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ラジオ巍々峨々 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

ラジオ巍々峨々のページです。

ラジオ巍々峨々


【ラジオ巍々峨々】


俺は鉄のあばらに夕を響かせた。空は断崖、ラジオ巍々峨々。



黄金つて停まつてしまつた煙だろ、自慰の遠くに雲として視た。



反復に時間単位といふ一定の実質があつて、女のやうだ。



滑り台型の詩歌が好きだ。初夏だからか、鉄棒型の文より。



風致地区のやうな女だつたから放置自転車の銀波がきれい



「にべといふ魚は南方的な鳴き声でうたふ」と漁師の便りに



檸檬内螺旋発見、掌にとつてスクイーズのみで視姦に代へる



伝言ゲームこそがエンドを育てるのにいまさら何の取材だ埴輪め



紳一の書庫から出土した発条をたとへば耳孔にうづめて。レトロ?



裏返す暇あらばこそ胸合はせ肛門性交したら折れてた。。。




口語短歌の試みをつづけてゆくと
だんだん異常になってゆく(笑)。

枡野浩一さんのサジェスチョンで
「短歌ヴァーサス」誌は正岡豊の載った号を探すも
ジュンク堂のバックナンバーコーナーには見つからず。
引き続き、探索を誓う。

なぜ最近、短歌に走っているかというと
たぶんサボタージュという意識がそこに入っている。
詩作の休憩期なのだ。

もともと僕は、作歌は詩作の邪魔になるとおもっていた。
作歌によって、情の線型性が心ならずも組織されてしまい、
詩作のときの加行や使用語に飛躍が減る気がしていた。
この感覚を高めるにはむしろ句作が必要だった。

ところが口語短歌ではそういう弊害がない。
フッと湧いたイメージを叩きつけてあとに何の後腐れも残らない。
こりゃいいや、とおもった。
量産できそうだし。

07年に出た「短歌ヴァーサス」11号、
特集「わかもののうたの行方」をよみだして
実は掲載されている「ポストニューウェイヴ」の歌が
コンサバだなあと落胆する。

現代生活や現代メディアの背景があっても
うたわれている情の質が旧態依然で、
そのことと律の遵守が相即している。
なんだ、新しいのは口語使用だけじゃないか。
これならばおおむねは
大辻隆弘、高島裕、横山未来子らの後塵を拝すだけだ。

僕には先に読んだ「早稲田短歌」のほうが面白かった。
つまりこの時点(07年)の口語短歌には「笹井宏之の吸収」と
「その後の緊張」がない。
だから「瞬間の天使」がいないのだ
(「瞬間の王」とはいわない――そう呼ぶと死ぬから)。

いま次に興味のあるのは歌論。
最近読んだなかでは、大辻隆弘さんのが抜群だとおもうが、
たしかに彼は時評に向いている。
つまり良い意味のスタンダードを形成するのだった。
詩壇での類推ならばかつての北川透の位置だが、
大辻さんの歌論の出来はずっと良い。
それは自作歌のレベルが北川さんの自作詩のそれよりずっと上だからで、
論は自作の蒸留要素をもつともそこで問わず語りされている。

だとするとわからないのが俳論だ。
ほとんど句作しない仁平勝の俳論が実に凄い。
邑書林「セレクション俳人」の仁平勝のシリーズ、
収録された「秋の暮論」は本当に僕の心胆に響いた。
うーん、ならば折笠美秋なんかも読んでみるかなあ。



詩は古本で、萩原健次郎さんのものをゲットしはじめた。
いままで読んでいなかった不明を恥じる。
たとえば稲川方人と杉本真維子の「中間鉱脈」は
実は萩原さんの詩にこそ集中していた。

現在の詩壇は90年代に関西詩人を軽視した欺瞞のうえに立つ。
最初に萩原さんがいて、次に貞久秀紀さんが出た
(貞久さんのことは近々、日記に書きます)。
そして最後に京都から田中宏輔『The Wasteless Land.』が99年に出る。
東京詩壇はそれらに警鐘を鳴らさなかった。

してみると唯一、萩原健次郎特集をした
同人詩誌「あんど」は良いセンを走っていたということになるなあ。

ということと関係なく
今日はずっと『万太郎の一句』(小澤實、ふらんす書房)を読んでいた。
久保田万太郎、大好き。
「いちばん恰好良い句」を量産した才能である点は間違いないだろう。
憧れる

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2009年05月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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