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禁煙日記・またまた ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

禁煙日記・またまたのページです。

禁煙日記・またまた

 
煙のようなものだ、とおもう、
自身の喫煙イメージなんて。

禁煙丸五日を越えた。
丸四日の前回、
フラッシュバックのように襲ってくる
喫煙イメージについて考察した。

ヘンなことに気づく。
「煙草を吸う自分をイメージしていけない」は
否定のnotをどこに置くかで構文が変化するのだ。
つまりそれは
「煙草を吸わない自分をイメージしろ」
へと容易に変型する。

ここには「イメージしろ」という
強烈な命法の残像がただよってしまい、
結局は逼塞的になる。
この「想無想」、たしかにやばい。

ジョン・レノン「イマジン」に
うっすらと漂っていたもの。
あるいは「想像力は死んだ、想像せよ」の
ベケットの言は
吉岡実が引用して人口に膾炙した。

さらにははっきりと記憶にのこっていないが、
ブランショの『期待/忘却』では
「期待」にまつわる構文が変型されていって、
「待たないことを待つ」という、
絶望と期待の中間体のようなものが最終醸成されたはずだ。

いずれにせよ、自分に関わる想念は
とうぜんメタレベルをもふくんでいて、
「想無想」が「想」「無想」どちらの領域に確定されるのかは
けっきょく「自分」の関与性の問題に終始するということだ。

蛇が自分の尾を噛んで
ぐるぐる回るようなこの思考の空中領域は
「非知」のままに置け、というのが東洋的作法だろう。

「イマジン」などは楽観的アナキズムと
口やかましいひとに非難されたけど、
たぶんそこでは「非知」の質の東洋性、
その考察が抜けていた。

ブランショといえば、遅ればせながら
去年の秋に出た「現代詩手帖」の
生誕百年を記念した増刊を最近覗いた。
デリダ、ナンシー、ラクー=ラバルトに称賛を受け、
そうした人材とさらに交感するブランショは
往年の『文学空間』のような
理解しやすい所論をもう組み立ててはいない。

往年のブランショなら否定神学の枠組を堅持して
「作者の死」などがテキスト論理的に
どう変遷的に組成されてゆくかを見ればよかった。

ところが死ぬ前20~30年間のブランショでは
否定のpasが複雑に仕掛けられ、
一文にたいする距離が変化すれば
その見え方が変わるような書き方をし、
しかも各文が厳密な秘教性で結ばれてゆく。

これはフランス語の性質を吟味し、
その極北でのみ表現をおこなったようなもので
実は日本語思考の理解を超えるものなのではないか。
僕は増刊を半分読んだところで読了を諦めてしまった。
ラストの年譜は読んだけど
(「顔のない」ブランショに年譜が成立するとは!)。

話がずれた。

喫煙イメージの否定とは
「煙草によって人格をつくった自分」という伝説に
否定の逆落としをかけることかもしれない。

自己信頼的にはこうおもう。

・かつての自分は生活の節目を大切にし、
そのそれぞれを好きな喫煙で彩った。
(こう書いたフレーズは
喫煙を笛吹きなどに変えれば西脇的だと気づく)

・かつての自分はヒートアップする脳髄に
淋しさによる落ち着きをあたえるために
喫煙行為を愛着した。
(しかし実際はそれは
執筆最中のチェーンスモーキングという
最悪な事態へと突入していった)

・ひととの会話では喫煙で律動をつくった。
(むろん多くの相手はそんなことを考えもしなかったろう。
「間のもたせ」「気取り」「煙の向こうからの無礼な睥睨」、
それらを不快感をもって受け止めていただけではないか)

・散歩などでは移動する視界に縁取りをあたえ、
それを完全に絵巻にするために喫煙した
(ここでは視覚記憶を強化していたのかスルーしていたのか。
たぶん実質は喫煙によって「上の空」が増したのではないか)

そう、( )でセルフ突っ込みを入れた。
実際の喫煙はパブロフの犬的な反射にすぎないのに、
書いたことでは罠のように
「詩的な」自己美化がまつわっている。
たぶん喫煙イメージの廃絶は
その程度の薄甘い自己愛を断ち切れ、ということなのだ。

脳刺激的な行為は多々ある。
それらはすべて依存をもたらすという意味で
「ニコチン中毒」といった「たったひとつ」が
特権的=文学的に扱われていいわけではない。

酒や珈琲など嗜好品だけの問題でもない。
たとえば食事だって脳内快楽物質を発する。
それが不足して、空腹信号が躯に点る。
脳刺激は個体の生存に関わる本質だった
(セックスもある程度これに似る)。

ニコチンはそれに文化的な負荷を加えたのだ。
だから禁煙では人それぞれの思考が
文化論的に禁煙自体を処理をしなければならなくなる
(naruさん、それはきっとケータイ依存でも
同じじゃないだろうか)。

ところがたぶん快楽物質の具体比率が異なる。
ニコチンがたとえば
「落ち着き」「リズム」「節目」をあたえたのは事実だとしても
その効用は他の依存行為との具体比率の差として
記載されたもので
実際は詩的ではなく散文的なものだったのではないか。

ともあれ禁煙はたぶん「物」によってつくられた自己契約から
文学性を除去せよ、という命題に僕の場合はなるらしい。
だから禁煙日記を「自己」の問題として
延々書くことができてしまう。

しかし「自己対自己」の回路など
傍からみれば「再帰性」的定点の枠組に収まってしまい、
そういうものを事大視するのは滑稽だともわかってくる。
冒頭で「煙のようなもの」と綴ったゆえんだ。

むろん「煙のようなもの」には利点がある。
そのかたちの変化、拡散、無化を精確に言葉に転化すれば
そこに「詩」が出現するのもわかりきったことだ。
煙の物質性だけで詩を書くことは当然できないから
使用語には交易が生じ、
転化の晴れがましいざわめきも生まれる。
それらが最終的に「煙のように」拡散し無化すれば、
そこには定着性をもたない、最上の詩が「流れる」。

物質的想像力ということでいえば
(つまり口唇性愛性を離れれば)
何か喫煙は「気体的なものへの期待」だったろう。
ボードレールはたぶんへヴィスモーカーだったはずだが、
彼が「雲」を眺めることに拘泥したのは
喫煙者特有の「気体性への期待」だったはずだ。
草森紳一もそうだった。

それは己の臓器が煙でできている幻想にもずれたのではないか。
「霞を食って生きる」素晴しさを
「詩人」気質の者はみな考える。
世俗性の否定というよりも
それを緩慢で目立たない自殺の位相に置けるからだろう。
喫煙は、男性的拒食であり
人前に晒しても恥しくない「文化的自慰」だった
(ケータイもそうか?)。

前回も書いたように、禁煙はたぶん
その成功によって煙草そのものの存在を
忘却しつくすことではない。
煙草の存在、かつて喫煙していた自分を念頭に置きながら
持続的に「いま煙草を吸っていない自分」を
ほんの少しの将来へと積み上げつづけることなのだ。

この「積み上げ」を文字通りに受け取れば
ジジフォス的「苦行」がイメージされるかもしれないが、
それを「煙のようなもの」と考えれば、
空想のある種の質の領域へと
問題を単純に閉じ込めることができる。

そしてこう呟けばいい、
かつて自分が煙になろうとしておこなっていた喫煙は
最終的に自分が死に、煙となったときに成就される。
それまでに煙草を吸い予行しようと
予行をやめてしまおうと
結果などは何も変わらないのだ、と
 

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2009年03月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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