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依田冬派・冬至線 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

依田冬派・冬至線のページです。

依田冬派・冬至線

 
とあるインタビュー記事を目にするのが厭で
「詩手帖」新号を買いそびれていたら
本当に買うのを忘れてしまっていた。
地元の本屋になくなる、と慌てて購入してみると
なんと投稿欄に依田冬派くんの詩が初入選していた。
おめでとう。

彼はずっとその欄の「佳作」常連で、
「飼い殺し」などと軽口も叩いていたのだけど
今度の作は、選者の瀬尾育生さん・杉本真維子さんもいうとおり
完全にひと皮剥けた。
「詩的開眼」にちかい体験が
依田くん自身にもあったのではなかろうか。

僕の観察では、一行の用語のなかに
膠着が消えて、隙間ができ、
それで空間が確保され、
だから詩行全体が流れとして動きだしたという感触。
詩世界をつむぐにあたり眼や足許が素軽い。
書く身体が生きている、ということだ。

タイトル「冬至線」。

「冬至線」とは南回帰線のこと。
夏至線が北回帰線となる。

それぞれ太陽が
地球表面の「直下」に熱をくだせる緯度の南限北限で
その範囲のなかが緯度的に熱を充満させる。
イコール熱帯可能性、ということでいいのかなあ。

ただし僕は「冬至線」の言葉の意味を本当は知らなかった。
冬至の時分は太陽がもっとも低い。
その地平線にたいしての南中場所を
冬至線としてしめすのかと誤解していた。
いずれにせよ、それは弱さ・寒さ・低さのなかに
捕囚されることをイメージさせた。
われわれの逼塞はさむい、ということだ。

渋沢孝輔には「夏至線」という詩篇がある
(『漆あるいは水晶狂い』所収)。
ただ入選した依田君の詩とは関連がないとおもう。
渋沢孝輔の詩は
その世代の詩作者では安藤元雄などとともに好きだ。

詩句が沸騰しようとする。
同時に逡巡とか含羞が走る。
それで詩行それぞれは抵抗圧の連鎖となりながら、
片方ではげしく内部分割化しようとする。
このひび割れが「叫喚」を錯視させるのだけれども
渋沢の専門ランボーからは差っぴかれて
「不全」の面持ちをみせ、孤独だ。

渋沢初期のころの連用つなぎの詩行連鎖などは
いまでなら森川雅美の呼吸をおもわせるが、
やはり言葉の熟成や蒸留期間がちがう。
孝輔の詩は「ただ書いてしまう」粗忽者の詩ではない。
噛めるのだ。

さて依田くんの詩篇。
まず第一聯~第三聯を転記打ちしてみる。



連絡のつかないひとりの
仲間のために
ぼくたちはおおきな灯台を
盗んで
しのび逢う恋人たちを丸裸にして
何人かの舟守も殺した

密漁者と手を組み
あらゆるルートを奪取すると
ただちに
期待はふくれあがって

(地平線は虹色だ!)



「ぼくたち」という主体提示がある。
僕のいうところの「われわれ詩」だ。

われわれ詩とは、
詩篇のなかで「われわれは」としめされて、
読者もまたその「われわれ」の域への包含をおぼえ、
同調をしいられる魔法を生産するものだ。

それは左翼運動~学生運動の主体提示に同じ。
つまり「we shall overcome」から
「われわれは勝利するぞー」までと姿勢が相同で
(だから「われわれ詩」の代表選手が稲川方人ということになる)、
いまは多くの詩作者では「ぼくたち」「ぼくら」と語をかえられて
「われわれ」の鬱陶しさから逃れようという傾向がつよい。

僕はカフカの箴言のなかの「われわれ」の用例が好きだ。
「わたし」の用例と確実な偏差が意識されている。
ロック歌詞では
We carried you in our arms,
on Independence Day
から始まるディラン-マニュエルの「怒りの涙」。
初発衝動がなくなる宿命のロックにたいし
老化を自覚してメッセージの具体化にとどまり
それで悲哀と怨嗟を表現した佳曲。

そしてこの曲では主体がweからIに転げおちる瞬間がある。
Why must I always be the thief?
と。

ところがこの依田「冬至線」では
主体は盗賊であっても一人称複数のままで、
虹色の提示があっても全体が暗色・寒色に終始する
(「虹色」の語は括弧のなかに入っている)。
主題は宿命性の今日的な膠着に関わっている。
鈴木謙介の社会学が参照されているかもしれない。

もっと微視的に検討してみよう。
まるでそのものを引っこ抜くような
「おおきな灯台を/盗んで」のイメージ効果が抜群だ。
つまり詩篇は虚偽とイメージ結像不能性を
自身の法則にしていることがこれでわかる。

冒頭、「連絡のつかないひとりの/仲間のために」から
実は抑鬱的なブレーキがかかっている。
その「仲間」は「われわれ」の我々性からの離脱を指示していて
配慮はすでにそういう「われわれ」の
自己解除のほうを行きかっているのだった。

主題は一人称複数の郷愁とその同時的不能を
郷愁をもって描出するというアクロバットを演じた、
園子温『気球クラブ、その後』と同じ。
その映画に連鎖された気球-風船の球形を
依田くんは地平線眺望にまつわる球形意識に換え、
同時に「( )」の風船型にも変貌させている。

よく考えてみよう、
《連絡のつかないひとりの/仲間》の所在とは
実におそろしいことなのだ。
「われわれ」の団結意識はこうした運命上の翳のためにこそ
死にいたってゆく。

それは「かならずいる」--「私自身の可能性」として。
つまり「われわれ」と「わたし」に決定的な弁別線を引くのが
倫理的には《連絡のつかないひとりの/仲間》なのだ。
倫理というのは、こういう仲間を忘れた団結は
その示威に虚偽を抱え込むため。
この弁別線と「冬至線」がかさなっている、と読んだ。

さらに一聯~三聯に固執すると、

《しのび逢う恋人たちを丸裸にして》によって
「ぼくたち」は半端なデュラス世界を扼殺する
(「デュラス」が実現されず
メロドラマ化してしまった『雨のしのび逢い』を想起、
同時に愛知県のカップル殺人事件をも)。
「ぼくたち」は盗掘のみならず抹殺にも関わっている。

しかしそれは地平を駆け抜けられない脱出不能にもつうじている。
この岸から沖へ向かうための「舟守」を殺し、
磯で鮑や海胆や伊勢海老を密漁し
それを盗品「ルート」で捌く近視眼性に安住している。
吉岡実「謎〔エニグマ〕/沖は在る」は当面、想起されない。

「ぼくたち」は「連絡のつかないひとりの/仲間のために」、
自身についに限界をもうける。
限界をもうけ抒情に濡れて、
結局は水平線=(地平線は虹色だ!)となるのだが
「ぼくたち」の歓喜はいつも括弧のなかに入り、
やがて閉域性を決定づけられてしまう。

ずっと飛ばしてみよう。

第七聯・第八聯・第九聯を転記打ちしてみる
(第七聯は元のレイアウトでは尻揃えだが天付きとした)。



(サヨウナラこんにちは)
ぼくたちはそのとき、
終わりと始まりを同時に知る
だれかが貝殻を打ち
鳴らす 打ちつづける

みんなが打つ
みんなみんなが打つ打つ打つ
冬至の日、

(地平線は虹色だ!)
(いつ 銃撃戦は始まるか)



サガン『悲しみよこんにちは』の代わりに
「サヨウナラこんにちは」と呟いてみる。
サガンはさらに出来の悪く、大衆化されたデュラスだ。

ただそれは「こんにちは」への別れと
「サヨウナラ」との逢着、そのふたつを同時につくりだす。
そしてこれは分離できない。
つまり邂逅と別離の分離は不能なのだった。

尾が尾を食む。
「ぼくたち」は全体が一匹の蛇、ウロボロス。
そうして開始(開闢)と終結(終末)は
無差異のなか円環に隠される。
はじまっていることとはすでにおわっていること、
おわっていることとはすでにはじまっていること。
はじまりのおわり。おわりのはじまり。
そんなことはノストラダムスの終末預言が流産したときとか
例の9・11でもう完全に自明になっている。

リズムとはいつでもしかし開始だ。
微視的にリズムはそれ自身からのズレをいつも内包し
その痕跡が複合化(ポリリズム化)をもとめるから開始だ。
だがその開始はマイルスのアルバムが終わるように
ズレのままかならずいつかは終結する。

「貝殻を打つ」。
鮑を密漁し、罪に直面するため
「ぼくたち」はそれを啜ったのだから
「ぼくたち」の周囲に貝殻はあふれる。
その事実を鳴らす、打つ。

それはリズムだから「始まる」。
しかしそれは、「貝殻追放」を聯想させるから
「ぼくたち」の内在性に
さらに分離斜線を描きくわえてもゆく。

「打つ打つ打つ」、
リズムはそれ自身の本懐となって吃音化する。

括弧に入った(いつ 銃撃戦は始まるか)は
その問が括弧に入っていることで始まらない。
内域はいつも不発で、
そこに抒情的なだけの(非)実質しか呼び寄せないのだ。

述懐が「ぼくたち」の生命力がいちばん弱まる
「冬至の日」になされているからそうなるが
(「ぼくたち」は周知のように短日性植物)、
ただよく考えると「冬至」以降、「かならず」日は長くもなる。

第六聯の一節
《みみみ、みみだれる日には》から引き出されたような
《みんなみんなが打つ打つ打つ》は吃音性として意識される。
「打つ」は「うつ」と読め「ぶつ」とも読める。
「うつうつうつ」は「鬱鬱鬱」だし
「ぶつぶつぶつ」なら不平表明だ。
ただしそれはリズム理論から抜けられない吃音性の閉域にある。

詩の全体は「詩手帖」5月号を確認してもらうこととして、
この詩篇の最終聯をしめしてみよう。



みんなが呼ぶ
みんなみんなが呼んでいる。



「ぼくたち」を主語とした以上、
「連絡のつかないひとりの/仲間」もふくめ
「みんな」という語は容易に擬制される。

吃音のさざなみにあっては第二行めは
《「みんな・みんな」が呼んでいる》、とまずは分解されるが、
もうひとつ認知をすすめてみると
《みんな〔みんなが呼んでいる〕》
(構文「みんなが呼んでいる」全体を「みんな」が包含するかたち)
にすり変わる。

つまり喚起・渇望が閉塞世界の常態であって
その常態性により、
世界は閉塞をあらかじめ解かれていると
考えられているのではないか。
入れ子が開放のかたちだった。

いずれにせよ、線による閉塞と
自身を「ぼくたち」と呼んだ閉塞について
この詩篇は詩的な考察を繰り広げている。

同時に最初のほうに書いたように、
一行の空間化が保証されつつ
各詩行が動態的に「展開」してゆくから
詩篇自体は閉塞をまぬかれていて、
その「ありよう」そのものが
提示された閉塞にたいして読解をつけくわえる。

依田君の「冬至線」は
そういう微妙な場所に出現しているのだった。
だから出来がよく、ひと皮剥けたと評されたのだろう。



「現代詩手帖賞」受賞者のうち白鳥央堂さんにとくに注目する。
とくに掲出詩篇には、西脇的「祝言」の気配があった。
あふれている。しかも貧しさが自覚され「あふれている」。
何と倫理的な言葉の組成なのだろう。

最後のくだり、
《いまは口唇の震え//私はさいしょの詩を書いていた》の
「さいしょの詩」とは、どう読んでも
投稿欄に応募された最初の詩篇のことだ。
ここでも「円環」が意識されている。

同時に投稿欄掲載によって
そのまま「詩集全体」を段階的に提示してゆこうとした
この詩作者(「受賞の言葉」にその自負が語られている)の
若さに似合わぬ透徹した意識を尊敬した
 

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2009年05月17日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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