「頓珍漢」
ぼくはネットに対しては
まったく怖るるに足りない媒体というのか、
媒体たりえていないので、
「手帖」はネットで語られていることを
気にしなくてもいいだろうし、
詩の書き手は何の配慮もしなくていいと思う。
あそこで働いているのは資本主義の力学だけでしょう。
誌面は編集の人間がつくって、
印刷所の人間が刷るわけですが、
電波/デジタルコミュニケーションは
権力が作るわけです。
そんな場所に語るべき「文学」はないし、
その場所で語られていることに対して、
われわれが議論すべき問題はないと考えています。
●
――以上そのまま抜き出した。
「現代詩手帖」最新号、目玉企画のひとつ、
北川透/稲川方人/瀬尾育生鼎談における、
稲川方人の発言だ(47頁)。
座談進行のなかで
北川・瀬尾ともネットをみていないと公言しているので
この稲川の「頓珍漢」な発言は、
誰からも「頓珍漢」とも指摘されず、
恐るべきことにそのままスルーされてしまっている。
ここで「頓珍漢」と書くのは、
たとえば「真意がわからない」と書くより容赦がないとおもうからだ。
こう書けば、もう稲川も
自分を棚上げにした揶揄の調子で、
誰に向けたかわからないような反論を書くことができないだろう。
そう、幾ら稲川がボケたとはいえ
「どこぞの物書きに《頓珍漢》といわれた」と書くのは恰好悪い。
そう書くと、稲川の「頓珍漢」ぶりを知っている者も、
稲川の論理の進行を読むまえに
「やっぱり」と首肯してしまうはずだ。
「われわれ」という主体擬制が歴史問題ともなっているこの鼎談で、
引用部分の最後にある「われわれ」が
いかに不用意な発言であるかはもう指摘する必要すらないとして、
問題なのは、
《電波/デジタルコミュニケーションは
権力が作るわけです。》という発言にある
デジタルメディアにたいする素朴な誤認だろう。
たとえば2ちゃんでも、ミクシィでもそれは資本運営によっている。
あるいは個人がブログを運営しても
それがブログソフトの定式を活用していれば
個人の創作文書なのに、
その個人にたいし無断転載を禁じる約款があったりもする。
つまりは、ランキング記事の加工権は
ソフト技術提供者にあるという
例によって空疎な資本側の主張があるわけだ。
そのあたりのソフト利用者とネット資本の機微など
とうぜん「頓珍漢」稲川には知るよしもない。
たとえば、ミクシィ日記を集成する単行本を
出す権利があるのは自分だとミクシィは主張したが
僕のミクシィ記事をあつめた『僕はこんな日常や感情でできています』が
ミクシィから出版差し止めを主張されたことはなかった。
彼らはランキング記事の加工だけに眼が行っていて、
まさか個人の書いたものの著作権が
そのソフト技術を提供する自分たちにあると主張する意志もない。
これは係争事例的常識から考えてもわかる。
とはいえ、ネット資本と権力の関係はむろん考察に値する事項だ。
つまりネットは、脱中心性、
たとえばドゥルーズ=ガタリが志向するリゾーム型の
情報伝達空間として当初は規定された。
このときに中心化=権力が生ずる反動契機となるのは、
じつは「ポピュリズム」だけにすぎないだろう。
ネット資本は実際、ヒット数を誇るタレントブログでも
あるいはいずれは限定的アーティストへの
キックバックを図ろうとしているYouTubeでも
アクセスの多数性でその効果を伝えようとする。
むろんそれはグーグル理論的には誤りだ。
利用の瞬間爆発ではなく
低次利用の信じられない継続性のほうが
数量的な凌駕を結果するというのがネット社会の理想で、
つまりネット有効論は脱中心性を数量化する流れだったはずだ
(むろんそれは現状のポピュリズムの横行で、そうなってはいない)。
ポピュリズムの厄介なところは、
「有名な者」自身が「権力」をもつわけではなく、
それに乱入する者が「結果的に」「擬似的な」権力をもってしまう点だ。
つまり「多数」が形成されることによって
その反作用として「少数」が基本的には「悪意なく」抑圧される。
この点につきネット資本は
「想定外」と白を切りとおすことができる。
この点はさすがに稲川も
さきに引いた発言の前、
「徹底的な個人阻害や弱者阻害や少数者排除や
そうした新たな力学が生まれてくる。」とはいっている。
ただ少数意見の波及可能性を理論上保証するのがネットで、
それを現実的に阻害しているのはネット資本ではなく、
そこから噴き出したポピュリズムだという精確な把握が必要なのだった。
精しいことはどうでもいい。
稲川の意見はおそろしいほど「日本化」されている。
中国や韓国では誘導要素を度外視するにしても
ネット上の意見沸騰が、
政権を転覆するまでの力を得ていて、
稲川が自分の思考モデルを左翼性に置くなら、
なぜネットのそんな理想が眼中に置かれないのかが理解できない。
ネットはそれを活用する人間にとっては
確実に「左翼的な」転覆の道具となりうる。
北京オリンピック前のチベット紛争では報道管制が敷かれていたから
軍事介入のあった現地の惨状映像は公式には電波に乗らなかった。
それを世界に伝えたのが
住民のケータイ撮影→YouTube投稿という経緯だ。
この場合、YouTubeがネット資本だと目くじらを立てるのはナンセンスだが、
同時にYouTubeは、限定的アーティストにキックバックをおこなうことで
格差拡大の製造装置ともなろうとしている。
つまりそれは資本のあらゆる事例と同じく双面的なのだ。
むろん稲川にはここで書かれていることが複雑に映り
何のことかわからないともおもうが。
僕はべつだん「手帖」=思潮社の敵だと、
自分で自分を規定しているわけではない。
ただし稲川のいうように
版元の編集、印刷屋さんの印刷作業という
いわば蒸留装置を経由した全国的な詩誌だけが、
それゆえに無謬を期待されているともおもわない。
この言い方には「共同意志」にたいする
恐ろしいニヒリズムが伏在してもいる。
つまりたとえ思潮社が詩権力だとしても
その意義が認められるためには
その外部対抗要因として
多様な出現のされかたをするネット詩も視野に置かれ、
健康な比較考量がなされればならないと民主的におもうだけだ。
瀬尾育生は詩の発表については経済原則のみならず
「贈与」の要素が考えられなければならないと
この鼎談で正しく主張した。
ネットへの顧慮すら怠っている稲川は気づかないかもしれないが、
無償でネット詩を自分の読者に提供している(多くは無名の)作者、
その提供原理もまた、純粋な「贈与」なのだということだ。
その詩の出来がいいか否かは、
むろん「その後の問題」、「別の話」にすぎない。
そのようにして物を語るべき「順序」は確保されなければならない。
ただしヒステリックなネット詩批判のみでは
現在萌芽的に生じている詩作衝動の本質も
権威によってただ葬られてしまうだけだろう。
――と書いて、気づく。
一向にわからないのは、稲川がネット(詩)をくさすことで
誰の権益をまもっているのか、ということだ。
稲川が思潮社の走狗ではないなら思潮社の権益ではない。
となって守られているのが
彼の「頓珍漢」だけ、という結論も出てしまう。
これってすごく滑稽なことではないだろうか。
ともあれ左翼的ポーズをとる人間が
これほど世間の変化に無頓着な事態には淋しくなるだけだ。
齢をとった、ということなのだろう。
むろん僕だって、
「それがネット詩であるがゆえに」「ネット詩を擁護しよう」とは
毛頭おもっていない。
方向が稲川と真逆とはいえ
そういう単純な立脚ももはや危険すぎるということだ。
誤解を避けるためこの点はここで強調しておきます。
【その後した、僕自身の書き込み】
ネットそれ自体はやはり利便性ツールで
それを腐らすのが人心、
しかしそれは稲川氏のような単純な図式では
決して定式化できないってことですね
利便性と疎外が同時的、っていうのは
セキュリティ理論などでもそうなように
もう社会学では常識になっているでしょ。
そのうえのコントロール理論、
その精度のほうに
いまは大方の興味が向かっていますね
ネット詩そのものが
そのものとして駄目だということはありえない。
僕はこのごろ思潮社の味方なので
啓蒙を超え、
思潮社とネットが共存するプランをしめしたいともおもっています
たとえばオンデマンドひとつで
思潮社の詩集出版のリスクが
別方向へと分散できます
以下のようにつづきます。
●
〔ネット〔詩?〕については?〕
資本主義グローバリズムにおける権力が
語ればいいことで、
そこに加担する必要がないというのが
僕の基本的な考えです。
だからネットのなかで何が語られようが、
何がやりとりされようが無意味だと思っています。
権力が変われば
変わっちゃうんだろうということですね。
●
精一杯恰好をつけているんだろうが、
発言が幼稚というか出自不明。
第一、《資本主義グローバリズムにおける権力》って何?
①アメリカ。
②(ネグリから受け売りの)「帝国」。
ともあれ稲川氏は
ネット=シリコンバレー資本陰謀説なのかなあ、
と笑っちゃう。
(グローバル)資本主義から離れて
物をいっているように見えるのが片腹痛い。
そこから離れることが可能だと
彼は本気でおもっているのだろうか?
自給自足農業だって土地は所有制のもとにあるし、
種も買い付けるだろうし、労働だってカネに換算される。
というか、他国が資本主義を標榜するかぎり
一国も地域も(つまりは個人も)
資本主義から離れることは不可能だとは
稲川氏が好きそうな柄谷行人がいっている。
そのうえで資本主義とは運動(増殖)だという
ドゥルーズ的視点も脱落した腑抜けぶりですね。
ネット言説は死に向かい臨界へと増殖してゆく。
このときもう管理のほうが施策の急務となるはずです。
しかもその管理の基本形態が「自己への配慮」ですね。
資本主義グローバリズムにおける権力・・・
たぶん偏差が問題なのでしょう。
しかし偏差をつくりだす権力は
もう明視的ではなくなっている。
ポピュリズムにおける有名人も触媒であって
その権力性の実質は無名性の増殖運動のはずです。
そんなのは現代思想的な権力理論を斜めに横断すれば
たちどころにつかめる常識です。
こうした権力は誰もがもつ。
最も明らかなのは、そうした権力性を
あからさまにこの場で行使しているのが
稲川氏自身だという逆説です。
つまり稲川氏のネット詩ぎらいは
資本主義上の、歴史学上の、常識の欠如の結果、
という中間結論が出せます。
こう認識すると実はちょっと怖くなる。
そんなひとが歴史を視野に
詩によって資本主義を晦渋に批判する、
あの『聖-歌章』を上梓したということになりますから。
あの詩集の不恰好をさんざん僕はいったけど、
実際は稲川氏の教養欠如によって
それが起こったのではないか。
不要に難解なものには注意すべきです。
ただしあの詩集にかんしては
今度出る「未定」で僕は別角度から詳述していますよ
2009年07月01日 阿部嘉昭 URL 編集