尾崎
【尾崎】
めんたまの球冷えびえと日暮には尾崎が刺した・挿した・鎖した
羽に似る花そばに身を置いてみて くづれる尾崎の百や千ほど。
人文字で書かれた文字などただ忘れ《ゆく春ひと日歩みきつたり》
鶸でなくみみづくに似た後頭部。愛してあの世の尾行うづまき
身頃とは身のいつごろか藍色の杉本真維子の耳裏おもふ。
てのひらに渦なくてきみの裏側を撫でればただの露の秋きみ
身のなかに身のある初夏を風説がふるへよぎつてこの幽門は。
盃を傾げるやうにきみの身を斜(はす)にし漏れたひらがなの汁
肉体の輪郭説は謬見だ。日照雨(そばへ)の京にも妓が千よぎる
死ぼたるの堆積ほどのわたくしは昔がたりに不可喩をもちふ。
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前回の歌日記は
短歌にたいする言及がなく、淋しかった。
きっと歌作がまずかったのだろう。
じつは今月の二十日すぎに、
詩誌『詩と思想』に長稿を出さなければならない。
テーマは「詩と身体」。
詩が身体をどう描いたかというほかに、
詩を書く身体がどうなっているか、
詩に身体そのものが擬制できるかなど
多様な着眼がもとめられているだろう。
杉本真維子は三省堂『生きのびろ、ことば』で
同様趣旨の原稿をもとめられ、
(たぶん)杉本真維子っぽく失敗している。
主題的にはみなにとって鬼門のはずだ。
僕は泣きながら黄金を視た。
でも飲めなかった――
とかなんとか、いずれにせよ、
詩での身体=肉体の事例を蒐めなければならない。
そのまえに市川浩『〈身〉の構造』を本棚から
とりあえず探しだす必要があるのだけど
整理がわるく、奥に入った本は見つからない。
メルロ=ポンティで代用できるだろうか。
貞久秀紀さんには圧倒的な「身」の詩篇、「夢」がある。
杉本真維子には「身頃」がある。
僕にもいくつかある。
だけど、たぶんたとえば「身」に
左右のあることや上下のあること自体を問題にしたい。
それで貞久さんからたとえば石原吉郎へと
詩の問題も伸びてゆくだろう。
そう、そこでは「身は位置だ」という端的な事実が
哲学的思考の対象となってゆく。
この問題は田中宏輔も一貫して追っている。
ただし女性身体ならば、
そこに「自分の身のおぞましさ」という問題も加わる。
おぞましさ=アブジェクション、クリステヴァの提起。
ただ買い置いている『恐怖の権力』には手が伸びず、
歌書句書ばかりを撫でさすっている。
女性短歌にはすでに多様な
身体沈思、身体黙想が出現している。
たとえば葛原妙子から水原紫苑を経由して
盛田志保子と横山未来子へと二本、分岐線を引くのも簡単だ。
ただしこれは枕にはなるが本論にならない。
何かもっと「詩のネタ」に肉薄しなければ・・・
どなたか、妙案はありませんか?
と、もやもや考えているうちに
仁平勝『俳句が文学になるとき』を読了してしまう。
集中、蛇笏論にゾクゾクしたのちに読んだ、
放哉論が見事な「俳句身体論」だった。
それにインスパイアされて早速、歌作した。
上の十首です