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華氏摂氏 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

華氏摂氏のページです。

華氏摂氏

 
【華氏摂氏】


地上には華氏も摂氏もひしめけど木犀の陰、私しろがね



低原はとりわけ高温なす場所をお前と馬とで奔つて消えた。



「まほめつ」の見出し語に心ときめいてたまきはるかなこのむらぎもも



この身には口述の痕、ひそとある。川で擁かれる摩訶止観ぼく



勾玉の「まが」は曲〔まが〕なり、禍〔まが〕でなし。着飾つて聴くPerfect Dayを



わたしからわたくし去るを身罷るといへば罷免の生きもさみしゑ



僕の心、平坦にして非電導。ふるへてる、ホラ、茲の真鰈。



産道を落下の最中、逼迫し、「曲がれ」と叫んだ。余韻に産まれた。



千年来、自分を間借りし時々は夕暮のなか家具を展げた



「まかは」とは瞼なれどもこの夏のわれは総身をながれゆく川




昨日は渋谷のライヴハウスへ。
三村京子さん、それにネズミハナビの吉田諒くんという
僕の早稲田での教え子が二人出ていた。
吉田くんは、ネズミハナビのコンポーザー、ヴォーカル、ギタリスト。
フォークからもってきた、しかし色っぽい歌の節回しで
ロックとフォークの中間にある詞世界を唄う。
吉田くんは色っぽい。細身だし美男子だし。

ネズミハナビは初期、「鼠花火」のバンド名で、
ブランキー浅井的、目詰まりしたマイナーコードギターがスピーディだった。
そこにラップにも通じる吉田くんの早口歌唱が載って、
たとえば女の娼婦性をなじり、愛す、私小説的な世界が唄われた。
その他、フォーキィなバラードも得手としていた。

現在のネズミハナビはその手のアプローチ以外に、
コード進行に綾のある、パンチのきいたポップロック的なものも演る。
いずれにせよ吉田くんのエロキューション、声は健在。
終りの二曲、シングルが切れるとおもった。

三村さんは、昨日は淡々と初期曲を中心にアコギの弾き語り。
それでもやっぱり「岸辺のうた」とか魅了するなあ。
「私は終わらない」ではサビメロの歌唱に迫力があった。

僕のとなり、「銀鱈のブルース」の一節でわらっていたのが
日芸の生徒つながりで知っている俊英・高野くん(彼もミュージシャン)。
「私は終わらない」の三村ギター、
すごくジミヘンの「リトル・ウィング」ぽかったですけど、
あれ、先生の差し金ですよね、と見事に具体的に指摘された(笑)。

三村さんにはそういう「文化記号」は似合うけど
(彼女自身、レトロだから)なくてもいけますね、
という「さりげない指摘」もあった。
相変わらず、するどいやつ。
「AVに捧ぐ」、また演ってくんないかなあという
彼の願いも嬉しかった。

三村さんも日芸人脈に敬意を表し、
朗読では橘上の「花子かわいいよ」を演った。



加藤治郎さんから歌集を買って、
昨日から刊行順に読んでいる
(ミクシィでは誰でも加藤さんにじかに注文できる。
僕のマイミク一覧から加藤さんのトップ頁にGO!)。

いうまでもなく加藤さんは岡井隆門下で、
ケンカイさと音韻性のあいだに純粋にある口語短歌、
あるいは都市的情感の瞬間性をもつ喩成立の立役者だが
(つまり俵万智の善意の立ち位置とはまるでちがう)、
これほど短歌性とは何かを考えつつ、
作歌が頭でっかちにならない才能も珍しいのではないかと
読みながらずっと感動している。

あるいはこういったほうがいいかも。
バランスがある。あるからバランスを壊そうとする。
それがさらにバランスになる。
これって無間地獄みたいなものだ。
そういう自分の宿命性にたいし加藤さんてずっと果敢なのだ。

ついさっきまで読んでいたのが、
第三歌集『ハレアカラ』、第四歌集『昏睡のパラダイス』を完全収録した
砂子屋書房『現代短歌文庫・加藤治郎歌集』。
その『ハレアカラ』から有名歌をなるたけ除き、
試しに二十首ほど引いてみよう。




しろがねの剃刀の刃が水面に貼りついているようなさみしさ


限りなくつらなる吊輪びちびちと鳴りだすだれもだれもぎんいろ


鳴く鹿の喉のつやつやふるさとの母音うつろうふゆの宴は


ふりかえる鹿をおもえば森に棲む二重母音のははといもうと


台風が近づいてくるこわばったキャッチャーミットをほぐしていれば


ひいやりとした茣蓙に居る夏の日は雲形定規で母を描けり


白・黒にみだれて終る映像の「きて」「ああ」闇に顔をおこして


あたためたミルクに蜜を垂らしたり海の電車の鉄路に沿って


病葉をつまむ天使の悪戯にこのこめかみはいたむと想う


ちりとりに髪をあつめて居たりけり天安門の雪を思いて


滝壺の濁りにしずむ鹿の骨ついにカオスは幸福である


素描までいたらぬ線を見て居れば性にかかわる嘆きはあまさ


混沌のうしのちくびをつかむゆび俺は世界の苦痛になれるか


狂うから真夏のまひるもりあがる波がひかりの壁となるまで


黙りこくった女の子って指さきにたわむスライス・チーズひとひら


頂点に人あらわれておちにけり産道というにがき臨界


人生に夜明けがあれば小学校野球部入部テストの暴投


散会の男がひとりあゆみ寄るメタファーの火を借りにくるのか


われら讃えるものをもたねどろうそくの火の韻律を見まもりて居き


向日葵を描いた絵筆を洗うとき雲がひろがるようににごるよ




ご覧のように冒頭にかかげた僕の十首は部分的に
加藤さんの歌に啓発されてつくったものとわかるだろう。

ところが「摩訶止観」の語を調べるうち、
広辞苑第四版、「まか」のあたりの語を契機にした
作歌ともなってしまったのだった
(もどって、冒頭確認いただければ)。



そういえば今日は朝から
マイケル・ジャクソン死去の報を
TVでみつづけてしまった。とくにフジ。

小倉智昭、笠井アナ、デイヴのマイケルシンパ三人が
訃報の詳細伝達がすすめられるなかで
思い出を語るものだから見逃せなくなった。
出されるエピソードがワイドショーの限界を超えて豊饒だった。
これ、ワイドショーのベストじゃないか。
余勢を駆って、今夜、特番だと。

マイケルと僕は同学年。
誕生日も数日しかちがわず、思いは複雑だ。
そういえば小室哲哉も同学年だったりする。
「Around昭和33年」に共通する匂いというものがあるのだ
(加藤治郎さんは34年だね)。

ただし僕はマイケルが好きというのではない。
80年代にブレイクしたものは
流行る理由がわかってそれを仕事で分析しても
好きになれなかったものばかりだった。
クインシー・ジョーンズなどもその範疇。

だから「スリラー」のころ音楽で僕が熱中していたのは
当時のユーロニューウェイヴや
時代錯誤的だけどフリージャズだったね。
 

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2009年06月26日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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