町田康・宿屋めぐり
以前、小説の要件を二系列かんがえたことがある。
第一の系列は穏当だ。
① 物語
② 人物
③ 文体
④ 描写
⑤ 感情移入性
第二の系列は過激だ。
① メタ性(小説であるという自己言及性)
② 一貫的な内在法則性
③ 主題論的展開性(これが容易に真実秘匿性に転化する)
④ はじまりがあって終わりもあること
⑤ 多文化連絡性
さてようやく去年八月に刊行された町田康『宿屋めぐり』を
丸一日かけて読んだのだが、
第二系列の小説要件を期待しようとして
それが第一系列の要件に刻々差し戻しされる――
これが町田の小説の読解体験なのかとおもった。
町田の小説は落語体を源泉に
詩体ともまごう過激なノンシャランを終始分泌する。
リズム。異なる語彙体系や語尾体系の混在。ちゃらけ。緊迫。恫喝。
にょきっと伸びてくる、ぶっきらぼうな棒体。綾だらけ。
『宿屋めぐり』の場合は傑作『告白』にもまし、
「偽の世界」の宿屋めぐりが主題であることによって、
景物や説明に現れる時代・地理符牒が過激に分散し、
読者にとっての統一性が崩壊するよう顧慮されている。
時代が紀元前なのか江戸なのか昭和の戦前なのか現代なのか。
場所も日本なのか中国なのかナザレなのか。
そういった紛糾のために地名まで続々と発明され、
たとえば「大阪」をおもわせる「王裂(「おうさけ」と読むのだろう)」が
登場したりするし、
主人公の名もその能力の変遷に伴い、
「鋤名彦名(和泉大太郎)」が「燦州ポポポ呪師」にさえ変化する。
町田の文体はそのリズムや奇怪な固有名詞の提示センス、
詩と同じく音韻類同を軸に駆動する唯一無二のものだから
彼のものと即座に判明してしまう。
これが第一系列中の「文体」か第二系列中の「メタ性」なのかを
町田が現代小説の第一人者のひとりとなった限りは
もう分離できなくなっている。
ただし執筆に七年もかけられた本作では
リズムが湿り、突出力がなくなり、その反面で既視感もましているので
彼の初期作のような爆笑喚起力がなくなってしまっている。
端的にいえば自己模倣の続いたせいで旧くなってしまったということだ。
なにしろSFともまごう時空設定だ。
だがアメリカの尖端SF小説のような第二系列要件の③が
峻厳に自己組織されていないようにおもう。
比喩的に綴れば、町田の小説は以下のように進むのだった。
「組み立て→壊し→事後付加(人物の陰謀化)」の連鎖。
この括弧内の経緯を真剣に考えてみればわかるが
それは読者に徒労感をあたえるものにすぎない。
何か真の小説に必要な同調の歓びを欠くのではないか。
「主」の代参で権威ある社に刀の奉納に行く、
というのが主人公に課せられた設定(森の石松に似る)。
ところがこの「主」には小説上、ルビが振られておらず、
「ぬし」「あるじ」どちらに読もうかと思案しているうち
「しゅ」の様相を次第に濃くしてゆき、
結果、「ぬるぬる通過」を契機に「偽の世界」を冒険的に彷徨してゆく主人公も
その受難の濃さゆえにイエス・キリストと二重写しになってゆく。
そして作品前半最後近くでは「エリ・エリ・ラマ・サバクタニ」を
みずから悲唱することにもなる。
ただしこのイエスはその自己正当化ゆえに悪人だ。
不作為、未必の故意による他者の見殺し、破局の放置が連続する。
これを彼は内的発語によって誤魔化す。
というか言葉そのものにベンヤミン言語学のような罪障が与えられている。
同時にその内的発語はつねに統合失調症例として信憑を欠いている。
けれどもそうした「悪」をもってして逆に「主」の全能が証されるとすれば
作品の主題も悪人正機説の変型へと接近するはずなのだが
町田の立脚がぐらついていてそうはならない。
町田はインスピレーションの爆発にだけいそしんでいるとおもえた。
ところで主人公の自問自答は町田小説の特徴でもある。
河内音頭の河内十人斬りを素材にした『告白』では
無告の民にひとしい者に「世界への違和」といった哲学的課題が生じ、
それが主人公たちの語彙能力をもって綴られたから強度があった。
これを河内音頭的な語りのリズムが後押しし、
最終的には彷徨過程がのっぴきならぬ破局過程に接合されていった。
このとき小説の生地が人物を軸にした有機性にあったと判断ができた。
ひるがえって『宿屋めぐり』の主人公は
「人格分岐」という「人格」を体現している。
したがって語彙体系・語尾体系は自在に変化し、
その自問自答もむなしく作品内を木霊してゆく。
読み方が甘いのかもしれないが
彼が陥ってゆく物語的混乱への自己解釈、あるいは「主」との対話は、
書かれている「通り一遍」のものでしかなく
(つまり歴史学的、哲学的な相応がそこに秘蔵されていない)、
この六百頁の大作は、膂力にみちたものとはおもうが、
執筆にかけられた七年間という歳月は
町田の才能のためにも徒労と感じられなくもない。
エンジンがかかるのが遅いとはいえ
個別の破局描写、残酷描写はすごいのだ。
「奇術ではなく奇蹟によって」大衆の人気を得た「燦州ポポポ呪師」が
その火炎噴出、水噴出、空中浮遊を飽きられて
(ここで彼は神性をあたえられている)、
ついに第一線の小屋を干され、「変顔術」で起死回生を図るくだり。
ところが自滅的な話芸披瀝ののち囃し手のリズムが良すぎて、
彼は「燦州ポポポ呪師」ではなく
その一個前の「和泉大太郎」の顔まで暴露してしまう。
それは尾鰭がつき稀代の大罪人となってお尋ね者の報せに乗る顔で
ここを起点に客席にはパニックが起こる。
以後の「破局」の描写も勢いをもちながら最良小説のように精密なのだった。
ここが前半最後のハイライトとなった。
これはイエスの奇蹟がそれ自体の神性によるものなのか
貸与されたものなのかという選択命題をも組織し、
しかも「燦州ポポポ呪師」への「偶像崇拝」が宗教離反的ではないかの
自問自答をも高度に孕んでいる。
同時に「変顔術」自体は京劇芸の一要素となった中国伝統芸にも接続していて
(呉天明の映画『変瞼』でその全貌が知れる)、
だからこそ描かれる破局も多元的な光源体と映る
(このくだりで小説全体が終わってもいいのではとおもった)。
そう、第二系列の⑤が見事に実現されていたのだった。
宗教性への疑義はこの『宿屋めぐり』の根幹だ。
「主」の残酷は、失敗をしでかした者の眼球を抜き、
出来上がった眼窩を熱してたこ焼をつくるという、
脳内が痒くなるような残酷描写(全体の前半にある)に露わだが、
後半、この残酷を主人公が継承する。
ある劇団の精神的首魁「別鱈珍太」を、彼から愛人を得ようと
主人公がいたぶりつくして殺害するとき
これまた描写が理想的に「冷ややかに沸騰する」。
神性の要件としての残酷。その継承。
しかも「珍太」は当初、マゾ的受難劇の英雄として作中に現れ、
その劇団経営も「神のような無謬」=狡猾さでおこない、
劇団は売春組織体とも自己啓発セミナーともフーリエ的共同体とも
あたかも鵺のように性格を定めないから
この「珍太」殺しは第一の神の監視下、
第二の神を第三の神が殺戮したとでもいうような複雑な感慨を帯びた。
先ほどから「前半」(「後半」)という書き方をしているが
単行本ベースでいうとこの本には章立てがなく
つねにぶっきらぼうに「一行アキ」があるだけだが、
全体の真半分の三百頁の一行アキ箇所を
全体の前半後半、その分水嶺とみなすことができるだろう。
さてその後半は珍太の惨殺というハイライトがあるが、
展開がはっきりと(どうしたんだろうというほど)シブってくる。
人物にたいする発明能力が消え(大林宣彦の『転校生』を典拠にしたのか、
御用提灯で荘厳される伊藤大輔的「捕物」のなか
主人公の躯がぶつかった「おばはん」の躯に入れ替えってしまうくだりには
愚弄すら感じられた)、
物語の推進力が弱体化し、
結果、「主」の代理者「石ヌ」と主人公の会話、
あるいは主人公と「主」の内的対話が延々つづいてゆく恰好となる。
それは第二要件の①③とはじつは連絡しない。
第一要件の①②④の欠落(態)として、
小説の第一要件にじかに連絡してしまうのだった。
こういう反転が「新しい小説」だった『告白』にはなかったから
町田康の現状が危惧されるといってもいい。
それは人物名・地名が
河内音頭を原点とする規制のなかにあった『告白』にたいし、
『宿屋めぐり』がこの点、自在で、
結果、その自在ゆえに想像力の限界を露呈してしまったのとも似ている。
第二要件の④は「はじまりもあって終わりもあること」だった。
本作の終結部は「変化」をともなって冒頭部を反復するものだ。
時間や体験を経過すると同一性も差異になるという
典型のような小説処理だが、
これもまた「おざなり」で想像力を欠いてみえる。
さて、さほど評価できないと筆者自身が感じたこの『宿屋めぐり』、
通常なら日記の俎上には載せない。
なのに例外を敢行したのは
小説をもって詩を詐称したといわれる「川上未映子」問題とも
この町田小説が抵触するためだ。
町田小説はディテールの一部には強度があった。
だがそれが一部であることで
記憶力のつよい者は分析的な再読をおこなわないだろう。
有機性連絡への信頼がない、ということの別言だ。
詩的文体が駆使されているようにもおもえる。
一見、用語は突拍子もなく、かつ抵抗圧として心に残るものも多々ある。
けれども語順は結局、対象世界の連続性に準拠していて、
奇矯とはいえ「描写」に奉仕する範囲内にある。
つまり本来の詩のように、語自体の空間距離に魔法をかけるものでもない。
詩の再読誘引性にたいして
やはりここでも『宿屋めぐり』は
読了達成性しかもたらさない、ということになる。
要するに『宿屋めぐり』は小説だ。
第二系列の②「一貫的な内在法則性」が「奇矯性の維持」として単にあるからだ。
それは町田の文体性の保証であり、商品性の保証でもある。
そしてそれは小説の第二系列要件の矮小化に直結している。
商品だから小説の彩りは前作を程度継承しなければならない、ということ
(こういう限界が詩にない点を詩の現在の優位としなければならない)。
これらの難点が川上未映子の「中也賞受賞詩集」にもあるとすれば
これもまたそれが小説であることの逆証になる。
けれどもなぜ、小説は小説であることで評価を受けてしまうのか。
端的にいって小説ズレした者には驚愕のない『宿屋めぐり』は
驚愕だらけの廿楽順治の二詩集より明らかに劣る。長いだけだ。
『宿屋めぐり』の帯から「小説も書き始めた」日和聡子の書評(日経新聞)を
以下に引用してみよう。
旅路で幾つもの宿をめぐるように、肉体が果てても滅びず、生きかわり死にかわり、とどまることなく肉体という宿をめぐりめぐる〈魂〉のありようとその軌跡を凝視し描き切った、力強い物語である。
ここでは何も書かれていない。
小説の結構にあたるものの妥当な説明にたいし「力強い物語」という述部が
自己検証なしにくっついているだけだ
(抜粋のされかたが悪いのかもしれないが)。
そうしていいと書き手が錯覚した理由は「物語」という語の効力にあろうが、
はたして小説家はその程度の枠組で自画自賛してもいいのだろうか。
いずれにせよ、小説賞の代わりに詩の賞を狙ったと酷評される川上未映子とともに
文芸ジャンルの問題は、物書きの自己プロデュース能力とからんで
現在、すごくキナ臭いことになってもいるようだ。