問題点の整理2
はらぐろくんは、ウルフ『灯台へ』を
ゆっくり読んで幸福だったという。
この指摘というか体験はとても重要なことだ。
大学新一年生の小説への接し方をみて、
そうなのか、とおもうのは、
彼らは現状、享受者として幸福になれる可能性をもっていても
小説を創造的に読む幸福を得るにはまだ遠い。
実際に創造者として彼らを遇してみないとしょうがない、
ということだ。
書かれたものはすべて物質性をもち、
同時に「まぼろし」の相貌を明らかにしている。
しかもそれが「まぼろし」になる理由は明らかだ。
量子力学レベルでの観測系と被観測系では
計測対象が微細なあまりに
被観測系は観測系の干渉を受ける。
結果、計測値・計算値は
この干渉を割り引いて出さねばならない。
となると一次的な被観測系は
観測系次第で可変的だということになり、
つまりここから主体にとって対象は
まぼろしだという単純結論も導かれる。
となると「参入」の得手不得手によって
対象世界は創造的にすりかわってゆく。
この偏差を認めることが「作品」体験の前提にあり、
だからこそ諸評論並立が倫理的に正しく
「唯一の評論」があることが誤りとなる。
要するにそれが、人間の力が
どの分野にも必然的につくりだす偏差ということだ。
だから批評に硬直した有職故実の伝承があってはならない。
前言した僕のマンガ講義ならば、
僕の身体的偏差によってゆがめられるように
画像が大画面にたいし移動し、僕の声が挿入され、
礼讃にしても揶揄にしてもノイズが入ってゆく。
たとえば大島弓子という個別性のうえに
僕という個別性の刻印が押されるのだった。
そのうえで受講者は大画面に投影された僕の創造的な紙芝居に
確実に「打たれてゆく」。
それは対象の一回性にたいする一回性の爆発だ。
たぶんこの潔さが倫理的だと問題をずらしてみたい。
たとえば東浩紀の流れにある伊藤剛においては
彼のいう「キャラ」でも何でもいいのだが、
それは彼なりの定義をあたえられて確実に教条化してゆく。
書き方そのものにそういう流儀が選択されているのだが、
この彼の論理展開に信憑をあたえるのが、
東浩紀の著作から援用されてくる細部だったりする。
べつだん僕はそんなに怒りはしていないが
俗に言う「東一派」には
アカデミシャンが陰謀のようにおこなう
相互引用による信憑と点数獲得が多々みられる。
そして言及対象なら一分野ではっきり限定されてゆく。
例外による論旨変更は
彼らの註記が頻繁でも
僕の眼から見ると実際はない。
逆に僕のサブカル本は
一回性の爆発によって多く書かれていて、
教条化できる箇所も少なく、
だから学生のサブカル論文には適用しにくい。
こういう流儀を僕はやっぱり平岡正明などから学んだ。
試しに誰かが独自の山口百恵論でもジャズ論でも企てたとする。
そのとき平岡論文は傍系参照としては置かれるかもしれないが
中心検討材料として百恵「などより前に」
使用するのは完璧に不可能だろう。
それもまた一回性の爆発だからだ。
しかしこれによっても
書かれたものに接することが幸福となる。
川上未映子の『先端で、さすわ・・』
〈題名を正式に書く気もしない〉で驚くべきは
難しい語がつかわれているわけでもないのに
用語センスに個性の烙印が押されてあり、
同時にリズムが気味悪いので、
即座に読むことが「忍耐」にすり変ってゆくということだ。
繰り返すが、これが小説か詩かなどは問題を形成しない。
収録されている作品を個別にみれば
実際、詩と小説のあいだの濃淡もかたどられている。
ただこのようにだらしなく書かれては、
読むことに付随する幸福が一切出来しない。
このことのほうがずっと問題だということだ。
小説を読む至福については
個々人の古典モデルがあるとおもう。
その対象が
『源氏』であってもゴーゴリであっても構わない。
保坂和志の小説論の連作などは
実は参入的に小説を読むときの逡巡の呼吸をよく伝えていて、
これがたぶん感情や行為の前提に
「幸福」を置いているためだという点は
よく考えられるべきだとおもう。
保坂の書くものにもむろん教条性が見当たらない。
それゆえに、僕自身が考える軸での倫理性に見合う。
ちょっと書いたものが吉田健一の呼吸にもなった。
保坂の書くものにもそれが舞い降りてくることがある。
小説読解を話題にしたいので、吉田健一を例にとろう。
たとえば僕が小説家を志していたときに、
一時期、短篇小説集の最高峰にリラダン『残酷物語』を置き、
長篇小説の最高峰にプルースト『失われた時を求めて』を置いた。
そう置いてみると即座に誰もが意気阻喪するとおもうが、
この抑圧を日本的に解決したのがたとえば吉田健一だ。
『残酷物語』のかわりに『怪奇な話』を
プルーストのかわりに『本当のやうな話』を代置できる。
プルーストにかわりに中村真一郎『四季』の連作は置けないし、
リラダンのかわりに筒井康隆の初期短篇も置けない。
つまり吉田健一の書くもののなかのほうにこそ
爆笑、あるいは失笑に値する偏差が生じていて
これが文学的祖型を代置させる暴力の実質となるということだ。
ここにさらに、はらぐろくんが書いた
中枢性/非中枢性という対立概念を加味してみる。
僕はウルフの門外漢だし、
たぶん非中枢小説と単純に分類されるだろうものもほぼ門外漢だ。
たとえば『フィネガンス・ウェイク』は読んでないし
ルーセルも読んでいない。
読まずにいうのだが、これらでは中枢は小説自体が受け持ち、
人物を中心にした対象の外側にまず脱中心的に散種され、
結果として、書かれたものから作者の中枢性を
反射的に予想することが不可能になってもいるだろう。
この着眼で書かれた久生十蘭論を
江田浩司さんや大津仁昭さんが参加している短歌同人誌で読んだ。
町田の名物ラーメン屋「ロックンロール・ワン」に並ぶあいだ。
非中枢的小説は読解に実際ものすごく苦労のかかるものだ。
しかしその読解には幸福もともなうはずだ。
プルーストやリラダンではどうか。
リラダンでは逆説がすでに物質化している。
たとえば主題系には「蒼白」などを数えることもできる。
これらが合わさって生じているようにみえる奇想が
実際はリラダンの必然と捉え返したとき
参入的にリラダン小説の内実を
読者が創造できるようになる。
この作業は本当のところ、
誰もが一定の偏差のなかで実現するものなのかもしれない。
そして着実にあるだろうこの偏差の予感が幸福だろう。
プルーストにおいては
「心情の間歇」といったはっきりとしたテーマの解釈ならば
解釈の教条性に凝り固まる可能性もある。
ただあれほどの分量のある小説ならば
参与できる主題系が無限に林立しているといっていい。
それをたとえば植物的なものに限局して、
「年輪」や「花粉」で記憶台帳を検索することもできる。
それらは対象の質からいって個々人の体験の偏差のなかにあり、
同時に普遍的なのだった。
言葉を変えれば一回性の爆発でありつつ
多様性という正解へと導かれるものだった。
だからプルーストも創造的に読むのに値する。
創造性は吉田健一で例示したように「ヘンなもの」にたいし
とりわけ豊かな作動性を見出す。
大学新一年生ではこれができない。
これは悦びの体験のなかから徐々に学ばれるものだ。
たとえば伊藤剛のマンガ評論にも無駄がなく、
そこでは偏奇さえも中心に置かれれば偏奇性を失う。
対象は生け捕りされず、教条がとり囲む。
つまり小説読解の幸福とは別次元に文全体が機能している。
少なくともそれが覆されるためには
記述の細部を読者が
体験的・創造的に受けとらなければならない。
このときにこそ「趣味」があるのだろう。
たとえば僕は命令形を乱発する詩が
どうしても生理的に駄目だ。
漢字が多い詩なら助詞が柔らかくないと駄目で
それにはたぶん俳句・短歌の素養がいる。
それがないものが駄目だ。
「歩く詩」なら西脇という原型を透かし見させながら
同時にそこから批評的に離れていないと駄目だ。
ということでいうと伊藤剛さんのマンガ評論も
多様なものを、ときにカタログ形式まで駆使して扱いながら
実は「趣味性」が稀薄なのではないか。
そしてこれがもしかするとはらぐろくんのいう、
東浩紀の倫理性のなさに直結しているのかもしれない。
ただし事は微妙だ。
東浩紀はたとえばラノベを読んでいる身振りにおいては
その趣味性演出に隙がないからだ。
ずいぶん話がとっちらかっているが、
はらぐろくんのしるした新しい小説家については
実際に読んでみることでしか
何かをしるそうとおもわない。
当然、前の日記の書き込み欄で
依田さんとkozくんのくれた情報も頭に入れる。
それが本当に脱中枢化された小説だとして
その読解に幸福感が伴うかが是非の判定基準となるだろう。
川上未映子のような体験はもう真っ平だ。
さていままで書いたことは、
以前の日記「現代的啓蒙」の本文にも関わる。
そこで僕が相手にした友人もまた、
詩のフィールドに自分も立っているという実感がなく、
詩や詩作者についてずっと考えつづけていたのだとおもう。
だから松浦某などという紛い物の権威にひれふしてしまう。
それはたぶん「幸福感のない」詩書の読み解きだ。
僕が彼にたいし発した言葉もまた
そういう観察のなかですべてつむがれたものだ。
ところが彼はそれを、
「読んでいる者」が「読んでない者」にたいしておこなう
抑圧とのみ受け取り続けた。
だから彼の言葉がたえず再反論を呼び込み、
結果、彼の傷口が深まってしまったのだとおもう。
あるものを読んでいることで、
それを読んでいない者を支配・抑圧しないこと。
この逆を驚愕まで心理要素にもちいて
やり続けたのが蓮実重彦で、
だから僕は彼の凋落が実質は決定的だとおもっている。
そういう本質をみなければならない。
保坂の小説論のいいところは、
考察対象に時空の限定性がなく、
記述が一回性の爆発であるとともに
そこに対象選択の抑圧がないことだ。
誰もが注意しなければならない。
いま日本の小説家でここが面白いです〈新しいです〉。
日本の詩作者でここが面白いです〈新しいです〉。
これは、善意による伝達であっても
やはり「抑圧」を結果してしまう。
受け取り手がその対象を読まないでいることも自然、
その対象を読んでいることも自然、
やがて読んでしまうことも自然とでもいうような
記述深度の多重性によって
ものは書かれ、それで読者を静かに動かすべきだ。
蓮実の映画評論はいつも
「それを見ない者は不自然」という恫喝によって書かれていた。
幸福感をもたらす読解が
結局は思考の個別性による点は前言できたとおもうが、
そのための釣り餌はある。
当然、読者個々で偏差をしるす個別体験だ。
たとえばプルーストが敷道を叙述するにしても
その像は、プルーストの伝記によらなければ
読者個々の心のなかでそれぞれ別の姿に結ばれるだろう。
そして、そういう幸福を、
作者のほうは読者に当てにしてよい。
今朝はじつは三時に起きて、
河津聖恵さんからご恵贈いただいた新詩集『新鹿〈あたしか〉』を、
川上未映子の悪夢を振り払うように読み出した。
この詩集が幸福だったのは
たったいま僕がつづった幸福の次元による。
中上健次の足跡を中上健次の文を引用しながら追う。
紀行文的に行儀の良い文が分かち書きされつつ
ふっと代替不能の詩性を獲得してゆく。
作者のようにいまでも中上を手許に置いている読者は
期待されてはいない。
受け取り手がその対象を読まないでいることも自然、
その対象を読んでいることも自然、
やがて読んでしまうことも自然、
この三幅対はこの詩集にも装填されている。
だから中上にこの詩集を通じて再び出会う幸福より前に
もっと別の幸福がこの詩集を覆っているといったほうがいい。
さきに紀行文、と書いた。
風光や移動を綴った文にはある特徴がある。
図式化していおう。
「描写圧縮=詩性が高まる=実際の風景喚起力がつよい」
そう、別次元ではこんな三幅対もみえたのだった。
たとえば僕は三幅対をこのように二つ数え上げたが、
それらのあいだには開放性と光と風がある。
だからこの詩集はコンサバととられるかもしれないが、
成り立ちがそもそも幸福なのだった。
と、とっ散らかりつつここまでを書いた。
本当は昨日の四限時、僕の研究室で交わされた
卒論〈卒制〉提出予定者とのやりとりで終わりたかった。
ここでも話題が東浩紀で
つまり僕は彼を低音通奏するために
この「問題点の整理」を書き出したのだった。
でももう疲れた。続きは「3」でやろう