清水あすか・毎日夜を産む。
昨日は雑誌「詩と思想」のための長稿を書いていた。
あたえられた「詩と身体」という壮大な主題にたいし
どう視点の絞り込みをするかが問題だったが、
横山未来子さんの短歌を前フリに、
「詩的な男性身体とは誰か」とタイトルして、
男性の「のっぺらぼう」な詩的身体について書いた。
設問語尾が「何か」から「誰か」へずれるのは
往年の稲川方人、その詩句のパロディだ。
ネタに何を振るかについては
以前も廿楽順治さんと孤穴の孤児さんと
僕の書き込み欄で書きあった経緯があるので
(彼らもその「詩と思想」同じ号の執筆者)、
自分の場合はこうしました、という結果発表をここでしてしまおう。
固有名詞の推移でしめすこととする。
横山未来子→(杉本真維子)→石原吉郎→カフカ→
西中行久→(水原紫苑・岡井隆・加藤治郎・荻原裕幸)
→松岡政則
以上で28字×368行ちょっとを一気書きした。
書いている途中で
準備していた宮沢賢治も加藤健次も
字数的に組み込めないと早々断念、
そういう選択技術にこそ自分の成熟を感じる。
もともと市川浩の本を書棚整理でみつけられず、
貞久秀紀さんの「身の詩」への展開はできないだろうと
貞久詩への言及も諦めていていたのだった。
それで身体論もカフカの箴言から搾り出そう、と決意した。
●
そうやって原稿を仕上げ、酒を飲んで寝た。
未明に起きて、
夕方、当方の郵便受けに舞い込んでいた
清水あすかさんの新詩集『毎日夜を産む。』(南海タイムス社)を読む。
またも圧倒された
(そういえば昨日は恵投本の大豊作だった――
枡野浩一さんからは集英社文庫『僕は運動おんち』を、
江田浩司さんからは同人誌「ES白い炎」が届いた)。
清水あすかさんの詩集について――
前回の処女詩集『頭を残して放られる。』同様、
八丈島方言を交えた、ごつごつした詩的修辞にくらくらする。
硬く噛めない言葉のつらなりを無理やり噛むと
次第に空間や時間、
彼女の周囲や彼女の身体が、みえてくる。
いま「身体」とつづった。
運がよかったのか悪かったのか
この詩集をさきに読んでいたら
「詩と思想」の「詩と身体」テーマの原稿も
とても男性主体のみの視点では書けなかった。
清水あすかの修辞は狂っている。うねる。
鷲づかみの烈しさのなかから
何か「こわい」情がこぼれ、
そのなかからごわごわ説明項がなげうたれる。
その機微に容赦がない。
発語にともなう暴力に天性がある。
土地のつよさが味方しているのだろう。
嫉妬する。
たとえば以下――
●
痛みによっては靴を履くより前に、首を吊るものもあるだろう。
昔もそのように、むごけ様があったと聞いたことがあるから。
海が海から上がる音にかき消えて
娘は陸でわたしのことを伝えられないだろう。
何とか一声を追いかけて顔を仰いだときに、おまえもわたしを、忘れる。
――「海が海から上がる音」部分
●
何が書かれているのか正確にはわからない。
清水がいて、娘がいて、はげしい海鳴りがあって
母から娘への生の伝承に、闘争の色がこめられていると感じるだけだ。
そして八丈には多くの破綻者・敗北者がいて、
母娘はその手前に凛ととどまっているとだけ予想される。
このつよさは何か。
清水あすかはたぶん、八丈島という土地と一体化して
地霊からその躯に滋養を得ている。
「島」という空間の集中、四囲の荒海によって心を灼いている。
こんなフレーズもある。
わたしが体にたどり着くまでのおびただしい時間を、
この土地に置いたままでいる。
(「ついには満ちず鎖骨に浮かぶ。」)
清水あすかの肉体は良い。こんなフレーズもある。
今、わたしの左肩
知らないにおいがした。
わたしは年を取った。
(「骨にまつわる色を知る。」)
そうした清水あすかの「島の生」が
最も端的につたわる「凄い」詩篇を全篇引用し、
この短い稿は終えよう
(清水的幻想として「頭部の着脱作用」も中にあるのでご用心)。
●
【りんかく線の途中から。】
清水あすか
冬の夕方、山のアスファルトに眠れば
一瞬体は島と平行になって、わたしは
木が垂直に刺さるその三千本の床上になる。
向こうから木を草を燃やした火が消えたあとに出る煙のにおいがする。
空になくなる濃淡の、色が深くなればなるほどに、
夕方と夜の境がなくなれば無くなるほど
体から出ていく頭。その穴から出ることばはどんなにか
深くも深く溶けていき、そのうち体そのものから染み出ることばはどんなにか。
濃くなった夕方、わたしのりんかくは木と変わらずに
まるで混ざってしまう線。そこで吐く息の長さ
ひたすらにたまっていく時間のにおい
さらに沈む、アスファルトから生える体の
そこから出る色で今も島が育つ。
一を引いても何も減らない
わたしが在れば、いなくても。