追悼・平岡正明 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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追悼・平岡正明

 
冬場の恰好は、上が、皮ジャン系が多かった。涼しい短髪。
幾つになってもジーンズとショートブーツが似合った。
脚が結構長かったからかもしれない。歩きは大股。
からだはどのくらい柔らかかったろうか。
往年の極真黒帯の余韻がまだ神経や筋肉に残っているなら
あの長い脚はふりあげられ、一旦、方向を見失わせ
やおら相手の死角からその踵で
あっさりと急所の延髄を逆打ちしたかもしれない。
どのくらい、肉弾戦につよいんだろうなあ、と
最初に会ったとき、ぼんやりとおもっていた。

その平岡正明さんが死んだ。
脳梗塞だったという。
高血圧に悩み、数年前には入院療養もし、
インプット量もアウトプット量もそれ以前の三分の一にまで低下し
身辺は逆にそれで落ち着いてきた、と近年の賀状にはあった。
だから訃報にたいしてはついに来る日が来た、という感慨があった。

賀状の字はいつも平岡さん独特の悪筆だった。
筆圧のない字がゆがんで紙上をダンスし、個性ある痕跡をえがく。
手首を固定するゆえか「ひねり」が字に多く、慣れるまで判読しがたいが、
慣れると結構、読解苦労もなくなる。
なぜあんな字を書いていたかといえば、
尋常を超えた多筆速筆で、舞い込んだ原稿依頼をこなしていったためだ。

腱鞘炎をおそれていたにちがいない。
腱鞘炎をおそれる者はほかにピアニストなどのミュージシャンがいる。
拳の故障をおそれるのならボクサーなどの運動家。
そう、平岡さんは抜群のアジテーターであると同時に
陽気きわまる上機嫌のパフォーマーであって、
そのパフォーマーの実質は音楽家と運動家の綜合にあったとみる。

僕は中学高校時代、「(ニュー)ミュージック・マガジン」を定期購読していて、
平岡正明の文は最初、そこで知った。
のち『歌の情勢はすばらしい』などに収められるような
演歌を中心にした歌謡界とアジア、それから第三世界を想像力で結ぶ、
一種奇怪さをももった原稿を書いていたとおもう
(そう、そこでは歌詞分析もどこかで拡散的で、
ひたすら「類推」が翼を広げ、領域を跨ぐ飛翔が繰り返されていた。
その意味では意外に音楽定着的でなかった)。
ジュリー、百恵、ピンクレディなどをつかまえ
世界音楽は現在、準決勝段階にあると平岡さんに断言されて、
その断言の有効性がどこまでかを
音楽好き高校生の僕は測りかねていた。

たしかに音楽の趣味は僕とすごくちがっていたとおもう。
僕は自分の同級生の山口百恵には平岡さんのように乗れなかった。
声が嫌いだったのだ。

それでも平岡さんは抜群の耳の持ち主だった
(晩年は片耳をやられてしまっていたけど)。
「背景」と「歴史」を声の土台にある空気から聴きあてて、物語を紡ぐのだ。
だから平岡さんには会うたびに、いろんな提案をした。
ザッパを聴いたらいいですよ、
60年代後期のロスの知的な空気はじつは20世紀世界を集約しています、
アメリカの芸術的覇権はそこにのみ集中しています、とか何とか。
(そういえば進言したドルフィはやがて聴いてくれるようになった。
ただスティーヴ・レイシーやカーラ・ブレイは最後まで聞かず、
ビパップ時代に平岡さんのジャズも領域特化していたとおもう)。
だから僕の平岡さんへの提案も結局、中国映画の分野にとどまった。

たぶん僕には、前世代への反発から
吉本隆明を読まないで
一生を貫徹しようと決意した時期があったんだとおもう。
前世代の恰好悪さと吉本のそれが似ていると錯覚していたのだ。
それで反吉本の論陣を張った才能ばかりを拾ってゆくことになった。
だから花田清輝と平岡正明は
活躍時期に十年~二十年くらいの時差をはらみつつも
僕にとっては同位の存在だったのだ。

物を書く態度には「花田的気分」「平岡的気分」というものがあって、
たとえばそういうところで「わたし」「俺」と主語がどう選択され、
自身の思考スピードをどんな文体でつないでゆくかがかかわってゆく。
そうした文体には当人たちの個性もあるが、時代の要請もあった。
花田は屈曲、最後っ屁、曲線、ひらがな、読点。
平岡さんは思考直線を経緯交差させつつ
絨毯状の平面をつくり、爆撃する。速さが精度に勝るような位置も探し当てる。
その際はテーゼ列挙と、直観で遠いものを結ぶ運動をつくりだすのがコツ。
それは滅茶苦茶かっこよかった。だからエピゴーネンも当時は無限にいた。

けれどもエピゴーネンは本物の輝きを証しする周辺にすぎない。
いつしか(たぶん80年代中葉には)平岡さんの個性は
単純に模倣不能の独自性にたどりついたとおもう。
「天才」と呼ばれることが多く、また才能にはそれに似合う刻印があったが、
その「天才」という形容に何か涼しい風が吹いた感じになるのが
80年代中葉だったろうとおもう。
僕にとっては時代錯誤といわれようと平岡さんは80年代の中心選手、
その精髄が当時のベスト評論集ともいえる『官能武装論』だったといえる。

以後、『大歌謡論』『浪曲的』など
落語本爆発以前の時期が平岡さんを最も思想的に読んだ時期かもしれない。
たとえば平岡型の魯迅「鋳剣」の読解にどれだけ恩恵をこうむったか。
「鋳剣」を、「黒い男」中心に「侠気の行動原理の書」と読んだのは
平岡さんが唯一無二だったのではないか(魯迅学に疎く、確かではないが)。

そういえば平岡さんの70年代のDJ実況本のどれかに、
平岡さんに突っかかり難癖をつけた聴衆の発言が収録されている。
そいつはただ勘で平岡さんの言を薄っぺらく否定してみせた。
すると平岡さんの傍らで、たぶん伊達(浦島)政保だったかが気色ばむ。
「お前、もっと(論を)展開しろ」。

「展開する」は60年代以来の左翼用語だ。
平岡正明はひたすら展開した。
その意味で類推とテーゼ列挙が表側の武器で、
裏側の武器は、実は「傍証」だった。

平岡的傍証はじつは参照体系が彼以外の左翼運動家とは大きくちがっていた。
無限定、それでいまでいうサブカルチャー的なものまでが傍証材料となった。
革命理論とたとえば風太郎忍法帖と鬼六SMが合体する。
赤塚不二夫のウナギイヌが革命家の姿に移行する。

その平岡さんの得意用語のひとつには「記憶台帳」もあった。
ロシア革命成就にいたる数年の民衆動向を
カレンダー日付的にすべて(物語)活写できたという平岡さんは有名だろうが、
じつはそれに見合うだけ彼の記憶力も異様だった。
直観力と記憶力が通常人の飽和量の数倍をいっていた――
そのふたつで文や語りの展開が運動神経よく起こったから天才だったのだ。

さすがに訃報に動揺したのか、とっちらかした書き方をしているが
平岡さんにじかに会ったのは、僕のキネ旬時代、
香港映画につき宇田川幸洋さんとの対談を僕の司会で仕組んだときが最初だ。
このとき平岡話法、平岡発想法の精髄にすぐ触れた。知っていたが美声だ。

「人から人」、発想のつなぎはいつもこの基準だった。
たとえばサモ・ハン・キンポーと清水次郎長がつながり、
魯迅とマイケル・ホイがつながる。
ブルース・リーとフランツ・ファノンが結ばれ、
ジャッキー・チェンとパリ万博におもむいた日本の雑技団が結ばれる。
それで時間と空間が織られ、
平岡さんの話のもとエピソード満載の、見たことのないアジアが
(たぶん幻想領域に)出現した。
あれはいわばフーリエ的アジアだったとおもう、マルクス的ではなくて。

平岡さんは左翼的なものにいろいろ自分の思考祖型を見出していたろうが、
案外、大きいとおもうのがそのフーリエだ。
平岡的集団性にも僕はいつも合唱団とレモネードの海、
それに過激精密な「段階化」を感じた
(そうした段階化のなかに朝倉喬司さんやら田中優子さんやらもいた)。
フーリエの思考の奇癖=かたちを文人趣味からいつくしんだバルトにたいし、
平岡さんはたぶんフーリエを「本気で」愛した。
変態的なものはその変態性ゆえに本物だったはずだ、平岡さんには。

あるとき僕も自分の原稿でフーリエをつかい傍証をする必要が出て、
平岡さんのフーリエ読解にいつも鍵語(二大原理)として出てくる
「香気」と「呑気」、その具体的言及箇所を探しはじめた。
しかし『四運動の原理』、どこを探しても「呑気」の語がない。
当時フーリエはこの主著(巌谷国士訳)のほかは
たぶん『愛の新世界』の部分訳しか日本語としては流布していなかったはず。
あとは「空想社会主義」を紹介する古色蒼然たる戦前秘密文献だろう。
平岡さんはフーリエの一方の鍵語「呑気」をどこで手に入れたのか。
そう考えて、その「呑気」を
平岡さんの誤読・誤解・妄想の賜物と考えたほうが面白い、とおもった。

あれだけの記憶ストックを誇るひとだ、細部に小さな変調があって当然だが、
実際は暗誦能力までが途轍もなかった。
『水滸伝』、虎造浪曲、左翼文献、落語――たちどころに
ストックから語りの表面に言葉が浮上流入してきて、
語りを起こしたあと調べるとその記憶の精確さに舌を巻いたこともある。

筆圧を軽くしておくこと。
同時に記憶ストックの出し容れを容易にするため
脳内空間・脳内神経を軽やかに涼しくしておくこと。このふたつは相即だ。
だから平岡さんの文章にはまず機能美がある。
それと頭の回転が速く、省略がすぎ、主語述語が呼応していないのに、
リズムでの呼応がみられる場合もあった。
ものすごい名文。けれど、ここで「機能美」という本質が閑却できない。

だから同属とみなされがちだが、一度、平岡さんは竹中労の文章を
難詰したこともあったのだった。
漢籍素養を軸にしているがじっさいはその悲憤慷慨調が重い、
書き出しまでの助走をなくし、端的に所説を開始すべきだと。
そういう竹中的特質によって、思考の瞬間性が取り逃がされる、
ともはっきりつづっていたとおもう。
実際、80年代からの竹中はえらくスピードが落ちた
(内藤誠『俗物図鑑』での演技は平岡より竹中が上だったが)。

そう、こういうこと一切を僕は平岡さんから学び、その文章に憧れた。
けれども能力的にも性格的にもそのエピゴーネンになることはできなかった。
分析分野をひたすら脱領域的にすること――ただその教えだけを守った。
ただ「君は筆力からいって、生涯50冊を出さないと」という
平岡さんからの要請は守れそうにないなあ。

ともあれ平岡さんは何でも書いた。繰り返しもふくめるが
パーカー、マイルス、山下洋輔、革命、犯罪、座頭市、若松プロ、香港映画、
花岡炭鉱、台湾高地民族、百恵、石原莞爾、タモリ、冷やし中華、闇市、横浜、
極真、風太郎、鬼六、筒井、赤塚不二夫、在日、河内音頭、浪曲、新内、落語・・
こうした脱領域性はほか草森紳一だけが比肩可能なものだ。
その草森さんの基底に「中国文学」があったとすると
平岡さんの基底は二分されていたとおもう。そう、ジャズと革命論だ。

平岡さん、やりのこしはいけないですよ、と昔、
生意気にも進言したことがある。
革命行動にとって空間はどうあるべきか示唆しつつ
テック闘争では打倒の対象だった谷川雁、
同志的同道をつづけたようにみえて最後はたぶんすれちがった竹中労、
このふたりの論を単行本として出すべきじゃありませんかといったのだった。
「うーん」と、あの決断の涼しいひとが呻いた。
それよりも晩年の平岡さんは落語評論とジャズ評論に邁進した。

さっき強調した平岡的「記憶力」をおもいおこしてほしい。
百冊をゆうに超えた平岡著作の細部も平岡さんは記憶している。
しかもその細部には「その後展開すべきこと」という尾鰭もついている。
それで何か一個、論及対象が生ずると
平岡さんの記憶の活性化が起こり、一事象に異様な裏打ちが始まるのだった。
ファンにはお馴染みのディテールにみえながら
そうしたディテールには新情報が加算されてもいて眩暈がする。
読みつけないひとには暴力的な類推と映り、
そういう箇所では消化不良も起こすだろう。

ところがそれは絢爛たる類推とみえながら
平岡さん内部ではリアルな傍証、裏打ちに、実情はちかいだろう。
平岡百冊超著作はその意味で、すべてが読まれ体系構築される必要がある。
それで各ディテールの交易と増殖状況が把握できるのだ。
そうなってたとえば落語とジャズの平岡的類推の隙間がリアルになる。
横浜の敷道をあるく平岡さんに港からふきつける夜風の潮っぽさが
読者にもはっきり嗅がれるようになる。
器用に片手で風をさえぎり、煙草の火をつける平岡さんの姿も想像できる。

十年ほど前、「カルチュラル・スタディーズ」が日本の思想先端を席捲したとき
既存勢力の平岡さんたちに呼び水を施そうと
平岡さんを「カルスタの世界的先駆」ともちあげる言が部分流行したとおもう。
ただ、事象を考えるに左翼性に立脚し、
しかも文化の地域間やりとりの蓄積を考えるなんて
思想が辿るべき筋道そのものであって、
それはカルスタの特権でも平岡さんの特権でもない。
平岡さんはただ多様な文化事象から現在や歴史を「思考した」にすぎない。

たとえば平岡さんの横浜は、もともと上海やシスコとつながり、
中国的にんにく臭もたっぷりしていた。
加うるに、通常カルスタと平岡さんの叙述方法には
当然、無味乾燥な論述式か
躍動的な説話によるのか、そのちがいもあったけれども。

この意味で平岡=カルスタ先駆説は浅かった。
それともうひとつ、この説には歴史読解上の錯誤もある。
平岡さんもカルスタも「ともに」「68年的思考」だったのだ。

僕がいま考えるのは平岡さんの老け方がじつによかったなあ、ということ。
ジャズ論議は革命論・組織論の色彩を徐々に弱め、
懐旧的になり都市論的になり、同時に極上の感覚論ともなった。
部分的には特定の人物を焦点に据えた短篇にも似てくる。
これほど実際の(往年の)都市の姿が浮上してくるジャズ論はないだろう。
平岡ジャズ論はそのデビュー当時の難詰=「頭でっかち」から無限に離れた。

このジャズと、落語への異様な集中が、晩期平岡さんの執筆の両輪だった。
これらは身体的に自然な対象選択だった。
唯一異常だったのは、
執筆の際に導入される記憶がいよいよ精度を加えていったことだ。

ちかごろは老年の「居座り」がじつに多い。
某氏など若手評論家にあずければいいインタビュー、対談までいまだ独占し、
そして書くものも昔どおり老けず、よって気持ち悪いほど脂っぽい。
すべて後進に禅譲せよ、とはいわないが、
活動や執筆の領域を自然体によってずらすことで
後進に道をあける配慮が東洋的な叡智というものだ。
最近の評論家にはこれがわからない無神経漢が多いなあ。
というかみずからにとって滋味のあふれる対象を見出せず喘いでいるのだ。
この点、平岡さんは物書きとしてものすごく均衡感覚がよかった。

百冊超の金字塔、よかったじゃないですか平岡さん。
それに平岡さんや草森さんの若い時分は雑誌原稿の一本一本が長く、
それらを提案して編んでみせるアンテナの鋭い編集者も多かった。
「○○の評論集」というだけで、出版時のアピールも充分だった。
だから年間に十冊ちかい著書を量産できた。

それでいうと忘れてならないのは平岡正明の最後の20年は
出版不況の継続状態だったということ。
よってその単行本も雑誌原稿を編むかたちでなく
書き下ろし一気、のスタイルが多かった。

平岡さんを最後の文人のひとりと遇し、
書き下ろし単行本が成立する環境を整えたフリー編集者が向井徹だ。
向井によって、平岡さんは90年代以降もほぼ遅滞なく著書を増やせつづけた。
男同士の見込み、盟約、黙契がそこにあったということ。

向井さん、どうもご苦労さまでした
(僕には人徳も能力もなく、一向にそんな編集者が現れないなあ)。


【その後のセルフ書き込み】

上の追悼文では
もしかすると僕が平岡さんの落語本に
冷淡だという印象をあたえるかもしれない。
そんなことはない。
たしかに僕には落語の教養が欠落していて
その落語本を縦横に読めた自信がないけど。

とりわけ物量を誇るべき
『大落語』上・下、
『シュルレアリスム落語宣言』は
読み終えるとブルースト体験と似た達成感も生ずる。
平岡世界に包まれる至福はむろん他で得られるものでもない。

それと落語を平岡さんの視点から「勉強」しつつ
どの章でもかならず平岡さんの「感覚」には
ゾクッとするところがある。
そう、「類似」を探り当てる神経に
一種、異様なものがあるのだ。
たぶん肌のどこかが異様に澄んでいて、
そこから物語や感覚を体内ふかくにとりこみ
原型になるまで思考を浄化することができるのだとおもう。
これが速い。
そのばあい平岡さんは「からだで考えている」。

からだで考えること。
昔、平岡さんは彫よしさんと
取り壊し前の九龍城に行ったとき
何かのきっかけで
小さくするどい冷気(霊気)を感知した彫よしさんを絶賛していた。
彫よしさんのからだ全体を露光装置のように捉えていた。
それと彫よしさんの刺青施術の際の
チャッチャッチャッチャッ・・
という「冷たい」加算音も
アジア的脱力の真髄と絶賛していた。

むろんここにあるのは以下のような図式だ。
「英雄が褒めるものはなべて英雄性をもつ」。

ただ平岡さんは同時に平凡というか下手糞なものにも
鷹揚な面もあった。
くだらないものにも狂喜していた。
それがあのひとの冗談主義だ。

平岡さんの感覚は鋭かったなあ、と、
どんどん記憶がよみがえってゆく。
そういえば僕が最初に平岡さんと会った
平岡・宇田川対談のとき、
何かのことで平岡さんは
色彩では蒼白にするどく反応すると驚嘆したものだ。

そうだ、ポリネシアのどこかの島の野外広場で
日本公開前のブルース・リー映画を観たとき
電力が低くて、
画面が蒼白かったのが綺麗だったと語ったのだった。

電力の低さ。
そういえば平岡さん、
エドワード・ヤンの『クーリンチェ殺人事件』も
あの複雑さをすりぬけて一発で本質を捉えていた。

たしか平岡さん、あの映画のビデオは
中華街のビデオ屋さんで借りた字幕なしのやつを観たはずだ。
それでもあの複雑極まりない映画を見誤らなかった。
台湾の60年代初頭の階層社会、居住地分断、
受験事情までちゃんと把握していた。
やっぱり天才だったなあ。

むろんアジアの何かの蒼白を感知するだけでなく
西洋の頽廃を笑う際にも卓見が数多かった。
ただ刺青を皮切りにアジアの藍色に反応した平岡さんの感覚は
谷川雁とすごく似ている。
そして竹中労は自分で墨を入れた。
蒼白者の流れ、ということか。中井英夫用語だけど。

そういえばアジア的天才の条件は肌の青黒さだと綴っていた。
あれは伊達政保さんの処女評論集解説文での話。


【その後のセルフ書き込み②】

平岡さんは「11P.M.」なんかで
レギュラー的なコメンテイターだったこともあるのだけど
僕はいまも昔も早寝で
その姿が記憶にのこっていません。
僕の高校時代には拝めたはず。

ただ足立正生『女学生ゲリラ』なんかの
意味不明の優等生役をみると
じつは若いころは、すげえ美男子だったですね。
あの顔あって、天才的な絨毯爆撃文もあった。
顔面蒼白、貴族的。
ロシア人ぽかったとおもう(じっさい早大露文中退だけど)。

しかし顔がふっくらして、
おやじっぽくなったころが平岡さんのルックスの中心です。
あの顔が談論風発で、上機嫌でギャグも振りまくから
周囲をとことん魅了した。

実際は日本人らしい丸顔。
その顔から飛び出す語彙は
僕が起こした談話では
そのものが香港映画、中国映画がテーマだったから
水滸伝でも革命中国でも中国系が多かったけど、
落語本などでは語彙に江戸情緒が纏綿としてきます。
ふと考えた、「現在」こういう語彙をつかい
無理もなくボロも出ない、
気取りのない文章を書くひとなどいない。
石川淳以後の名文家はじつは平岡さんだったですね。

実際は音楽的な文章で、
平岡的リズムのみならず、数々の和音を感じるし
(それが平岡さんの類推の妙です)、
主題提示、数楽章構成、メインテーマ復帰なんかもある。
それらはじつに鮮やかだった。
絢爛なはずなのにいぶし銀にいぶされてもいる。

とうぜん最晩年に連続した落語本が彼の文章の精髄だけど、
そういう気配を最初に感じた本が『浪曲的』あたりだった。
あ、90年代に多かった横浜本もすごくいいです。

僕はいろいろ談話起こしの仕事を編集時代にしたけど
速射砲のように喋られたものをそのまま起こして
手入れする必要を一切感じなかったのは平岡さんが一番。
あ、山口昌男も立て板に水、だったなあ。

平岡本をどの順序で読むか。
本文に書いたように
平岡論説では傍証体系が繰り返されながら
しかもそれが本ごとに膨らんできて、
膨らんだ果てにはさらなる融合すら起きるという特徴があります。
となると、やはり刊行順に読まれるのが正統かもしれません。
平岡本では書かれたことがたんに情報としてのみならず
複合的に面白いのですね。

四方田さんの『ザ・グレイテスト・ヒッツ・オヴ・平岡正明』は
その意味でも良いナヴィゲーターになりますね。
あの本に収録されている対談で
平岡さんが自分の少年時代の凡愚ぶりを語るところは
かなり意外で、衝撃を感じました。

あ、そうそう、あの本、芳賀書店刊で
ものすごい制作費がかかった割に売れなかった。
芳賀では当時、亡くなった石原郁子さんの本も出していて
平岡本=石原本の編集者はじつは
僕の映画評論のファンでもありました
(この事実を僕はのちに知る)。

その編集者は平岡ベスト本不振の責任をとって退社する。
石原さんから聞いたその彼の弁。
「ちくしょう、阿部評論本を出してから
平岡ベスト本を出すべきだった、順序間違えた」。

そうであれば僕のアジア映画本が世に出たはずなんですけどね
(この企画は結局、幻のまま)
  

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2009年07月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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