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中本道代さんの詩 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

中本道代さんの詩のページです。

中本道代さんの詩

 
今夜は「中本道代さんの丸山豊現代詩賞受賞を祝う会」に出席する。
それもあって、昨日から、もっている中本さんの三詩集、
『春分』(94)『黄道と蛹』(99)『花と死王』(08)を順に読み直していた。

中本詩は通常の女性詩に較べ、情を抒べず、
言葉が峻厳に刈られ、その成り立ちも厳しい。
言葉は最少状態で結晶化してゆき、硬質な抽象性を招く。
その際に、ひとつの発語が別の発語へ連鎖されてゆくような
円滑さを印象づける「詩の線」といったものがない。
詩線はおおむねいつも過激に途切れてゆく。
これが読解中の不安定な印象となる。

同時に長い詩を書くことはどこかで中本的戒律を外れる。
だからその言葉数の少ない詩篇もごく短時間で読了される。
体験の少なさ、あっけなさ。
それで読者は一篇読了の直後にその詩篇の再読をもう開始する。
そう、読解がかならず反芻に似始めるのだ。

このとき読者に共有されるのを峻拒していたような詩篇の硬い表情が
ほぐれはじめ、そこで像をも産出しはじめる。
ぎりぎりの修辞の裏側にあったものを
中本道代という個性から得た経験則で読者が率先し補いだすのだ。
そうなると、もういわゆる「うるうる状態」で、
読者は中本詩の魔法になすがままになってしまうだろう。

中本さんの清楚で、大きく潤う瞳が詩篇の印象にかさなる。
それは、高所の湖水のような、「秘密と拒否と清浄」の三位一体ともいえる。
恰好の詩篇が『黄道と蛹』『花と死王』それぞれにあった。



【湖】
(『黄道と蛹』所載)

高い山の上に湖があり
湖はその深い水底に魔物を匿っていた
あなたはボートに乗るの?
湖の中央まで漕ぎ出るの?
そんな小さなボートで

高い山の上で
ボートとあなたは水の上にあって
天に向かっていた
その水平面は非常に薄く
在るとも言え 無いとも言えた

見下ろせば水は青緑にどこまでも深く
魔物はどこにいるかもわからないのであった

けれど

魔物はゆっくりと泳ぎ上って来る
あなたはそれを見ることはできないのだが
天とあなたと魔物は今 一直線をなす



【高地の想像】
(『花と死王』所載)

ヒマラヤの湖に
夜が来て朝が来ても
ただ明暗が変わるだけ
そこでの一日とは何だろう

風が訪い続けて
そこでの一年とは何だろう

ヒマラヤの湖に
だれかが貌を映すだろうか

ヒマラヤの湖に
小さな虫が棲んで
何も考えることなく
くるりくるりと回っているのだろうか



一篇め「湖」には、水面の「極薄(アンフラマンス)」を定着する
簡潔な二行がある。
その薄さのうえで、もともと高い湖底と天が相互反映する。
湖底から「あなた(ボート)」を狙う魔物の線は
水面の薄さゆえに天へと突き抜ける怪しい動勢を獲得する。
すべては高さ、さらには水性という神々しさのなかで危うい。

ところが僕はこの湖面が中本さんの瞳だとも考える。
だから「あなた」のボートを浮かべるこの湖面は
「あなたを見ている」中本さんの瞳だ。
その「あなた」を眼底に引きずりおろすか遠方に解き放つか
そうした生殺与奪の権利は、瞳の水性自身が握っている。
たとえば瞑目ひとつで瞳は対象を殺すこともできるのだから。

こうして「湖」はトポロジーの魔法をしるす詩篇なのだが、
それが圧縮され、同時に平易な言葉で書かれきっている点に驚嘆してしまう。

ところが二篇め「高地の想像」ではさらに言葉が痩せはじめる。
痩せて、「ヒマラヤの湖」の語が無造作に三度反復される。
高所の湖が、俗塵を峻拒しながら
どのように自己展開・自己巡回しているか
想像は純潔にその一点のみに迫ろうとして
かえって水流と生をともにする「小さな虫」に逢着する。
ここで生とは汚濁であって、同時に「汚濁の反省」のようなものだ。
つまり「われわれ」だ。
このとき中本的な「死と生」の二重模様も滲みだすのだが、
いずれにせよその模様を特権化する場所は「水」にちなんでいる。



中本的な「水」は出現し、にじみ、一空間で別の何かを告げ、
美しさによって人をまどわし、生に、あるいは死にひとを近づける。
効能を数語に短縮して要約することはほぼできないが、
水の幻惑は「他」との対照により真の幻惑となり、
それゆえに水は自身の水性を離れだす何かとなる。
それは定着できない動勢なのだ。
以下、拾ってみよう――
(字下げについてはPC画面上の「スペース」がファジーなので、転記を割愛)。



《水分で飽和している空気/の中に//今//光る乳が流れ出る》
《バスで海へ/茫漠とした深まりへ》
《ぬかるみに残るタイヤの跡/海へ》
(「Summer Song」『春分』)



《海にせりだした山/海に落ちていく山》
《裏日本で干上がっている魚/海の向こうに/大陸/血の流れる大陸》
(「日本列島・1989」『春分』)



《そして 今/シャーベット状の池の底では/
電話線の中を男のような声が流れる/
「私がここにいるのを/知れ」と》
(「1月16日午前」『春分』)



《犬は水に映らない/犬はどこへも行けない》
(「鏡」『春分』)



《昼夜を貫いてやっと届いた眼差しが深い水の中に沈んでいく
//「瀧はいつも視線の外側にあるのです」》
(「翳」『黄道と蛹』)



《海には二つの色があって/一つはこちらへと/一つは彼方へと向けられていた
//私は胎道の中を/出ては入って/
海のそばで/海に触れることはできないのであった//
サクラが開こうとしていた//
日本と呼ばれた国の/誰もいない裏側に向かって》
(「春の遍在」全篇『黄道と蛹』)



《水の中に浸された一本の足は/
生きることと死ぬことを同時に為しながら/春へと開かれる音楽》
(「蛹」『黄道と蛹』)



『春分』『黄道と蛹』という二つの詩集名は
中本の想像力の好みをそのまま語っている。
閉鎖世界(蛹の体感)が等分割されることで
圧倒的な次段階が呼び込まれるとして
それは季節としては春分、地球への太陽の干渉線としては黄道なのだった。

中本はその意味で「境」を感知する。
「閉鎖世界」の感知と、どちらの頻度が高いだろうか。
どちらにせよすぐれてトポロジカルな想像力なのだが、
彼女は自分のそうした想像力をこれみよがしにしない。
むしろ「蛹化」する――そうして彼女の詩句に、言葉の運びに
薄いながらも上品な奥行き、
「それ自身がそれ自身になす影めいたもの」が感知されるようになる。
中本詩の体験とは、つねにそういうものではないのか。

さきに列挙的引用したなかの最後のフレーズは
そういったものが像とも音楽とも呼べないものを組織し、
言葉の魅惑が秘密めいて女性化する機微を端的に表現している。
同様の例をさらに抜いてみようか。



《パンティをはく夏/あせた花びらのようなうすい/色の/パンティ//
ぬれた水着は足もとに/くたりと//
パンティをはく/(そのたびにしのびこむ夏)//
脱衣場のぼやけた鏡に/うつる/顔》
(「夏」『春分』)
【※引用部分で物理的な「境」はふたつある――パンティと鏡だ。
その境によって作用されるのがここに描かれている少女の躯で、
それは加算されたあとでうつくしく朧化してゆく】



《うなぎeelをあなたはきらいだと言った//私はそんな長い体について考える//
蛇 ミミズ/ことに ミズヘビ アナコンダ//
私はそんなあなたの長い体について考える》
(「異国物語」『春分』)
【※引用部分で「境」をしめすのは「うなぎ」と「あなたの長い体」。
それらは相似を描き、ゆえにうなぎの「非食」によってすらあなたの長い体の中に入り
差異=境を本当になくしてしまう】



《その貌は何度でも世界に顕れるでしょう/けれど/
人の世の終わる時/その貌は消える》
(「言葉の蛇」『黄道と蛹』)
【※中本的世界ではエピファニーは「境面」の出現だが、
同時に蛹の体感も志向されるので視界の傷口は自然縫合されてしまう】



《接吻と抱擁/それらは白熱する黄泉の太陽に司られて私たちのものとなる》
(「親和力」『黄道と蛹』)
【※「黄」泉という限定辞がある以上、本当は「白」熱しない。
ところが用語は付帯的に「黄」と「白」を混ぜる。
この混合によって「接吻」と「抱擁」が一体化するが、
それでも「白熱」が除外されているため、この一体化の内部には境がのこる】



《やがて闇が降りてきて/
私はさびしくない  ことがさびしいのだと/遠くの方で教える声がした》
(「無声」『黄道と蛹』)
【※恐ろしい語句の運び。「さびしくないこと」と「さびしいこと」の境が消える。
そういう境界消滅者が真の寂寥のなかにいるのだが、
その者は先験的に闇のなかにいる――少女的価値倒錯の闇に】



《樹々よりも高いところで単独の性が泡だち/薫りだけが残る》
(「天使の涙」『黄道と蛹』)
【※「単性生殖」は樹木の高さまで、というのが世界の法則で、
この場合、樹木は目安や目盛りとして整合性に君臨している。
その「境」が越えられてこそ、薫りにみちた想像の自由が到来する】



《私たちは結婚した/まだ十歳にも満たず//
それからというもの/数え切れないくらい結婚した》
(「花の婚礼」『黄道と蛹』)
【※「境」をなくした時間が設定されて、そこで「愛」が生きられるとどうなるか
――とうぜん挑発性によって美しい、上のような詩句を中本的世界は招来する】



中本道代の既存詩集『春分』『黄道と蛹』にかかわりすぎたかもしれない。
本来は、今回の受賞対象となった『花と死王』のほうを詳述すべきだった。
とうぜん同一作者だから、既存詩想の目覚しい発展もある。
蛹=繭籠もりという中本的トポスは
『黄道と蛹』では「白の位相」が素晴らしいが
「白の位相」で花のなかにいたのは、懐かしさを覚えさせる病者だった。
『花と死王』では詩篇「陽炎」でやはり花が降るが、
その内部は数々の「境面」が織り込まれて事前と事後を映しあい、
結局は幽玄ともいうべき対象化不能の光景をつくりだす。
むろん「わたし」にかかわる光景で、それは接吻が動機ともなった。
「/」による繰り込みなしで、全篇引用してしまおう。
愛が褪色したあとの色も愛というべきだという人生真理もそこにはみえる。



【陽炎】

花びらの降り止まない日
くちづけの中にどこまでも
行方を尋ねていく

敗北の長い影を負って
枇杷のつゆに濡れた口で
わたしたちが
時の中からあらわれ
枇杷の種を吐き出して
短い眠りに沈む

水の輪の下で
揺らいで消えていく文字とともに
約束は何度でも消え

わたしはなぜ生まれたのか

先立つ未知のものたちの息づかいが迫り
けれど 遠く
擦れ違っていく場所で

ひっそりとあふれる水に
もうわたしのものでなくなった貌を映す



最後の一聯の「中本印」などファンには直撃だろう。
それでも語法の曖昧・幽遠は、以前の詩法から深化したものだ。
水の主題なら、水が自明性をなくしてゆく過程で
貝の死に様・生き様がそこに交錯してゆく「貝の海」が『花と死王』にある。
水に空間を浸潤され、固有性を空間がなくす成り行きを
想像して憧れる「夢の家」という不可思議な詩篇もある。
この詩の空間の語られ方の独自性は、
『春分』ラストの素晴らしい詩篇、「母の部屋」とも比較されうるだろう。
地上的固有性を失った閉鎖空間にこそ、逆説的に中本的郷愁が滲み始める。
とすると、中本道代の奥底にあるのは漂泊意識なのではないか。

この中本の意識を告げるフレーズを拾ってみよう。

《だれも知らない一隅で起き上がるとき/記憶が滴のように落ち続け/
おそらくは意味のわからないそれを/悲しみと間違える》
(「薄暮の色」『花と死王』)

さてそうした閉鎖空間を等分に分断する顕現者として
この『花と死王』ではものすごく印象的なキャラクターが登場する。
タイトルにもある「死王」だ
(「死神」ではないそれを形姿に変えることはできないだろう)。
ただし「死王」は詩の主体の想像力から召喚される。
意味のないTV画面の像によってこねあわされ、つくられるのだ。
こうして「死王」と詩の主体の関係は「繭内」のそれともなるはずなのだが、
中本の獲得した修辞の「幽玄」は、
詩中に描かれた関係をどこかで確定的にしない
(このことが最も恐ろしいことなのだ――
「AとB」と対比がなされた瞬間に、その対比性が消えることなどありあるのか)。

最後にその「死王」が初登場する詩篇「交錯」を全篇転記打ちして、
この長くなった詩的メモを終わりにしよう
(付帯していうと、『花と死王』は末尾に散文形〔に傾斜した〕詩篇を集めていて、
そこでは中本道代が構想している新しい詩法も垣間みえ、ゾッとさせる――
そのなかの「新世界へ 風の脈拍」でも
一瞬「死王」が姿をみせる。以下のように――
《蒼白い太陽は死王の精嚢ではないだろうか》)。



【交錯】

窓から侵入する水銀灯の光がギラギラし過ぎている
そう思ったのだ
いつものことなのに

TVをつけるとその中の人々もギラギラし過ぎて

白薔薇が霊気に包まれ最期の息を吐いている

だれもが生きることしか求めず登場したはずなのに
世界は解〔ほど〕きようもなく縺れて進んでいく

きみの黒いダンスも少しのあいだしか許されていないね
だから

踊るんだ 思いっきり

死王よ 見るがいい
あなたのためのダンスだ
あなたに瞳がなかったとしても

―――――

雪が約束されている

   ―――――

鳥たちが燃えて飛び立っていくね
その炎に包まれた小さな脳髄がこの世を記憶する

わたしたちも眠ることができるだろう
眠りの中で
再び絡み合った森の中でもがくだろう
そしてまた見つけるのだ
わたしたちすべてを
その変形した一つ一つの姿を

死王よ
雪が約束されている
 

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2009年07月09日 現代詩 トラックバック(0) コメント(1)

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2015年04月18日 編集












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