくだり、冒頭三首ほど引用してみよう。

雪色のひとに出会へり冬の日の灯(ともし)あかるきレジを挟んで

ショーケースにケーキを並べてゐるときの遠目に見ゆる指さへも雪

しろがねの釣銭を手に受けるときぬくみほのかに指の触れたる

ところがこのありきたりの邂逅は情炎の恐ろしい孤独のゆらめきを結果し、
結局、短歌形式の可能性そのものに接触してしまう。順番に引用する。
読者は恋の進展が焦燥や彷徨、
ときに「ストーキング」に近い危険を孕みながら、
やがて季節昇華といったものにまで結実してゆく圧倒的な流れを知るだろう。

底知れぬ明るさとして立つひとを一塊の火となりて見凝めぬ

吹雪野へひとり車を走らせて日すがら白く迷ひ抜きたり

拒まるるたびわれの野に萌えあがる詩想のごときもののかずかず

体でも心でもない。薄闇に熱(ねつ)湧きやまぬこの場所が君

宵闇に蛍かがよふ岸にゐていちにんの頬(ほ)を思ふ、激しく

人づてに「迷惑です」を伝へくるあなたへ渡すまぼろしの橋

隣国をときにするどく憎むごと真夏真昼間女(ひと)を憎みぬ

われといふ瓶(かめ)をしづかに盈たしたる素水(さみづ)と思ふ、九月のきみを

謎のまま恋ひわたり来つ謎のまま着馴れし衣(きぬ)のごとくなりたり

雪豹のよぎる疾さに移りゆくきみの心の色をたのしむ

目合(まぐは)ひの原義を思ひまひるまの廊下のはてへ送るまなざし

目を閉ぢてきみの内部のくらやみを流るる水の音を思へり

ここにきみ居よと念じて鷺渡る薄暮の川をひとり見てゐる

とうぜん別離確定のち、恋の収束をしるす幾つか歌もがあり、
そこでとうとう「きみ」が完全に溶け、
いわば季節そのものとなる昇華的認識もそこに続くはずなのだが、
それらは経緯を伝えてもすこし力が弱く、ここには採らなかった。

けれどもたとえば「ここに居よ」の一首の情の凄さ・寂しさは何だろう。
むろんこれが短歌的普遍だ。
これらの歌にたいし「相手がよかっただけ」という
事件性のなかでの納得を僕自身はしない。
これらの歌に接して、高島裕の寂寥の「普遍的な」深さが
歌集全体にわたって瀰漫してゆくためだ。

たとえば最後に引く以下の三首は、
この仮面をとったりはずしたりという
アクロバットも時に印象づけるかもしれない歌作者が、
実際はその顔貌も名前を考えなくてもいい
無名の声を良質に響かせるだけの「誰か」であっていいとただ告げる。

群青のつばさわが背にあるごとし世の人に名を呼ばれて立てば

亡き父の寝床の位置にわれも寝て見分けがつかぬまでに肖(に)てゆく

百年の家居の闇に抱かれつつ童形のまま老いゆくわれか

なんとも素晴しい歌集だった。つい歌を引用しすぎてしまった。
 

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2009年02月20日 現代詩 トラックバック(0) コメント(1)

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2012年06月09日 編集












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