方法の疲れ
【方法の疲れ】
方法の疲れ、夕日に照らされて刃傷〔にんじやう〕なのかさむい草生だ
水にしづむ夢はだいたい稚なくてわが右派左派も液状をする
七十年、辛子ガスから黄変した眼路をおもつて鷹がいま泣く。
まひるまはしろく耀く繭だから 内に青者〔せいじや〕の着衣も要らぬ
閑文字にしかないひとが邪まを得て火をはこぶ鹿となるかも
パラシュートの着地こばまれ以後夏は成層圏を流れゆくのみ
油照りのなかなる茄子の怖しさ。無を映す有の氾濫のこと。
寝姿の舟に似たるを萍が取り巻いてきて寝のかびくささ
七分裾ずぼんの跋扈、これにより嚢〔ふくろ〕の奔る像がやぶけた
照らされぬ側つねにある枇杷の庭で音声の鳥のあそび生まれた
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例のごとくの日録短歌。さて――
昨日から今日ただいまにかけて加藤治郎の歌集、
『ニュー・エクリプス』『環状線のモンスター』『雨の日の回顧展』を
つぎつぎ読みおえた。
方法論にたいしずっと明敏な歌人だが、
彼はそのなかで「秀歌率」といったものも考えているとおもう。
秀歌がひしめきすぎると
歌集展開が重くなりすぎて、
鈴木一誌さんのいう「ページネーション」が低下してしまう。
ところが差し掛かかっている方法論が完全だと
収録秀歌率が高まりすぎる危機が「自然に」迎えられる。
――なにかややこしい言い方になったが、
加藤さんの98年から02年までの歌があつめられた、
彼の第五歌集『ニュー・エクリプス』も
そんな歌集だったのではないか。
どんな方法論か。
口語や幼児語により、歌に異化をあたえるのでもない。
歌が二分の組成をもつことでスパークする喩の瞬間性に、
吉本隆明以来の「短歌的喩」の効力を継承するわけでもない。
塚本邦雄と岡井隆の方法混成というのか、
二分性によらないことで一首の読み下し性を確保しながら、
語連関がそのまま平明にして、
同時に、みたこともない喩を形成するのを目指す。
僕がいまつくっているのもそんな短歌の下手糞な例だとすれば
『ニュー・エクリプス』にはそんな秀歌が目白押しだった。
うちいくつかを転記してみようか。
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湖にみずしずみ居りうらわかき母の悲鳴のとどかぬところ
病む鳥のほのかに細い声となる詩の一行は苦しいだろう
囁きの春の雪ふる鍵盤のかずかぎりない柩にふれて
横書きのアラビア文字のしなやかにきみが反るとき明け方の風
青信号のひとつ向こうも青であるああ天国にもテロはあるのか
天金の白秋歌集手にとれば庭園の香ぞゆるくのぼれる
かなたから手があらわれて青年の心臓を抜くそらとぶしんぞう
たぶん今ふたりの胸はひかりあふ河のほとりにいるわけでなく
プラスティックの量器〔はかり〕に嬰児を載せるときしずかなり梨の香にみちて
ひとひらの光のように蜻蛉〔せいれい〕の羽はすずしく秋風にのる
虹のそのただひと色を抜きとってあなたは椅子を用意していた
夕ぐれのコップの水に触れてみる瞼にふれたやうなかなしさ
ミシンからしずかに垂れてゆく布の春の闇にはとどかざりけり
歳月は見知らぬ人を連れてきて車の窓をあけて微笑む
あるときは散文的にふる雨の明け方あわき脚韻を聴く
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《囁きの春の雪》中の「かずかぎりない」は岡井隆の絶唱、
《人の生(よ)の秋は翅(はね)ある生きものの数かぎりなくわれに連れそふ》
に、触れているとおもう。
同じ感触は《歳月は》中の「歳月は」と同じ岡井の
《歳月はさぶしき乳(ちち)を頒(わか)てども復(ま)た春は来ぬ花をかかげて》、
この対比にもある。
《ミシンから》の一首は子規のつぎの代表吟の変奏。
《瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり》。
掲出した歌でたしかに二物衝突の印象をかもすものはある。
《天金の》における、「白秋歌集」と「庭園の香」。
《プラスチックの》における「嬰児」と「梨の香」。
ただ衝突ではなく「香」の揮発性によって
一首はことばがただ縦に流れるような気がする。
《夕ぐれの》一首も、直喩があるようで、ない。
掲出した最後の一首のうつくしさは
終生忘れることができないだろう。