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禁煙日記・さらにその後 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

禁煙日記・さらにその後のページです。

禁煙日記・さらにその後

 
禁煙がつづいている。
もうじき朝が来れば丸四日続行ということになる。

部屋の空気は女房が喜ぶほど澄んでいるし、
煙を吐き出す換気扇を回す必要もなく、
おかげで外は寒くても部屋内が随分暖かい。

ひとつひとつ挑戦課題ができる。
喫煙イメージを喚起する日常の個々を
喫煙なしにどうこなすか、ということだ。

昨日は読書でそれをした。
日曜までは時間の長くなる読書を
喫煙イメージを誘発する可能性ゆえに嫌っていたが
昨日月曜、それに踏み切ってみると
意外や、そのイメージがぜんぜん現れない。
一冊読み終わり、やや難解本へと切り替えても
結果は同じだった。
読書と喫煙が相補関係だと考えていたが、
実際はそうでなかったのかもしれない。

禁煙に踏み切ると
煙の刺激で潰れていた舌の味蕾が復活し、
ものの味の多様性がわかるようになって
食欲が増し、肥るという。
あまり肥りはじめたという自覚はないが、
腹は減るようになった。

で、昨日の昼などは近くのコンビニに弁当を買いに。
安価な唐揚弁当を平らげたが、
食後、強烈な喫煙イメージが湧きあがった。
唐揚の味の安っぽさが
煙草の煙の安っぽさと観念連合したのか。
慌ててのど飴を舐めたが、
このときは喫煙イメージを断ち切るのにじつは大変だった。
丸三日以上の禁煙の実績が無駄になるかとさえおもった。
ともあれ家に煙草を置かないこと、これに尽きる。

さて喫煙イメージとはなんだろうか。
フラッシュバックというにちかい。
ある行為をしていた自分と
その行為に伴って喫煙していた自分が
安穏の「対」として
実際の画柄のように脳裡に復元されるということだ。
この復元自体が、喫煙を誘惑してくる。
脳の再帰性が問題なのだった。

喫煙イメージに対抗するために
映像学におけるイメージ批判を代用することはありうるか。
それは画柄の自明性と物語創造の自明性、
それらが癒着した映画などを批判することだった。
そこではイメージは映画の道具となる。

ところが真の映画ではイメージの創造と
自身の組成の創造がパラレルで、
その成立過程の不安により、
実際はイメージ傾斜が起こっていないだろう、
という考えになる。
そうだ、この意味では度重なる喫煙イメージの復活は、
安直な映画の方法=クリシェと、
ありようが似ているということはできる。

イメージ批判はとうぜん、
一神教的な「偶像破壊」に行き着く。
なぜ偶像破壊が必要なのかといえば、
偶像保持者が特権階級とひとしくなれば
そこに富=イメージの偏在をもたらすからだろう。

イメージの多様な国が強国であるというのは
半世紀以上前の日米戦争でも明らかになったことで、
これは以後もずっと続いている事態だ。
たとえばアフガン/イラクはアメリカと
「イメージの外側で」闘った。
イメージ=思考の驕り=ブルジョワの着膨れ=瘢痕。
禁煙イメージの正体も
大方、その程度のものにすぎないだろう。

それを断ち切るということは
真の映画のように
「イメージによらない思考」を貫徹するということだ
(草創的な映画は事後的にイメージをつくるのみ)。
となって、一神教的、苛烈な砂漠風土が
脳の芯に出現してくるような錯覚に陥る。
禁煙は、イメージによらない思考風土に
脳をつくりかえることなのではないか--
そんな苛烈な「錯覚」がどうやら生じはじめているようだ。

いずれにせよ、喫煙イメージが
「自己郷愁」の一種だという点は確かだろう。
心地よい安穏。慣性の実質に入り込んでいた自己親和性。

たとえば僕は昭和レトロブームは資本の産物とだけみなし
実質は大嫌いだ。
下北沢再開発も再開発のままでいいし、
自分とほぼ同時代の浦沢直樹が描く『20世紀少年』の、
秘密基地も万博傾斜も、
「あったな」とは確認できるものの、
あそこまで執着に値するものではなかったと考える。
あれらはすべて「物語の方便」。
けっきょく、気持悪さを予感し、『ALWAYS』はみなかった。
音楽では「昭和歌謡」の生産性の低さを最終確認した。

となると昭和レトロを批判した原恵一によるアニメ、
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』だけが
映像による昭和レトロの嚆矢にして
最初の批判だった--それだけで収められるべきだった、
そういう判断となる。
《なつかしくて頭がおかしくなりそうだぜ》
というイメージ支配にたいし
しんのすけのように「ズルいぞ!」と喝破すること。
大袈裟なようだが、喫煙イメージ批判はそういうことにも似ている。

いずれにせよ、禁煙では自分の脳の芯との対話がしいられる。
このこと自体は退行的な事柄だ。
その脳の芯に曼荼羅的な実質を幻覚してしまえば、
対話は一挙にニューエイジ的にもなる。
脱体系・無時間・合体容易性などのイメージが
自身の健康イメージに安直に結びつく危険もあるのだった。

もともと70年代以降のアメリカン・エリートの出自は
ニューエイジにあったとみるほうがいい。
マリファナ→LSDのセカイ系体験は
空気「浄化」の禁煙運動に即座に反転する。
禁煙はセカイ系のもつ世界諸要素の排除を精神淵源にもっていて、
それを「健康」の名のもと
自己身体に再凝縮させる営みだったこともわかっている。

けれどもそのような反社会的・反歴史的な不平意識で
嫌煙ファッショに武装対抗しようとする立脚が
もうどうしようもなく旧くなった。
認知した「敵」と同等の姿になり、そこに入りこまないと
敵はもう諫止できないものになっているのだから。

ともあれ禁煙実行で自分の躯が
いかに資本主義的・植民主義的な混濁をあたえられた
歴史の産物だったかということがわかってくる。
わかってくるのだが、
以上書き付けた喫煙イメージ批判から
一神教的偶像崇拝禁止、昭和レトロ批判、
さらにはニューエイジ批判をもってくるというのは
やはり禁煙で正常な判断をなくしたうえの勇み足だろう。

ともあれチャンピックスで可能なかぎり
禁断症状が遮断されているとはいえ、
禁煙は深層では禁断症状との闘いという様相をもつはずだ。
だがたとえばコクトー『阿片』後半のように
凄絶な自己否定/肯定の点滅なんかありはしない。
随分と散文的に禁煙続行時間が過ぎてゆくだけだ。

チャンピックスって、アメリカの薬だろう。
悪癖遮断について自己神話をまつわらせない、
そんなアメリカ的思考が
すごく巧みに(つまりストレスを極度に軽減して)
禁煙成功へと導くチャンピックスには装填されているとおもう。

そうして、たった一点、アメリカ的恐怖だけがのこる。
つるり、とした禁煙成功体験の核心に
「フラッシュバック可能性」の恐怖だけが
うすく滲むという眺めなのだった。

たぶんそのようなかたちで
僕の禁煙は
「禁煙持続」という意識のまま終結するのではないか。

喫煙イメージのつよい行動のうち
いまだに踏み切れないでいるのが創造的執筆だ。
ある自覚がある。
僕はそういう執筆のとき、自分の脳内物質の幸福性を
かなりつよい確信で自覚してきた。
それらが騒ぎ交易されることで
詩的なインスピレーションが湧き上がる自己感触があった。

この脳内物質の備給を
少し前まではニコチンが宰領していたわけだが、
現在の感覚でいうと、
ニコチンが遮断されたいま
これらの脳内物質は分泌されないまま
まだ「行き迷っている」感じがある。

つまりこの禁煙の過程で
まだ最終的な「自己親和性」を再獲得していない不如意がある。
だから、詩作にまだ踏み切れないし、
たとえば詩書の書評執筆にも踏み切れない。

この感覚は当面、つづくのだろうか。
これはじつはかなり怖い「自己喪失」の感覚だ。
フロイト「悲哀とメランコリー」によれば
メランコリーの誘因は「対象喪失」だが、
その「対象」のなかに「自己」も入るという
「喪失」そのものの瞞着が
僕はメランコリーの空間/時間的実質だと考えている。

中間結論的にいうと、
依存対象の喪失ではなく
自己親和性の未回復によって
禁煙がメランコリーの引き金になるのではないか
という疑念があるのだった。
 

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2009年03月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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