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マッチ売りの偽書、簡単に ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

マッチ売りの偽書、簡単にのページです。

マッチ売りの偽書、簡単に

 
前の詩日記「穴を響かせる」は
シリーズ詩篇の最後を飾るもので、
連作自体を振り返ってもらうチャンスでもあったのに、
書き込みがなくて残念だった。

というか、書き込みはあった、某氏からの執拗な。
その都合10幾つかの書き込みが
いずれもピントはずれで悪意にみちていたために
短気な僕は一々、丁寧に削除していた。

ただ日記がアップされた当初は
その某氏からの書き込みがたえずあったはずで、
それで他のひとも書き込みを控えたのかもしれない。
う~ん、ありゃ深甚な営業妨害だなあ。

廿楽さんはその「穴を響かせる」を褒めていたけどね。

いずれにせよ、詩篇アップには孤独な匂いがある。
だから、書き込みによってこそその孤独が緩和する。
僕なら、気に入った詩篇には率先して書き込むし
その見返りを他人にとうぜん要求していいともおもっている。
それが詩のユートピアへの第一歩でしょう。
もうKYはたくさんだ。



新一年生の入門演習(スパルタ教育)がすでに佳境に入ってきた。
『ことば汁』に収録された小池昌代さん「つの」にたいし
一班から考察ポイントのレジュメを出させて
それに批判を加えたのが大きかった。

こまかいことは書かないが、
作者の意図・描写の真偽・人物の気持などを考察したその班にたいし
僕は入れ子・フラッシュフォワード(自己言及)・序破急・反映など
短篇に組み込まれている「構造」を指摘、
同時に性的暗喩の確定不能性(男女分岐性)を示唆した。

これに「がーん」となったのだろう、
翌週出されたレポートの水準がグッとあがった。
「感想」から一挙に「構造批評」へ。
これだから教師稼業がやめられねえ。

調子にのって僕はもっと高度な話をした。
実は「つの」は
「そしてわたしはこときれた」という破天荒な一文をもっておわる。
フラッシュフォワードを部分駆使して
小説の自己言及性を匂わせての、論理的に不可能なこの末文。
ただしそれが幻想小説という
この小説のジャンルを疎外していないか。
あるいは幻想小説の歴史的「冷笑気分」が
ここに破壊的に籠められているとみることもできるが。

そうそう、幻想小説とは歴史概念なのだった。
18世紀~19世紀、イギリスを起源に
ドイツ・フランス・ロシアなどに蔓延していった
それ自体がメタな文学体系。

そこでは「現実なんか描いてられるか」という驕慢が横行、
幻想小説の付帯的メッセージも
たえず現世への冷笑を結果する。

自分の性格が(不安によって)冷たくなる、というのが
幻想小説の真骨頂ではないか。
となってウォルポールよりはホフマン、
そしてリラダン、マイリンク、
あるいはマンディアルグ以下シュルレアリストの驚異小説が
僕にとっての幻想小説の中心となる。

別格が現実を書いたのか幻想を書いたのか
深層では不分明なカフカ(とくにその短篇)と
ブッキッシュにすぎるボルヘス、
それに「ビヤン」など
同一イメージを朦朧体でしめすブランショかなあ。

そういえば、がつーん攻撃、は前回
横山未来子のベスト短歌集成のときにもやったので、
昨日どういうレポートが集まったのかはすごく愉しみだ。

こちらでは主題系を分け、
植物的受身の歌の身体が幻想か現実か
という刺激的な論点をまず出した。
そのうえでその主題が彼女の韻律とどう溶けあっているかも
授業中、チラリと示唆した。
そのかぎりで丁寧すぎる数首解説もやらかした。



昨日は中島悦子さんの『マッチ売りの偽書』につき
別班からレジュメを出させ、その説明をさせた。
一年生にはかならず、その前年度、
僕が最もよかったとおもった詩集を抜粋、
それをテキストとして読ませる。
一昨年は石田瑞穂、去年が廿楽順治・杉本真維子だった。

詩読解の原初的悦びをあたえ
同時にアカデミック硬直から詩を外すためには
近代詩(古典)ではなく
現代詩の「やわらかい先端」を読ませるのがいちばん、だとは
実はここ数年で得た経験則だった。
その詩が時代を呼吸していれば
その呼吸は詩を読みつけない者にもかならず通じる。
このことを詩作者ももっと楽観してよい。

さて『マッチ売りの偽書』に話を戻すと、
レジュメの論点は小池さん「つの」での僕の所見に引きずられ、
「作者の事情」の詮索にまず集中してくる。
詩集の「序」にあたる部分に「哲学者へラオ」という
奇態な固有名が出てくるのだが、
それを「表現者全般」を暗喩しているとまとめあげてしまったとき
僕は具体性の立場からそれに反論した。

へラオの「ヘラ」は
万物流転の「ヘラクレイトス」と同じ接頭辞をもっている点は自明
(へらへら笑いや「箆」に「男」をつけた、
君づけにふさわしい安直な名前でもある)。
ヘラクレイトスの「同じ河に二度入ることはできない」が
きちんと引用されている点でもこの見解が補強される。

同時に、
詩篇本文はそのエピグラフ的部分を除くと、
《その日も哲学者へラオは、マッチを売っていた》ではじまるが、
それでヘラクレイトスとマッチ売りの少女も融合される。
ヘラクレイトスの水と、少女のマッチの火。
それは水と火の通底という物質間詩学の根本を志向しつつ
同時に「水のなかの火」という不如意な現状をも示唆する。
そして中島悦子の詩篇は物質的にはまずはそのあいだを
「ポップに揺れる」。

レジュメは具体的な詩中語句を拾い上げて
詩集(「序」「Ⅰ」を実はコピーした)に喪失感と悲哀が
ともにみなぎっているともした。

僕はたしかに指摘された言葉を散見できるが、
問題は化学文から乱暴会話まで
段階的にグラデーションを形成する
文系列の虹状態で全体が形成されていて、
そうした多数性の保証によって
詩篇の世界観がポップになっている点が肝要だと反駁した。

しかもその際に付帯効果、「笑い」までもが出来し、
それがこの詩作者の隠れた苛立ちにもつながっているから
憧れも生ずる。
詩語のほぼ一切の廃棄が貫かれている点にも注意すべきで
これら全体によって生ずる「気分」「空気」が
「いままさに現在」のものだという強調もしたのだった。
ただこれは詩作者に特有な実感かもしれない。

組成の問題でいうと
レジュメは『マッチ売りの偽書』を
ズレの技法を駆使した散文詩、という大別で済ませていた。
ちがう、と僕はいった。
この詩集での基本「単位」は
数文で形成される半物語的、半イメージ的「断章」で、
断章内の文にズレがあるほか
断章間にもズレがあって、
しかもそのズレの二重性が一致しない点が肝要なのだった。
それだからズレのグラデーションが複雑ポップになる。

切られた啖呵の鮮やかさはしかし集中的な箇所にだけ生ずる。
幻想小説に変ずる箇所も、ギャグもそう。
つまり詩集は全体に「分散」をその視覚性にしていて、
それと「断章」のちりばめが相即しているということだ。

詩篇「乗りあげて」で
分離された「沼地」と「弓道場」はどんな乱暴な経緯で一致するか。
「履歴書」掲載事項の笑いにも苛立ちと唐突さが連関している。
そう、ズレの生成よりも詩篇の細部法則は
「突発の放置」といったほうがいいかもしれないが、
それが「シュルレアリスム的な自動記述」と異なるのは
じつは言葉個々の差異・深度が周到に計測されているからだった。

一例め:
《時代が変わったということもできるね、と二歳の甥が言う。》
(「小川」)
何かいっているようで何もいっていないような
ただ大人びた雰囲気だけのクリシェを
中島はまず見事に摘出(発明)したうえで、
それを「二歳の甥」に結合させる。
この笑いの「二重構造」は実際は関西的叡智にちかい。

二例め:
《目玉。目玉が流れていく川。夜を見ている目玉の川。窓。目玉がのぞいている百代の窓。夜明け、木のてっぺんにある目玉。》
イメージ結像性と発語の闘い。
句点単位でいうと上記の文は三つめまではイメージできる。
それがとつぜん「窓。」に飛躍するが
がんらい、詩的想像力では「窓」も「目」だ。
そして「百代の窓」という芭蕉「百代の過客」をかすめた語で
とつぜん川以外の空間が流動しだし(そこにも同じ目玉がある)、
その動きがさらに木のうえの同じ目玉によって
唐突に縫い閉じられて、
ふたつに割れたイメージそのものが瓦解する。目玉割れのように。
難解な語なしに、このイメージ奇術は敢行された。

詳細な書き方はしないが詩篇「石動」では、
「N戦争」「N市」という隠匿性の言葉をつかう聯があり、
うまくイニシャルの中身が当てられない。
僕などは「南京」をふと考えたが
とつぜんその答「のように」、
断章中にイニシャル「N」の
「ネカダル」という言葉が噴出す。
ところがこの古代地中海的言葉の出自が僕にはわからず、
ひらかれたNの扉はより謎の深度のほうへ向かってしまう。

とうぜん、レジュメも、
「はっきりしない地名」が多いと指摘する。
ただし「はっきりしない」のではなく、
「信憑において段階別になっている地名」が
一断章のなかにポップに混在していると
精確にいうべきだと僕が反論。

これも一例を、今度は聯の丸転記でしめそう(同じ「石動」)。

この間は酔っぱらいにからまれた。東海大学前からは、東海大学の学生が乗ってくる。東京学芸大学前からは、東京学芸大学の学生が乗ってくる。そうだろ、そうに決まっているだろって。そうですね、そうですね、って私。蛇骨原という駅を通ってきたら、蛇の骨が乗ってくるんですよね。石動からは、重たい石が。青土駅からは、まっさおな土が流れ込んで、列車の中はずいぶん混沌とした墓ができそうではありませんか。

鉤括弧で括られない曖昧な駅名提示がつづく。
それらを最大限に拾ってみると
①「東海大学前」、②「東京学芸大学前」、③「蛇骨原」、
④「石動」、⑤「青土」となるだろう。

①小田急小田原線に実在、
②は東横線に「学芸大学」という駅があって名前は近似値。
しかも「学芸大学」の隣には「都立大学」があって
それは大学が移転してもその名前のままでいる矛盾を生きている。
となって、「東海大学前」の旧駅名「大根(おおね)」が
「だいこん」と誤読されるのを住民が嫌い、
駅名変更された逸話も憶いだす。
そういえば京王線「つつじヶ丘」はもとは「金子」だった。

③「蛇骨原」はその駅名がないが、
「じゃこっぱら」という読みで、鉱物遺跡地があるようだ。
僕はその事実を知らず、
当初これを「だこつはら」と読み、
そこから俳人飯田蛇笏(だこつ)をイメージした。
露をのせた芋の蔓が群生する、「連山」手前の原。
同時に紫陽花と蛭の名産地、「麻綿原」をも連想した。

④「石動(いするぎ)」は富山に実在。
⑤「青土」は京成線「青砥(あおと)」を
ユリイカ、現代思想の「青土(せいど)社」にずらしたものだろう。
音読みすれば、「制度」と同音になる。

とまあ、駅名列挙だけで
中島の詩は「信憑」の細かい層を
遊戯的に路線変更しながら進んでゆくことがわかる。
こうした動きがポップなのだということ。

いい加減だと笑っていると
必殺詩句が不意に視野に入り込んでくる。
この「不意に」が彼女の詩の、空間の拡がりの本質だ。
玉手箱的空間、驚愕空間、決して要約されない含みの空間。

以下、出典詩篇明示も抜きにして、ランダムに。

《水中花火を真正面で見る。》
《「趣味 幻聴」。》
《たいやきでも見てろ。》
《人の肌の色を探っていく。辿り着く、その色合いがずれていく。》
《君たちを番号で呼んでもいいかな。》
《ミハエルを黙らせろ。》
(僕は最初これを「ミエハル」と誤読し
より鳥肌を立てた)
《カラスに放火する犯罪が、今では多発している。》
《魅力的な乳房は見せるに限る。》

詩句の質としては田中宏輔の最近の詩とも共通するものがあるが
抜き出したフレーズの次はかならず意外性につながっていて、
宏輔詩が前提にしている描写世界の隣接的連続性がない。
あるのは前提のない世界、
つまり言葉同士が裸でぶつかりあってつくりあげるだけの
「仮の隣接」のみで
その英断が、構文の仮の断定性とともに爽やかなのだった。
こういうことが現在の「詩の気分」に合致している。

中島の詩の律動・韻きをつくっているのは
馴染まない言葉だが「断定単位」ということができる。
それは断定でありつつ背後論脈から遊離しているため
曖昧さをももち、
それで結局、断定性の解除という機能を同時的にもってしまう。

断定文における断定性が侵食されるのは
中島の好みのどこかに「カタコト性」があって
それによって文が畸形性に傾き
断定の意味の縮減が起こるからでもある。

言葉はそのようにしていかめしさから逃れ、
子供の顔をしつつ分子的な衝突を開始する。
このざわめきにあかるさがあるのが中島悦子の特質だとおもう。

およそ以上のことをズラズラと喋ってしまい、
受講生がレポートを出す必要がなくなってしまった。

それで出した課題は
「A4一枚、計10くらいの短い断章を連鎖して
意味不明で明るい文をつくれ」。

とまあ、気楽な授業をしています
 

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2009年05月12日 日記 トラックバック(1) コメント(0)












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