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禁煙日記・さらにさらに ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

禁煙日記・さらにさらにのページです。

禁煙日記・さらにさらに

 
喫煙がある一定の文化構造を
つくりあげたことは自明だろう。
もともとは西欧列強の
植民経営からの収奪物だったのに、
最初の刺激のつよさ、
口唇に関わる、という「運命」によって
基本的に女子を排外する
ホモソーシャルな文化を煙草はつくりあげた。
宮廷、カフェ、パブは
農作業場より先験的ではないか。

喫煙は無責任な噂話から
政治的な慨嘆までもを自在に彩った。
そういう男同士の話に参画するための
儀礼的道具として煙草が指名されたともいえる。

東洋的煙草はそれにもまして独特だったろう。
九鬼周造『「いき」の構造』にしめされた
「粋」の与件に「諦観」が入っている点は
わりと取り沙汰される。
喫煙はどうもそれにも関わっていないか。

無垢・無辜であることからの離反を
他人にそれとなくしるしづける。
自身の生命の有限性を
心の内側に折りたたんで、
自嘲と余裕の双方をみせる。
生活のまにまに生じる分節を
喫煙でくきやかにしてみせるこの時間哲学のために
「私は肺を煙で縛った」と明かしてみせる。

煙管、羅宇、煙草盆。
江戸文学では「煙草盆」の中身は
小間物(吐瀉物)ていどに「汚い」ものとみなされるが
何かそれには自由な精神の、
みてはならない残骸のような感覚があったのではないか。

生命の有限性は
煙草からの煙の表象によるのであって、
喫煙の「健康被害」によるのでは決してなかった。
そのような転轍をうながしたものとして
全世界的なフィルター煙草の登場があったのだろう。

まえにも書いたがそれ以前、
両切りの紙巻煙草は
吸殻を捨てたとしても
アスファルト舗装されていない土の道や野っ原で
ただ土に還るものだった。

幻影。
深秋の枯葉が
冬のどこに飲み込まれたかという思いを呼ぶように、
粋を競い、いきがりを誇った煙草も
また土の深くへと吸われてゆく。
煙草のただしい廃棄場所が野だ、という前提があって
煙草盆のゴミが気味悪がられたのではないか。

ともあれフィルター煙草は
煙草にまつわるそうした幻影の巡回を徹底的に崩し、
同時に有限意識とは立脚が別の健康被害を
越権的に植えつけるようにもなって
もしかすると喫煙は文化として
終焉に向かったのかもしれない。

数年前の早稲田通りでの出来事。
二文での講義のため道を急いでいた。
糠雨、寒い夕方。
わりと風がつよく、傘は用をなさない。
暗鬱な天候と、時間の半端さもあり、
早稲田通りの歩道はほとんど人影をみかけない。

早足を繰りつつ、歩行喫煙をしていた。
明治通りとの交差点。
70がらみの爺さんがふと僕に声をかける。
「新宿区は歩行喫煙しちゃ駄目です。
煙草をすぐに消しなさい」。
ボランティアではなく
一般人の「正義の発露」のようだ。

カチン、ときた。
この人通りのまばらさゆえ僕の歩行喫煙は
完全に僕の身体の周囲のみで完結していて、
一切の危険がない。
この風では副流煙は息を吐き出し一秒も経たないうちに
完全に拡散してしまう。
しかも僕は携帯灰皿を常備していて、
吸殻を路上に破棄放置したことなども全くない。
おまけに僕は煙草を買うことで
税金すら納めてもいるのだった。

誰にも、つまり僕に注意をした老人にさえも
迷惑をかけていないことは如上明らかなのだが、
「区条例」を楯に、ひとの行動の自由と細心さに
お節介を超えた権利意識で容喙してくる。
誰かの自由に文句がいいたいのだろう。
しかし彼は排気ガスを吐き出し
大気に汚染と温暖化をもたらす自動車には文句をいわない。
姑息に相手を選んでいるのだ。

しかし見間違えたのだとおもう。
僕は「殺気」を発するとすごく嫌がられる、
ヤクザっぽいタイプだとよく言われるのだ。
彼は迫り来る夕闇で判断が狂ったはずだ。
注意をした老人をじっと見返す。
途端、彼に緊張が走ったのを見て取った。

この場合の論理機制はこうなる。
上記のように人も疎らなこの通りでの歩行喫煙で
僕は誰にも迷惑をかけていない。
そういう歩行喫煙まで禁じた区条例は
あきらかに基本的人権の尊重をうたう憲法に違反している。

ただ区を訴えるのは面倒だ。
たまたま僕の喫煙に口を出したあなたが奇貨だ。
あなたを法的当事者に
喫煙の自由が侵害されたという係争を起こそうとおもうが如何。

ま、やめたけれどもね。

嫌煙権というものが登場して、
喫煙権を再構築する必要が出てきた。
それで「人には不健康になる権利が保証される」
という論理機制も出てきた。
僕はこれを、つまらないことだとおもう。

「不健康になる権利」の基盤の脆弱さは、
「健康な自己身体を運営する義務」の前に吹っ飛ぶ。
「世界」への倫理的介入がもとめられるときに
「不健康になる権利」ではいかにも生ぬるいのだった。
ただしこれはフィルター煙草登場以後に
確定的になった史観である点、注意が要るだろう。

喫煙が「諦観」だったころの美しさは、
嫌煙が出てきて、反射的に
喫煙まで権利になってしまった現在をもう覆っていない。
嫌煙は密閉室内では文句のいえない正当な権利要求で、
それらの絶対的な正しさからは
自分の「小さな悪」など退場させなければならない
--現在的「身体」はもうそのように規定されている。

それが厭なら、山奥といった場所を選び、
喫煙シーンがもうなくなってしまったTVなども捨て、
煙草の煙によって劣化を早めるコンピュータも利用せず、
「現在」からひたすらに離れなければならない。
離反価値があって、しかも自分の与する価値に正当性がなく、
相手の主張にこそ圧倒的な正当性があるとき、
相手の主張の仕方をつかまえて
ファッショと名指し反論することにはもう実効性がない。

そういうときは「退場」の仕方を考えるべきなのだ。
自己身体を喫煙という場から退場させるか。
自己の社会性を「嫌煙的現在」から退場させるか。
ともあれそうして、喫煙行為という歴史的迷妄に
幕がおろされてゆく。
そしてこの趨勢にこそ
自分もまた歴史的に加担しているという意識が生ずる。

そう、現在の禁煙に文化性があるとすれば、
自分は「立ち止まりながら」
何か大きな誤謬の退潮、その一端となっているという
仮の参加意識が助長される点だろう。

喫煙が諦観に関わっていた点を
美学的に帰結させようとするとここにしか行き着かない。
それ以外の喫煙にまつわる理論武装は、
ニコチン依存を断ち切れない精神の弱さの言い訳だ。
現在の自分はそうおもっている。

平岡正明の文章の一節を読んで、
自分は子供時代、
指の爪の三日月をよくみていたなあとふと憶いだす。

初めての喫煙のとき、
煙草をつかむ指がすごく意識されたはずだ。
そしてそれにライターか何かで点火するときも。

またまた大島弓子のマンガを引用すると、ある短篇に、
煙草を口に咥え、息も吸わず、
ただ自分の指が差し出した煙草に
ライターの火をもってきて
煙草に点火しようとする
少女(ヒルデガードといった)が描かれたものがあった。

大島的な「うぶ」は一種、存在の理想で、
かつまたそれは理想ゆえに救済にも導かれる。
むろんこれは煙草=不良、のイメージのつよかった
70年代の産物(描写)なのだけれども。

逆にいうと煙草の点火は、
煙草のひと吸いともう「一致」している。
煙草の煙の肺への充満は
脳神経の沈静とも「一致」している。
口唇への「咥え」は
その姿の自分が誰かの視線によってシャッターを切られる幻想と
これまたもうすでに「一致」している。
あるいはたとえば煙草をマズいとおもうことと
「旨い」とおもうことは喫煙ではつねに「一致」している。

そうして多元化している自己内在に
瞬時に「一致」が灯されてゆく。
肺は木炭のくすぶる深い星座となり、
「私のなかの謎」は美しい暗部として拡がる。
紙一枚ほどの厚さもない不如意を
後生大事にすることで
自己愛的自己を美学的に存続させようとする営み。

いったい人間は「器官なき身体」なのか、
「身体なき器官」なのか。
「器官なき身体」が悲鳴と苦痛の身体だとし、
「身体なき器官」が無秩序の内在感覚だとすると、
喫煙はこの二分法では「綯混ぜ」として
優位的に身体に作用するとわかる。

「器官」=「臓器」=「オルガン」=「秩序」。
身体は本来はこの等号に内在的に縛られているのだが、
喫煙はそれをすべて「喫煙的秩序」といった
「仮のもの」に置き換えてゆく。

それは自己身体の無意識化という魔法にも関わっている。
言いかけたこと。
喫煙者が自分の身体を無意識化している証左は
彼(女)が自分の指をみない、という点にはっきりする。

話をもどすと
喫煙者の美学はたぶんこの「仮のもの」がすごく好きなのだ。
それで「現在」はこの「仮のもの」の軸が
「喫煙維持」ではなく「禁煙実行」のほうに
よりつよく傾斜していっている。
僕は禁煙をしはじめて、
自分が以前よりもさらに「仮の者」になった気がした。
だから早稲田通りの爺さんに一旦おもいえがいたような
喫煙権利の論理機制もすべて捨ててしまった。

とエラそうなことを書いていて、
ここで告白しなければならないことがある。

昨日は夜の23時から池袋シネマロサで
松江哲明くんの新作、『ライブテープ』の試写があった。
改めてどこかに書くが、作品は着想そのものがすでに傑作で、
僕は三村京子さんなどとその打ち上げに参加した
(翌朝、始発で帰宅すればよい、という構え)。

その会場。畳敷きの20畳程度の部屋だった。
若い音楽好き、映画好きがあつまったとあって
喫煙者比率もすごく高い。
そのなかで僕は深夜の飲酒をしている。
自制の意識が弱まり、
どんどん喫煙イメージが湧きあがってくる。
しかもこれだけ副流煙を吸っていれば
もう喫煙したも同然ではないかという
都合のよさゆえに悪魔的な判断ももたげてくる。

最初はパーカッション/サックスのあだち麗三郎くんに
手持ちの煙草を一本もらいライターを借りた
(とうぜん僕自身は煙草も点火道具もない)。
「キャスター1」という銘柄で、
タール1mg、ニコチン0.1mg。

ありがたいことにこの手のものを吸っても
ぜんぜん脳神経にニコチンが浸潤する感覚がない。
ずっとエコーという強い煙草を吸ってきた自分にとっては、
これは喫煙の仕種のための銘柄であって、
喫煙の実質のための銘柄ではないという判断が立つ。
こういうもので喫煙イメージを補填するのは
アリだな、とおもった。
ニコチン摂取によって
それまでの禁煙過程(蓄積)が瓦解するのに較べれば、
いっときの喫煙イメージを
時限つきで解放するなんてさほど怖くないのだった。

あだちくんの煙草がなくなって
店に設置されていた自販機から
これまた買ったことのない
「マイルドセブン1」というのを買ってみる。
ニコチン、タールの含有量は先の銘柄に同じ。
そんな煙草以前の銘柄を
眠気の襲ってくる喧騒の飲み屋で
本当に「少しずつ」という感じで吸った。

こちらは計3本。
店から出るとき買った煙草と
店から借りた(貰った)ライターは
置き忘れたように演出した。
結局、禁煙特有の脳の芯の不充足感はそのままだった。

喫煙イメージの沸騰にたいして、
イメージをなぞる行為を少しだけ犯してしまおうと考えたのは
やはり「仮のもの」である自分自身だ。
何かに流され、何かに流されない。
その計測を自分なりにしたつもりでいるのだった。

それにしても惜しいことをしたとはおもう。
この土日、チャンピックスがいよいよ効いてきて、というか、
非喫煙の日常が完全な慣いとなって
喫煙イメージも口淋しさもなくなってきていたのだった。
それで日曜日、松江くんの試写に行く前は、
のど飴を丸一日舐めない、という実験を自分で敢行していて、
それにさえ成功してもいたのだった。

この計四本の喫煙で
脳のニコチン受容快楽が蘇ったわけではないが、
喫煙イメージの除去にかんしては三日、後戻りしただろう。

ただ、「仮のもの」である自分は、それでいいとおもっている。
これが今回の日記の骨子
 

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2009年03月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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