問題点の整理
前々回日記「現代的啓蒙」
〔※このブログでは掲載省略〕のコメント欄がふくれあがった。
そこでコメントをくれているはらぐろくんに応えることで
いま僕が大学教員として抱えている問題を
整理できるともおもう。
まずは前提となるはらぐろくんのコメントを
以下にペーストしてみよう。
はらぐろくんのこのコメントは
コメント欄のそれまでの流れや
僕の既存日記についても受けて書かれているので
意味不明の部分もあるだろうが
それは当面、ご勘弁いただきたい。
●
怒っているのではなくて、
阿部嘉昭、小説読めねえんだ、ふふふ、と
優越感に浸りながら笑っているわけです。
まあ、『虚構の時代の果て』の記憶を含めて、
春秋社の採用面接で
春秋社で良い本は大澤真幸のオウム本です、
って言った経験があるぐらいですので、
(僕は色々な出版社にいいところで入り損ねているんです。
青弓社とかも)
「相対的」なんかつけることないすごさっていうのは、
東についてのそれも含めて、
重々承知で書いているですけどね。
倫理性のない文章なんてやっぱり論外だし。
ただ、先生が書いているように、
詩的方法は評論に導入可能だ、という言い方をしたら、
それを最も過激、かつ無自覚にしてたのが、
柄谷だと思う。
岡井隆が先生に言ったという
「あの切断文体は詩そのものだね」っていうのは、
圧倒的に正しい。
それを意識してる大学人がどこまでいるのか、
そもそもそれを倫理性って言葉で言っていいのか、
っていうのは僕には疑問なんです。
いや、柄谷について書くと息苦しいし、彼の批評だって、
読み返してて、うざったい感が増えてるような気がします。
(最近のだけでなく、80年代のものであっても)
だから(というわけでもないんですが)、
上にURLのある対談の佐々木中に乗っていこうかな、と。
(『夜戦と永遠』まだ読んでいませんが)
その流れで行くと(?)
まさに、今の日本の小説は「暴力を渦巻かせ」つつ
「組成」を変貌させていっているんです。
小説が「離れたものを交配させる思考形態」を
持っていない/持つことができないということは、
もの、人、動物、(たぶん時間も?)の保坂和志が言っている意味での
現前性を、その流れの中に胚胎させることができる、という
ことと表裏一体ではないでしょうか?
僕はこの前、ウルフの『灯台へ』を一週間ぐらいかけて
ゆっくり読んでとても幸福だったんですが、
それは、その現前性、ものが「ある」という
単純で全的な事態の効用だったと思ってます。
実はその時の現前性って、人間の中枢性の圏域を
出ちゃってるとこがあるんじゃないのか、
少なくとも出ようともがいているんじゃないのか、
って最近は気がしてきてます。
で、前のコメントで書いた小説家たちの作品では、
それに伴うようにして人称性が、
複数的だったり、緩やかに溶けあっていたり、
知覚の焦点が狂っていたり、
時間の伸縮が暴力的だったり。
(これはつまんないまとめ方ですけどね)
こう書くとウルフとは違うと書くつもりが、
同じだって書いている感じになってきてますが、
それは多分ウルフのせいで、
80、90年代の日本、それから世界文学とは
やっぱり違ってきてます。
言葉に対してメタっぽい位置をとらなくても
物語から離陸できるようになった。
だから、現前性も保っていられる
(直感的な言い切りますが)。
それが社会変動とどう関わるかというと、
佐々木中が言っているように
文学は権力性と常に結びつく。
それは時代によって、
宗教や、政治という権力性だったりしますが、
「それをすべての人々に解放しようとしたのが
「近代文学」というデモクラティックな企て」だったとしたら、
現在はそれが反転して、
「意味」や「経済」や「情報」という専制的権力と
手を結ぶものに成り下がっている。
その明瞭な現われのひとつが、
東の舞城読解だと思うから、
僕はそこが引けないわけです。
だから、それは社会学的読解による小説の植民地化だと言うんです
(舌たらずなのは承知で進みますが)。
で、最近の小説の持ってる非中枢的な現前性
(と、とりあえず言うしかないもの)は
「意味」-「経済」-「情報」という三位一体が
絞め殺そうとして出来ないでいるもののみで
できていると思う。
そこにはニーチェ的な諸力すらものが、
ニコニコした顔で眠っているようにすら感じるから
ここに反転可能性、
少なくとも漂流への抜け道ぐらいはあるんだ、と
個人的には思っています。
(こんなことを書いて、とても伝わるとは思わないんですが)
あ、とりあえず手帖に岡田利規も
追加していただけたら。
●
一個め。
僕自身が日本小説の変貌、
そのとばぐちに乗り遅れているかどうかについて:
これは当然の事実として乗り遅れているとおもう。
何しろ、限定的作家の数人しか
その作品歴の進展を僕は追いかけていないのだから。
往年「大衆小説」と分類されたものも
「純文学」と分類されたものも、
たとえば三人称客観描写、
つまり神の視点の借り入れから
小説空間がじっさいはじまってしまうその時点で
「恥しくないのだろうか」と茶々を入れたくなる。
この20代に形成された悪癖がたぶんいまも抜けていない。
そういうものを保証しているのが「文学性」だとして
そこにももう価値を見出していない。
しかもどういうのだろうか、
多くの小説が小説それ自体であることに「酔って」いるのに、
その醗酵臭が僕にとっては耐え難い。
小説の書き出しに驚愕を覚えるにも
多くの書き手はその自覚性においてすでに稚拙だ。
かといって機能美を誇る書き出しがあるかといえばそれもない。
といった乱暴な前提から書き出してみても、
「そうではない小説がある」といわれると
こう書いた僕のほうが根拠薄弱になるのは自明だ。
小説表現に変化の兆しがどうあるのか。
はらぐろくんの上の所説は、
語衝突〈あるいはそれに加えるに韻律〉に
運動の実質を置く詩にたいし
描写対象が一応の前提とされる小説においては
書かれてある空間に隣接的連続性がある点が
当面の要件となる。
ただしはらぐろくんの書き方では第二弾ロケット発射がある。
うえの前提は中枢性支配、
そうでなければ身体の置かれる場所の空間限定のなかにあるが、
そこから抜けた新しい小説、
つまり非中枢的、脱中枢的な新しい小説群が登場しはじめており、
「小説のわからない」阿部嘉昭は
この変化をつかまえられていない、ということだろう。
中枢性は、たとえばベルクソン-前田英樹の用語。
はらぐろくんが出した小説家の具体名が、
うえのコメント最後にしめされた岡田利規のほか、
その前のコメントにしめされている
青木淳悟、磯崎憲一郎、福永信、
それにビッグネームでは中原昌也ということになり、
この小説表現の解体&再構築にとって
たとえば東浩紀の舞城解析などは
何ほどの更新性も記録していないといっているとおもう。
こういう物言いはじつは直感的に理解できる。
たとえば90年代日本映画の評論は、
四天王に代表されるピンク映画、
三池崇史に代表されるV系、
高橋洋、園子温&平野勝之に代表される旧・学生映画系、
この三つ巴として出現したという点は
90年代の中葉にはもう理解されていただろう。
つまり北野武、阪本順治らに肩入れするだけでは
「決定的に」アイテムが足りなかった、というわけだ。
このなかで黒沢清だけが
頓珍漢と非頓珍漢の境界線上のアイテムだった。
この時点の日本映画に起こっていたのは
認識論的にはひじょうにするどいことだった。
主体が風景や恐怖によって埋没するという意味では
脱中枢化の刻印が画面に傷のように生じてもいて、
つまり恐怖にしても犯罪にしても
鍵語となるべき言葉はたとえば「非人間」だった。
これを綴った評論家はたぶん僕しかいない。
90年代の映画評論は大きくいうと蓮実重彦の空位期で、
しかしゼロ年代には蓮実が帰還してくる。
蓮実は多忙だったので
90年代の日本映画の変化のとばぐちを捉えていなかったが
その無反省のまま映画評論に復帰してしまった。
この蓮実を映画のアマチュアの多くが反復し、
映画表現の実質への顧慮がないまま、
イーストウッドなり黒沢なり万田なりの名が
空虚に乱舞しているのがここ十年の現状だとおもう。
さすがに「発見」の掛け声はないものの
無意味な「リュミエール」型評論が縮小再生産されている例を
ミクシィなどではかなりの頻度で見かける。
精度のみが勝敗を決定するこの土壌で
精度を持続する者は僕の知るかぎりではたったひとりだ。
たとえばこうした頽落のなかで
90年代型日本映画作家と
90年型韓国映画作家とを真摯に比較するといった課題も
韓流の波のなかでやりすごされ、
現状の日本に目をやれば
たとえば豊田利晃や横浜聡子の名すら特権化していない
〈僕自身はそんな風潮を背に、ほぼ映画評論から離れた〉。
日本映画への着眼は
驚くべきコンサバか商業性重視へのみと回帰しつつある。
老残評論家の誰が悪いとは面倒なのでいわない。
映画を例にとったが、
変化のとばぐちを押さえなかったツケは
つまりこうしたかたちで発露する。
ゼロ年代のゼロとはそうなると
90年代を正しく実質化しなかったことの延長で、
だから僕は詩のフィールドでは
高偏差値男性詩人などをすべて打っ棄り、
貞久秀紀などを中心に置きなおせ、ともいっているわけだ。
小説の変化についてははらぐろくんから課題をあたえられ、
まずはそれを読んでみないことには話にならない。
ただ「小説体験」とは何か、
この点を前提的に自問自答してみる意義はあるだろう。
たとえば去年僕が読んだ小説で最も感銘を受けたのは
広津柳浪『今戸心中』だった。
次が魚返真央さんという学生が書いた、
蝶への知見に満ち溢れた小栗蟲太郎ばりのバロック小説。
そのあとにたぶん去年から読み始めた川上弘美の作品群が来る。
これら型も組成もちがう小説群を
強引に平準化・抽象化してみて
そこにどんな共通の小説体験があったというのか。
まず、言葉が詩ではなく小説的に現前している
〈そういう節度のない小説を僕は嫌いで
だから川上未映子『先端で、さすわ・・』などは
たんに気持悪い雑文にしかみえない。
あんなものに詩か小説かいった選択命題など形成されない。
あれを商業的に持ち上げた緒力を
ただ黙殺すればいいということ〉。
これは、小説では言語が描写される空間が記号的に表徴されつつ、
それが同時に描かれる時空の
「物質的な」保証ともなっているということで、
こうした言葉の確実性を詩は度外視して
もっと言葉を裸でさらけだすことができる。
このうえで小説は「主題系」を内在的に意識する。
というかそれなしでは優れたかたちで小説が書かれない。
これを明るみに出したのが構造批評で、
構造批評はその意味で歴史的役割に限局することはできない。
明治20年代に書かれた『今戸心中』でさえ
主題系の内在的意識といった要件を満たす。
心中の江戸的与件が覆される「モダン」が到来しているなかで
〈たとえば「金銭」が人物にあたえる力の種類がちがう。
それは運命付与的ではなく
最も殺伐とした循環性をつくりだすようになっている〉
男女の心中がどう変化するかを予告しながら、
小説が真の「現代性」を帯びるために
相対死が決定選択されてゆく具体的な男女の会話が
そこでは割愛されてしまうのだった。
たぶん小説体験とはそうした言葉の組織運動に立ち会う悦びだ。
じつは昨日は入門演習で
小池昌代さんの『ことば汁』から秀作「つの」を扱ったのだが、
ひとつの班が提出したレジュメでは
たとえば小池さんが出したヒロインの自動車事故死のまえに
高速道路上に曖昧に描写される花嫁行列が
現実か非現実化か程度の注意喚起に終始してしまう。
まずは「わたしはこときれた」といった矛盾表現で
この短篇が終わっていることの驚きを彼らはもたない。
そしてヒロインの相手となる老詩人が読む長篇詩の内容が
この小説に入れ子のように内包されつつ、
そこで死にたいする諦念が
どのように悦びの承認にすり変るか、
その「呼吸」こそがこの〈架空〉長篇詩の最大眼目だとして
これがこの小説に具体的にどう反映しているかの検討もない。
「つの」の実質は自己言及性の一語に要約できる。
この結末をあらかじめ決定されているだろう小説では
映画のフラッシュフォワードを模すように
「結末を知っている」文が途中、頻繁に内挿され、
「モノ〈魅〉」「コト」といったキーワードも
自己言及の文脈でしか登場してこない
〈ここにこの短篇の巧拙を解釈する鍵がある〉。
だとすれば小説がかたどる物語性「序破急」については
能などに典拠をもとめるべきかもしれないが、
小説の現状は形態、取り合わせ二重の意味で
「異類婚」の「曖昧な」現前でしかない。
同時に「詩人」と「女性」の対は
作者・小池自身の属性の分有でもある。
これらのすべてが綜合されて
自己言及的幻想小説とは何かという自問自答が起こるはずで
これがたとえば「つの」における小説体験だということだ。
昨日の二限めでは大島弓子『ロストハウス』を論じた。
大島的なアラベスクがどうミニマリズムに転化したか、
それを実現したコマ割配置の条件は何かといった、
マンガ組成の物質性を歴史的に検証したのち、
大島マンガにおける性的身体の原罪性の滅却によって
このマンガではどう有機的にそれが
世界にたいする空間意識の変貌に結びついているかを
コマを大画面に投影しながら「紙芝居」した。
物質性への顧慮。
それを内化し、テキストの時空を想像力によって生きながら
作品を作品たらしめる「ある技術水準」を
享受者のなかに、具体的に、明るみに出すこと。
それでとりあえずは受講生を
「作品」にまつわる技術者に仕立て上げること。
たぶん文学部の実践教育などは当面、そういう水準にしかないだろう。
あ、禁煙外来にゆくための諸準備をしなければならない。
このつづきは、では今日、帰宅後に
〈ばらばらになりそうな文脈、まとまるかなあ〉