黒瀬珂瀾・空庭 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

黒瀬珂瀾・空庭のページです。

黒瀬珂瀾・空庭

 
黒瀬珂瀾の短歌を主知的だと印象するひとは多いだろう。

春日井建の愛弟子ゆえに
現在的な『未青年』の自己編纂を作歌の宿命とし、
同性愛ディテールをももつ「美少年短歌」を量産した
(とくに第一歌集『黒耀宮』)。
ところがそこからサブカル・ディテールをもつ歌への
自然な連続性までもが組織されてゆく。

一方、黒瀬は岡井隆のいる同人誌「未来」に拠っている。
塚本邦雄的に堅牢な喩精神と同時に
岡井→加藤治郎→斉藤斎藤→笹井宏之ライン、
現在最も刺激的になりつつある口語短歌の流れにも伍し、
後述するように深いレベルで歌が岡井調をかもすばあいもある。

時事詠も多い。しかも着眼はマスコミ報道に依拠せず独自性をもつ。
価値転覆的。しかも禁忌侵犯的。
珂瀾歌にあっては天皇家も大東亜戦犯もナチスドイツも
たとえばグランドゼロにたいする詠草、サブカル批評的作歌と
単純な等価をなしていると気づく。

絢爛たる技法、博覧強記の印象とともに
主題選択には彼の内部で単純な交易性が存在しているのではないか?
あるいは塚本=初期春日井的なものと岡井的なものとの交点で
歴史反復者のおもざしを印象づけながら
それらの変幻する中間項を体現しようとしているのではないか。

となると黒瀬珂瀾には歴史意識、批評意識があって
固有の自我がないのではという疑念も出てくる
(これは私性の問題にたえず回帰する短歌世界で地雷的存在を貫くということだ)。
あるいは自我の規定方法がちがうのではないか。
たとえばコクトーのようなプラスティック=可塑性自体を
自我の運動と珂瀾が嘯くのではないか。

そうした疑念から珂瀾の本当の自我をつかまえること、
たぶんそこに彼の歌を読む醍醐味がある。
そこで彼の美貌が生きる。表面の問題が惹起されているからだ。
つまり黒瀬珂瀾の領域は、コクトー的な創意と
その創意のもとでにじみ出てくる天使性、
この双方の域を不遜にも跨いでいる、というわけだった。



核心にあたることを一気に書いてしまった。
新歌集(第二歌集)『空庭』を贈呈され一読しての印象だった。
もっと本書を精しくみてみよう。

黒瀬珂瀾は時事詠を志向するので連作性をもつ短歌作者だとはわかる。
なかなかその連作は構成が凝っている。
まずは時間生起的な組成をもたない。
自由連想によりながら、各首は相互嵌入的、熾烈な噛みあいを演じ、
その傷口から、特定性を自ら脱する時空混合体がつくりあげられる。

詞書を駆使し計28首で構成された、
巻末近くの「太陽の塔、あるいはドルアーガ」などがその好例だろう。

最初に《池袋に住んで、もう2年》と詞書がある。
万博で岡本太郎がつくった建造物「太陽の塔」の名で
時代錯誤的に形容されているのはサンシャイン60だった。
僕らの時代ではあの高層ビルは
ロマンポルノの数々のアパートの窓から実際に捉えられ、
「お墓みたい」という形容をつねに受けてきたものだった。
池袋は新宿淀橋のように高層ビルの林立化も進んでおらず、
「お墓」の位置をサンシャイン60はいまだ独占している。

珂瀾のその連作は東池袋論へ傾斜してゆく。
おたくというか腐女子の聖地、乙女ロードがサンシャインの膝下にあれば
まずはアニメを中心にした珂瀾十八番のサブカル詠が連打され、
やがてはサンシャインが東京拘置所の跡地に建ったという歴史的事実から
今度は珂瀾の別の十八番、戦犯詠が組み込まれてゆく。
この複雑な時空体を宰領しているのが珂瀾、というわけだ。

うちに痛烈、暴力的な断言の一首がくる。

○日本はアニメ、ゲームとパソコンと、あとの少しが平山郁夫

精神的真実を言い当てていておもわず笑ってしまいそうになるが、
同時に歌の作者の体温の冷たさも感じる。
彼は二次元表現、ネット表現に親和しすぎて
その血液すらドライフーズ化していないか?
こういう疑念を珂瀾自身が誘導していて、
その反転をも彼は連作に仕込む(韜晦こそが彼の作歌動機なのだ)。

○ゲームクリエイターのパーティに吾をりて青鷺と寝るごとくさびしゑ

直喩とともに、詠嘆語尾の「ゑ」が生きている。
僕はこの「ゑ」にいつも女性性を感じる。



歌集全体が春日井建の追悼連作からはじまり、
やがてその徹底した自己対象化でもって肺腑をえぐるような師の葬儀出席を
詞書も駆使しドキュメントする
「六月の」へと流れが間歇的につながってゆく。
春日井短歌との決別はそこから印象される。
歌集中のもろもろは黒瀬がさらなる「独自性」をもとめさまよい、
時にはもうひとりの師・岡井隆をも併呑しようとする過程の提示だった。

短歌作者としての黒瀬珂瀾の位置。

○「若手」より二世代は下 王墓より響く鳴き声まとひてぼくは
※ ――現在の花壇で「若手」といえば加藤治郎の世代か。
「若手」=アラ50。
埋葬されている王は春日井建、
あるいは作歌時点ではまだ生存していたはずの塚本邦雄か。

○母語圏外言語状態 この美しき響きには強風に立つ銀河が見える
※ ――「母語圏外言語状態」全体に「エクソフォニー」とルビ

○PathosからLogosへ渡る橋にゐて神の火の一撃がまぶしも
※ ――岡井隆の謦咳に触れる幸福がうたわれているととった。
パトスとロゴスの共存者としてまずこの才能を人は数える。

○詩こそ紫紺の暮れ方にして鳥わたる静寂をわが鎮めがたしも
※ ――「静寂を鎮める」という撞着語法に注意。
詩精神は暮れ方にきてもう物音すらたてなくなりそうなのに、
そこを幻のようにいまも鳥が渡って、
作歌精神はそのありようから刺激される。
詩歌と鳥を配合し、「詩とは」と大上段に語りだす、
この歌の先例は岡井隆の例の絶唱だろう。
《歌はただ此の世の外の五位の声端的にいま結語を言へば》

○人ら等しくとらはれとしてひとやなる星にゐてまた星を眺めつ
※ ――黒瀬の本当の作歌の位置がみえる。
自らに特殊性を想定しない、ということだ。

○扁桃といふ実を持ちてわが身〔しん〕は日ごと黄泉へと溶け出してゆく
※ ――それでも作歌が反世界的行為だという自覚もある。

○ヨハネにもユダにもなれぬ皆様でDr. Ryuを囲む夕べだ
※ ――「Dr. Ryu」は岡井隆の異称、塚本が命名、岡井も自ら使用した。
岡井はイエスの位置に擬されていて、彼を囲む珂瀾たちには
ひとりのヨハネ(伝道者=道を継ぐもの)も
ユダ(大胆な裏切り者)もいないと唄われている。
そうした微温的会合を自嘲しつつ、全体は
ゲッセマニの森の十二使徒を描いた宗教画のように静謐だ。

○ われはわが歌によごれてしろたへの衣をまとふ炎天の下
※ ――「よごれ」の逆説に注意。「白妙」とうたわれ姿は汚れていない。

○ 恐るべき高みにて羽根を切り捨てし男に届かざるわがコーダ
※ ――作歌者・珂瀾にとって、先行者は洗礼者でなくイカロスだ。
「わが墜落を、自己切断を見よ、これを模倣するか」と問う者だ。
僕は珂瀾が誰を暗示しているのか実はわからない。
岡井隆、春日井建、塚本邦雄の誰かだとはおもうが――

○ あの人の玉なる声をかき消して夕立ふればそののちは蝉
※ ――岡井隆の往年名吟、その反転と受け取ったのでこの一連に掲げる。
《ひぐらしはいつとしもなく絶えぬれば四五日は〈躁〉やがて暗澹》



黒瀬珂瀾の性愛(関連)歌。

○ 君の身にわが肉片を沈めつつ脳裏に天の金雀枝〔えにしだ〕は満つ
※ ――「金雀枝」はフランス語でgenet。
よってジャン・ジュネは自分の守護植物と夢想していた。

○ 大学の前に手を振る一滴の羊水もまだなさざる妻よ
※ ――妻帯者にして子供をなさぬ者の自覚。
宗教的な立脚を考えるひともいるはず。

○ 吾がふふむ君の乳房の左右左右みぎひだりのあさひ
※ ――乳房の左右が曙光の清浄さのなかで悲哀をもって音韻化された。

○ 口でしてもらふ暮れがた雨ひとつすばやく過ぎて燈火を残す
※ ――フェラチオ、静寂、夕方は三題噺に似ている。しかし珂瀾歌は綺麗。

○ 騎乗位なる体位〔ラーゲ〕のありてもののふは矢をつがへたり宇治の川辺に
※ ――見事な二重視覚歌。そうだとして矢とは何か。
性愛の相手のどこに、宇治の川辺を見るのか。
そして「宇治の川辺」の隠喩に実質的な意味が結合できるのか。

○ 魂を注ぎ込むがに君の耳へ舌を差し入れ 花散らし雨
※ ――耳への舌挿入を「花散らし雨」と自署し
珂瀾特有の可憐、自己愛、美しさ、不気味さが揺曳する。
彼にしか許されない業だとおもう。

○死を思ひ出すたびにわが性愛の蓮咲く沼を覗かむとせり
※ ――性愛による死の抑止、それゆえの性愛の清浄。
この歌の世界観には、もしかすると折口が貼りついている。



黒瀬珂瀾の戦犯/ナチス歌/サブカル歌。
これは説明をせず、ただ投げ出そう。

○ 風吹かぬ朱夏の底なれ大東亜大臣重光葵の義足
○ えんえんと会議は続きスライムとスライムベスの差を思ひをり
○ 少年の瞳こはれてゆくさまを楽しみて見る吾は何者
○ アウシュビッツに奉職したる思ひ出のあらば明るき残生ならむ
○ 雪降ればわが身白布〔シーツ〕に巻かれつつナチスよ美〔は〕し、と思ひ至りぬ
○ 窓の外〔と〕に草薙素子立つ刹那朝地震〔あさなゐ〕の来て揺るる硬水
○ 幕間のごとくに晴るる空かつて首落とされし天皇〔おほきみ〕ありや



この歌集の著者あとがきの最後の文言は、

僕もそろそろ、《世界》を卒業せねばなるまい。

だった。
実際、黒瀬の歌には「セカイ」ではなく「世界」の語が頻出する。

手近な人間同士の間柄から何かの兆候を読み込んで、
中間項・中間手続きをすっ飛ばし、セカイと交信しつつ
そこでの自らの使命を構想する、
抽象的・独善的な外界想像力を「セカイ系」という。
『エヴァ』なら許容範囲だが、たとえば僕は高橋しん『最終兵器彼女』が駄目だ。

その「セカイ」と対峙するように珂瀾の「世界」歌はある。
ただし「世界」という用語にはもともと抽象化の危機がある。
それは哲学の危機とも同じ。
それでも「世界」の語自体は魅力的なのだ。
たとえば誰もがヘッセの詩をそのまま唄った頭脳警察の、
「さようなら世界夫人よ」の「世界」に陶然としただろう
(あれと同じ感覚を、最近ではアナログフィッシュの
「世界のエンドロール」におぼえた)。

よって珂瀾の作歌は、その世界の多様性(複数性)、殺伐感、無秩序、混在性、
さらには同語反復的になるが、その「世界性」を保証することでしか
「世界」を主題にしようとしない態度となる。
この試みに成功したとき珂瀾歌の独自性が最も保証されるのではないか。
歌集から引く。これも解説をはぶく。

○ 秋めくや僕は世界の中心のやや左にて愛をさけぶ、よ
○ 永遠に白き葉月の午後 蝉の声を残して世界は終はる
○ 晩餐のライスもてわが築くかな《世界》を容れぬための長城
○ 朝焼けは植民地にも絢爛と来て世界中朝焼けだらけ
○ 世界終ハレ世界終ハレト兇王ガホホヱムユヱニ焚キ火ヲツナグ
○ クリームシチュー甘く煮つめて混沌の世界をひとつ産み出しませう
○ 見えすぎる世界もいやでコカコーラ飲みつつ歩む闘技場まで
○ エレベーターで三十階へ行くときも世界は《性》に覆はれてゐる
○ ルーレットことりととまり平行世界沸き来るを見て部屋を後にす
○ しろがねに輝く水は傷にしみ世界がふいに戻されてゐる
○ ファインダー覗けば朝の祈りほど世界はつどふ君のまはりに
○ 華やかに世界の朝が遠くなる 仮装を解きて笑みかはすとき

同時に、「世界」の語がなくとも、「世界感覚」が迫ってくる秀歌群もある。

○ 意味消エヨ消エヨ僕ラハ朝焼ケニ架空庭園論タタカハス
○ 銃だつた、あれは確かに。緩徐調〔アダージョ〕の街との別れ際に見たのは
○ 時間は香る、だらうか昼が夜となる時を華やぎ無残なるみづ
○ あるはずさ人類愛は きみがけさペリエをついだグラスの底に



黒瀬珂瀾の歌は塚本邦雄的な喩から離れだし、
意味の空間的形成に歯止めをかけ、むしろ、
息の生起によって意味の形成にかえること、
つまりは読み下される時間性にさらに繊細となることで
より絶唱率が高まるだろうが、本人がそれを志向するかどうか。

このあたりの判断の際に驚いた歌がじつは二首あった。

○ 火の落つる地の遠ければ地を歩むものらはみえず乳の匂ひは
○ 死者はつね水際〔みぎは〕に吹けるオーボエのどこか遠くに豪雨はそそぐ

どちらも、主格助詞「は」が問題で
一首め「匂ひは」の「は」留めは、言いさしのままの切断、
二首め「死者は」の「は」は呼応する動詞のないまま空中拡散する。
文法的誤謬のような真似がなされているわけだが、
この「は」は韻律的にも意味の曖昧効果に向けても「決して動かない」。
こういうところに
黒瀬珂瀾のさらなる新境地の可能性が覗いているとおもった。



一頁五首組なのだが、圧迫感がない。
判型と字の大きさのバランスもよく、
これは歌集装丁の新発明ではないだろうか。
装丁=クラフト・エヴィング商会。
僕の詩集の装丁もお願いしたいくらいだ。

本阿弥書房・本年6月刊、2000円。
 

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2009年07月01日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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