船戸博史・通り抜けご遠慮ください
注文していた船戸博史のリーダーアルバム、
『通り抜けご遠慮ください』が届く。
『赤線玉の井・抜けられます』みたいなタイトルだが、
中身はバリバリのフリージャズだ。
いや、そう書くとちょっと語弊もでるか。
未明、ヘッドホンで二回聴いた上での感想をしるそう。
50分以内のランニングタイムにたいし
11曲も入っているということは、
実は「バリバリのフリージャズ」ぽくない。
これは意外や意外、「歌もの」なのだ。
「歌」をフリージャズの形式で
船戸さんは表現しようとしているはずだ。
以下は敬称略で。
船戸のコントラバス(ウッドベース)は
芳垣安洋のドラムス、パーカションと共謀する。
船戸の編みだすフィンガー弾き、弓弾き、
フレーズの引き出しがつねに変幻自在なように
芳垣のリズム創出も、
ドラムセットと
さまざまなパーカッションの音色、
その交換のなかで変幻自在だ。
とうぜんこのふたりが絡むと
リズムの土台が神出鬼没な遊戯性へと傾いてくる。
たのしさが起点。
ぎざぎざの抽象的絨毯がふわふわ動きながら、
それでもドラム、ペースのリズム打刻の一打性は
不可逆的な干渉として
縦--垂直に、時間軸へと切り込んできて、
愉快さと驚愕の不可分をもしるしづける。
その土台に招かれるのが二人の女性だ。
ときにラテンピアノ的明朗、
ときに不安な不協音をも叩きだす、
大澤香織のピアノは
いわゆるフリージャズの雷鳴ピアノというよりは
音数や指数が基本的に抑制されている。
彼女のピアノは「不測的に」歌をうたいだす。
するとベース/ドラムのリズム隊は
その歌を切り刻みはじめる。
それで何かゴージャスなおがくずが
音空間に広がってくる。
もうひとりの女性が
アルトサックス、クラリネットの小森慶子。
アルトサックスのバリバリ感、
クラリネットの音色の
ドルフィの位置からスティーヴ・レイシーを遠望したような枯淡感。
女性の吹き手というのが信じられない。
この肺活量は女性ともおもえないのだ。
演奏の全体はフリージャズの破壊性のなかで
それに離反しない数学的な精確さが刻々組織されるという感触。
アルバム中、最もフリージャズのフォームのつよい
7「Life Time」など
そのエンディングにいたる演奏者たちの相互呼吸の測りあいが
スリリングで、
結果的にはあっと驚く英断性で
エンディングがバシッと決まる。
「すげえ」とのけぞってしまった。
この曲での船戸は
複雑なリズムをキープするフィンガー弾きのリフが
次第にリズム細分音によって
圧倒的な緊迫感をはらみだし、
それでとくにサックスの音と「交接」をはじめてしまう。
そう、船戸は「ふちがみとふなと」に明らかなように
陽気な陽根神というべきなのか
どんな音楽ジャンルであろうと、
女性の音楽性を、
その個性を拡大するかたちで助勢しつつ
そこに楽しさや戦慄をも添えるのが得手だ。
三村京子のプロデュースも
そうした船戸特有の音楽活動の流れだった。
このとき、ある「特異な数分」というのがいつも出現する。
女たちの歌に船戸の神業的演奏が化合して、
歌の役割が、女たちから船戸のコントラバス演奏へと
受け継がれるのだった。
船戸はその意味での「化合神」。
そういう証拠がほしければ
三村『東京では少女歌手なんて』中
とくに「自殺のシャンソン」での船戸の音を聴けばいい。
弓弾きでもフィンガー弾きでも
船戸の出す音はあるとき
「はじき」「ふやし」から一種の「プネウマ」に変わり、
結果、ベース音がサックス音にすら聴えだす。
これが船戸の演奏が「歌」化される数分なのだった。
ジャズファンでなくとも
誰もがその神的演奏に驚愕するだろう。
その意味でこの『通り抜けご遠慮ください』で
最も船戸の演奏が「歌」化するのが
美しさとともに中国的幽遠も感じる
8「旅の疲れ」だろう。
ここではピアノが「歌う中心」にいながら
ときに船戸がコントラバスの弓弾きにして
旋律を唄ってゆく。
とくにラスト前、山を遠くに手前の枯野に日があたるような
船戸の掠れた弓弾きの音色はなんだろう。
いまの文章、隠喩の例示は虚子だったが、
その音色はすごく永田耕衣的で、幽霊的だともおもう。
告白すると僕は恐怖にわなわなふるえながら、
同時に目頭が熱くなってしまった。
恐怖と美の通底は通常、ポオ的テーマだが、
耕衣/船戸的テーマとしたほうがよい。
船戸のコントラバスによる「歌」については
アルバム内にもうひとつピークがある。
ラスト(11曲め)「Clinton st.」での
ベース/クラリネットのデュオ演奏では
ふたつの楽器の「枯淡」が共鳴しあって
なにか空間に幽霊性の「こだま」が生じている。
感触は、スティーヴ・レイシーが加わっている
最良のデュオ演奏を聴くのと似ていた。
この曲でアルバムが終わる全体の流れも素晴しい。
ともあれ奏者は達人揃いだ。
テクニック誇示ではなく、
相互の演奏に即応して
ジャンルの引き出し要素の交換などで
刻々自分の色を変えてくる。
そして全体の色調変化をそれぞれが誘導してゆく。
とはいえ調和性のみが志されるのではなく、
時間軸にたいし縦に不可逆な罅だって入れ
それによってこそ「時間が時間たらしめられてゆく」。
ああこの感じ、とおもわず声がでそうになる。
そう、それは「本物の詩」に接しているときと同じ感触だった。
本物の詩は「抽象性の生成」を、その音楽性の部分にもつが、
同時に詩は「歌の抒情」によって
自らの組成に試練をあたえなければならない。
抒情性こそが衝撃となる。
そのさいこの衝撃は自らの抽象性を保証するように
時間軸にたいし縦に打ち込まれていなければならない。
それは時間を切り刻むリズム細分の能力にも負っていて、
このときにこそ「詩作の達人性」が試されている。
というような詩観を
船戸たちの演奏もそのまま体現していて、
アルバムを通しで聴いたあとは
なぜか詩を書きたいという気持すら湧いてくる。
これこそが「音楽特有の賦活力」というやつだろう。
中身のよさと均衡するように
ジャケットデザインもいい。
植物の鉢植えの並ぶ無国籍な路地。
リフレットを開いてみると、
その中では表1のデザインがさらにコラージュされ、
論理的に不思議な空間が生じている。
このwonderが
そのまま演奏者がつくりだす全体性にもあったのだった。
このアルバム、
「ふちがみとふなと」のHPで注文できます。
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あ、今夜は三村さん、大中くんと
モールス&アナログフィッシュの
ジョイントライヴにゆく。
僕にとっての二大ロックバンド、愉しみだ♪