問題点の整理3
繰り返すが、はらぐろくんはこう書いた。
●
文学は権力性と常に結びつく。
それは時代によって、
宗教や、政治という権力性だったりしますが、
「それをすべての人々に解放しようとしたのが
「近代文学」というデモクラティックな企て」だったとしたら、
現在はそれが反転して、
「意味」や「経済」や「情報」という専制的権力と
手を結ぶものに成り下がっている。
●
ここから文意ははらぐろくんの
東浩紀による舞城王太郎論への批判に結びついてゆくのだが、
東評論の商業性にとむ権威にたいし
「問題点の整理2」、その書き込み欄に僕が書いたことが
良い補助線になるとおもう。
もう一回、その論旨を書こう。
ただし矛先は往年の〈現在も?〉蓮実重彦だ。
・「凡庸批判」が主題なのに、
彼は凡庸な読者を想定し物を書く。
・結果的にその読者の自意識が過剰になる。
これは構造的な必然だ
なぜ蓮実はこんなにわかりやすい矛盾律を
自身にひきつけたのか。
読者はきっと具体的に想定しないと
それが商業性に転化しない。
その想定とは画定であって、
だから実際は区別線、強制力の行使ということだ。
読者は心理的干渉により「あらしめられる」。
このタイプの読者の発生が抑圧の結果なのはいうまでもないが、
商業性とはたぶん抑圧の痕跡にこそ関連している。
たいした例示とはならないが
僕などはこの想定がとても曖昧だ。
心あるひとが読んでくれればと漠然とおもうだけ。
年齢も性別も知性の度合も何も考えていない。
中心読者層を年齢性別、
くわえてその所得水準にまで細分する
代理店-クラスマガジン的発想ほど
呑気な自分に縁遠いものはない。
電通嫌いを公言する平岡正明さん並みだとおもう。
ひところ『電通文学にまみれて』という渡部直己だったかの
文芸綜合評論〈時評集?〉があったはずだが
刊行当時、彼への興味がもう薄れていたので未読だ。
「物書きはセルフプロデュースをおこなわないと」と
掛け声のようにいわれていた頃だったろうか。
半ばはその言葉を信じ、半ばはそう語る眼前の者を軽蔑した。
軽蔑して、こういう問題圏からの明瞭な方針転換として
詩を書き始めたところが僕にはたしかにある。
本当はこの世界にもセルフプロデュースがあったのだ。
水無田気流の逡巡しない果敢さがうらやましい。
渡部が電通文学として何を名指したかはわからない。
「文学」においてはトレンドが
文体、キャラクター設定、ストーリー展開等々の諸局面で渦巻いていて、
だから「売れるための小説講座」なんぞも即座に開ける。
むろんそれは原作権の獲得可能性など、
文芸資本にとっての審査基準となり、
これはメディアミックスを画策する電通などの
作品力測定基準とも当然なる。
講談社の一挙の斜陽だってコミックスの売れ行き低迷と
原作化権収入の激減、このダブルパンチによっていた。
だから産業としての文芸にこうした電通性は大切なのだ。
あ、そうそう、今年の卒論には
「読まれるための詩集をつくる」と
卒制の目標を掲げている者が二人もいて、
いよいよ「売れない」文学が
価値倒錯の時代に入ってゆくような気がする。
単純に売れる作家の像だって戯画的に描くことができる。
・若い女であること
・美人であること
・文体も心根も軽薄であること
・権威風をふかす編集者にも従順であること
・性的告白をいとわないこと
・自身のこわもてだって演出できること
・音楽とか絵画とか写真とか副次的な才能ももっていること
・小説なら小説の蓄積知識がある程度までしかないこと
・書かれたその小説が「つまらない」こと
皮肉を書いているのではなく、
たぶん現実的に商業文学の趨勢が
この方向に移行している。
「勝ち組」は自身の優位性を固めるべく
目配せにかなう自分と似た方向の者のみを
賞にピックアップしてゆく。傾向の確定。
彼らの甘い脇をくぐりぬけてゆく多くが「若い女」。
高橋G一郎が「若い女」をどれだけとっかえたろうか。
こないだの中也賞だってそういった算段の単純結果だろう
〈と高の括られる選定結果なのが哀しい〉。
さて東浩紀。
凡庸批判を主題にする蓮実の読者がじつは凡庸だという倒錯を
東は熱心に解析したはずだ。
単行本に収録されているのか心許ないが、
以前、「図書新聞」一面に掲載された東による蓮実批判は
フランス語の時制から説き起こし、
蓮実の文体にはその類似性を追及した痕跡があるとした。
結果、蓮実は直接性の除去に成功し
文を覆う層として「皮肉」も獲得したのだという。
この「皮肉=シニシズム」が
いまとなっては考えられないが
バブル時代当時は商業性だったのだ。
ただし蓮実同様、自分の読者を画定しなければ
セルフプロデュースができないと東浩紀は考えたはずだ。
彼が想定した読者は「勉強好き」。
勉強好きの東ならではの選択といえないだろうか。
結果、勉強好きが勉強好きの本に群がるという
暑苦しく逼塞的、日本的ともいえる構図ができあがる。
この構図はずっと温存されているのだが、
東はたぶん二つのアイテムでガス抜きをおこなう。
ネット親和性とサブカルだ。
そしてこれらが綜合され
アカデミズム・レベルのサブカル学で東浩紀の諸作は
スタンダードの位置を獲得することになった。
「勉強好き」を想定読者にしたのは電通的には満点だろう。
そこではサブカルがもうわからなくなった
「元祖サブカル」親父から
ゲーム批評に知能指数の高いものがないと嘆く坊やから
一挙に参入することになった。
デリダの印籠を出せば学術的なブラフだってかませる。
書くものは速さがあっても慎重だから
描出するおたくがおたくに似ていないという
岡田斗司夫のようなヘマをやらかすこともない。
東の処世は比較的シンプルな鉄則でつくられている。
何しろ、柄谷/浅田/東という三点構造を付与されて
センセーショナルに思想界デビューを果たしたひとだ、
以後もこの「三」の法則が遵守される。
自分が「一角」に立ち、
知名度の高くなった自分が給付する代わりに
他の二人からも給付を受け、
最少の知的共同体を演出する。
この共同体は進行的であり、可変的。
以後目立つものでいえば、共同体は次のかたちに変化してゆき
しかもそれは現在も途切れていない。
・大塚/宮台/東
・大澤〈北田〉/斎藤環/東
はらぐろくんが提示したいだろう文脈にのり
故意に揶揄の調子を混ぜてみたが
僕はこのような東がとても優秀だとおもう。
揶揄してみても、彼の商業性が磐石でびくともしない。
この東が岡田斗司夫化しているとセンセーショナルに指摘、
下克上精神での代位を図ったのがたとえば宇野常寛。
そんな野心をもつだけあって立論も展開も粗く、
啖呵を切ったわりに書かれたものは
「より若い世代」からの別角度による細部検証にすぎず、
東の書き物総体への異議申立などではなかった。
しかもこのお調子者は海容な東にとりいれられ、
やがてはその懐刀程度に居場所を落ち着けるのではないか。
大塚英志のような世代論のレベルではなく
北田暁大、鈴木謙介のような思考の芯の部分で
どこかで東とは完全同調しない心意気がほしいものだ。
さて東浩紀が岡田斗司夫化しているのではないかという疑義は
先の月曜日の四限、僕の研究室で
卒論におたく論を書きたいという
身近な学生から再度、僕に提出された。
要約が乱暴なのはわかっているが、
東のおたく定義は、
作品をかけあわせたりその別バージョンを指向したりする
「二次創作」の欲望をもつ者とされる。
作品それ自体のアウラや確定性がもう顧慮されず、
参入的に作品を遊戯する傾き。
このとき作品は個々性から離れ、
個別性の境界が溶融してデータベース中に浮遊するようになる。
この環境あって作品の離散集合がより促される。
で、その女子学生は自分はサブカル好きを自認するが
「二次創作」の欲動がないと気づいたという。
つまり自分のアイデンティティを根拠に
「おたく」論を書こうとしたその根底が崩れつつあると。
どうしよう、というのが彼女の相談だった。
僕の判断では『動物化するポストモダン』に代表される
東浩紀のおたく論は
実質は90年代末期に適合した歴史的産物にすぎない。
効用の範囲も転覆力も鮮やかだったから
そりゃ書かれたものは即座に指針化し無敵化した。
ただ時代の限界をいうだけでは
論旨は宇野常寛の水準に終始してしまう。
その思考の限界がいわれなければならない。
のちに小説家になる者が小説を読む場合に
彼〈女〉はその小説を参入的に読み、
最終的にはその小説を創造的に受容する、とはさきに書いた。
東がおこなう分析はその水準ではなく
マニュアル化と適確な整理だ。
これを「適格化」と読んでみよう。
「適格化」は実際「対象化」ではない。
これも前言したことだが、
作品は「まぼろし」の部分もふくめ
脱定位的に対象化されるしかない
--それは作品に切り込んでゆくのが
いつも「不確定な」自己でしかないからだ。
東浩紀が放置しているのはこの問題だ。
大塚英志はなぜ東の評論が参入的でないかを
執拗なほど攻撃する。
そこには心情的な嘆きも入っているかもしれない。
僕の言い方なら東は
対象に適格化をほどこしているだけだということになる。
ただし東のこの本質的な「冷やっこさ」が
僕は大好きだったりする。
東の適格化は対象とその周囲の遠近法の創出という手段を通る。
そうしてたとえば以下の遠近法が論題となった。
サブカルとデータベース。
個人の自由とセキュリティ。
政治ニヒリズムと2ちゃんねる。
このときの距離感や相互干渉による矛盾律の測定にかんし
東は実際、驚くべき分析力を発揮する。
ただし対象がその幻像をふくめ真に対象的に析出されることはない。
東はロリコン者のように欲望がその中心=性器に向かわない。
処理可能な記号、つまり猫耳に代表される「萌え要素」に向かう。
そしてそれで「祭」を繰り返す現象を確実に拾い上げるが
たとえば猫耳の祖型のひとつであるはずの
大島弓子のマンガ、つまり中心に向かってゆかない
〈同じように萌えを論ずる伊藤剛が
ずっと少女マンガフォビアだったのと並び面白い傾向だ〉。
東は哲学者であるのと「同時に」環境デザイナーにも似ている。
三による共同体の運営だってそうで、
東は電通的に環境を参入的に整備しつつ
自説に刻々と信憑をあたえてゆく。
だから東が参入的であるか否かを問うなら、
大塚には悪いが、答はたえず「参入的」の判定にならざるをえない。
それなら、はらぐろくんや僕の学生に残る、
「それでもの」齟齬感とは何か。
それはつまり東が「まぼろし」までふくめて
対象に参入していないという指摘で足りるのではないか。
つまり真の対象参入とはその対象の物質性に触れることを過ぎて
そのまぼろしに触れることに本質を見出すのだ。
東の立論は関係性を鮮やかに設置することで機能している。
そこには唯一、弱点がある。
たとえばサブカルの外側にあるデータベース。
それは90年代末期の幻想をひきずっている。
東のいうデータベースは当時先駆的に
パソコンモデル的=グーグル的だったのは言うをまたないだろうが、
のちデータベースはそれ自身が不毛の蓄積でできていることを
明らかにしてしまった。
同型の無限加算の影に、ゲットしたい真実が隠れている。
それで間に合うとするのは
サブカル講義にパッチワークレポートを出す程度の
学生ぐらいではないか、実際。
作品への原初的接触にたいし接触恐怖のある者にとって
データベースが便利なだけだ。
これがいま「凡庸」の生産装置になってもいる。
そう考えてデータベースの枠組を外すと
一挙に東のおたく論は機能失調に陥る。
たぶん「二次創作の意欲のない自分は
じつはおたくではないのでは」という
アイデンティティクライシスに陥っている僕の女子学生は、
90年代からゼロ年代という無の荒波に洗われ
自分のサブカル環境が荒廃化している点に
意識が及んでいないのではないか。
このときにこそ宇野常寛的な物言いが「付帯的に」可能になる。
「萌えは旧い」。
個人の自由とセキュリティにかんしてはどうか。
東のセキュリティ論は情報度が高く、
その意義の善悪両面をえぐりだしながら
参入的に以後のセキュリティ論に一定の方向をあたえた。
泥臭さを発露しなかった。
ただし国民背番号制レベルの左翼小児病的「反対」には
見事に否をつきつけた。
この問題はユビキタスへと延長され、
鈴木謙介などが自由意志の劣化に
どう哲学的に抗うかの問題へと発展させている。
だがそれはやはり社会学の問題なのだった。
セキュリティは
グローバルスタンダード下、自由競争を保証し、
かわりに自己責任だけが問われるネオリベにとっての命題だった。
自由活動だけを保証する小さな政府の存在と対だったのだ。
これもまた歴史変化によって崩れた。
一個は、セキュリティ意識が
自警団化した市民社会レベルに拡大していって
たとえば異物排除の主体が誰だかが不分明になりつつある点。
一個は、グローバルスタンダードの破産によって
それぞれの国が
国家大の民主社会主義の構築を迫られているなかにあって
再分配でも最低の生活保証でも
政府はまた「小ささ」から「大きさ」の領域に復帰しつつある点。
そうなると理想国家が目指すのは「混在」だろう。
それは統御力を弱め、安全と危険との混在〈共存〉を目指すという
見方によっては逆コースを辿ってゆくのではないか。
セキュリティ議論は今後はそこに干渉し、
さらに複雑化を経験してゆくはずだ。
いずれにせよ、背景となる国家の想定が変ったので
東のセキュリティ論も旧いものは歴史的産物に変ってしまった。
枠組を取り払うと機能しなくなる対象への論議。
哲学がその有効性の永遠を目指す学問だとすると
東の議論〈のある部分〉は哲学に似ていない。
もっと軽薄で、時宜に応じる環境デザイン論のほうに似ている。
ところがこのようにしてしか「現状」を
深く分析するのが不可能になった
--これがポストモダンの実情なのも確かで〈だから非難できない〉、
東は結果的にいうと、相矛盾する諸力のなかで
対象ではなく自己の有効性を「適格化」しているにすぎない。
だが商業的な書き手としては必要十分条件をみたしているのだ。
東浩紀は「おたく論」のなかで
おそらく意図的に、おたくの本質を隠蔽した。
たとえば80年代のおたくと
90年代のおたくはちがう。
前者は肥満で長髪が脂ぎり、でかい肩掛けバックを提げた
にきび眼鏡のコミュニケーション不全者。
後者は気弱で接触恐怖をつねに感じる
ルックス的にはすっきりした者たちで
「腐女子」の称号を用いようとどうしようと
こちらには本質的に男女差を設ける必要もない。
たとえば大塚英志は前者のほうに世代的郷愁を感じつつ、
おたくは歴史概念だといおうとして
東が一旦もっていたおたく概念の歴史解放性、普遍性に
苛立ちながら口をつぐんでしまった経緯があって
執拗に東に「反抗的」なのではないだろうか。
大塚英志の指向する「おたく」原点に立ち返る意義が
現在はあるとおもう。
東浩紀の揚言にあっては
「おたくは世界を救う」というように残響が響いた。
ただし大塚なら
「世界はおたくを救わなければならない」という命題が
いつも本質的である点を意識しているだろう。
振り返れば70年代後期に入り、
サブカル環境の幅も歴史性も拡大し、
サブカル知識が熱狂的に蛸壺化して
若い世代の会話がディスコミュニケーション化してくる
素地がうまれた。
一個の存在が全的でないもの、部分的にものにすりかわり、
その効力の限定性は、
そうであっても経済的な豊かさのなかで不問に処された。
誰が何といおうとそれがおたくの歴史的発生だ。
それはだから映画、アニメ、マンガに限定されない。
現代詩おたくだって、明治文学おたくだってありうる。
音楽おたくだってある。
東のいう「二次創作」は
映像的なものに限局されすぎているきらいがあるが
それは彼に真の意味での「趣味」がないからだ。
二次創作にもっともふさうのは短歌・俳句・現代詩のたぐいだろう。
手軽だからだ。
それとサンプリングを駆使できる音楽。
本当は二次創作ではこれらこそが顧慮されなければならない。
さておたく論の本義に戻ると
おたくは豊かな経済性に下支えされた
「認識の不可能性」「行動の不可能性」だった。
おたくは前言したように
興味が世界にたいし部分的にしかすぎない。
隣接性、連絡性によって織り上げられている世界本質にたいし
東浩紀とちがいおたくは参入ができない。
コミュニケーション不全、教養崩壊、恋愛不能、
二次元コンプレックスなどをいうまえに
世界参加ができず異質性への愛をもたないおたくが
経済的支えをはずされて世界の現状を彷徨しだした現在では
大塚のおたく論のほうが祖型となるいうことだ。
データベースの有効性はパソコンの有効性とひとしいが
それが取り払われたときは
二次創作も機械の補助を借りない
詩歌のような分野に集中してくるはずで、
それらは現状の東の興味の範囲外にある。
それで東のおたく論の有効性に
再審の必要がでてきたということだ。
「おたく」の自覚がある者は
たとえば僕が教える立教にも数多くいる。
多くは自分が歴史存在として
どのような不可能性を負わされているかを自覚していない。
自覚してもその是正を
大学在学中におこなうのは不可能なのではないだろうか。
だから僕などは可変因子を組み入れるだけにとどめる。
「趣味」が広げる幸福を温存しつつ
たとえばマンガを大スクリーンに「上映」しては
参入的にその物質性と戯れてみせる。
たとえば詩の実作ゼミを多様に組織して
より手許にあるものだけで
作品化の実質に辿りつかせながら
詩によって彼らを巣食っている横断不能性までもを加療する。
自慢話になるかもしれないが
こういうことの効果を大声で啓蒙しないから
僕はたぶん売れないのだともおもう。
ただ生き方の現状にはあまり後悔がなかったりもする