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性なる往年を列聖する ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

性なる往年を列聖するのページです。

性なる往年を列聖する

 
 
前回日記「文学極道No2.のNo.2」で
軽谷佑子「SPRINGTIME」を引用してからの反射作用なのか
最近読んだ詩集のうち、
性(愛)をつづった詩篇を昼食後まず探し出した。
まずは以下に転記してみよう。



【蛇いちご】
辻征夫


この閉じられた空間の
豊饒の夢のはなしはいつか
きみがしてください
ぼくはぼくの小鳥を
きみの乾草の匂いがする
茂みにかくしているからなんて
いわれてもこまるじゃないの
どんな花の
物語を
わたしはすればいいのですか
不忍の
池とmegalopolisの
雨雲には牡丹だけれど
ぼくは
きみの蛇いちご
噛んでいるから
舌の
さきでたわぶれて
いるからなんて

〔※『現代詩文庫155/続・辻征夫詩集』より、
詩集初載は辻『ヴェルレーヌの余白に』90年、思潮社〕




【散見】
井坂洋子


緊張すると
むかし尾の生えていた部分が
左右になびくような気がして
落着かない
あなたは
おとこの姿で
宿した熱を敷き
くらがりを利用して
有無もなく
しんしんと行い始める
樹間をわたるときのように
いま 汗をつなぎ
肉の窪みを
押しあげられる
刺激がつよくて
ほとんど何も感じなくなったからだに
ひとりずつ
心音をもどし
睡りへの勾配に向かうまで
いくどでもすがたを変える
昼の脱衣をそこに
散らしたまま

〔※井坂洋子『marmalade days』思潮社刊、90年〕



どちらも「性愛」をうたった詩で
90年刊行の詩集に収録されている。
そしてどちらも、暗示的な手法によっている。

しかしおおらかなポルノグラフィの栄誉に浴するのは辻征夫のほうで、
井坂洋子のほうには
自虐、殉教、磔刑など負の価値が性愛に付与されていると感じる。
個性差にして男女差だろう。

ここで考えなければならないのは
性愛をあからさまにうたう詩が伊藤比呂美によって先鞭をつけられ、
多くがそれに賛同し、追随をみたのが80年代全般だとして
(井坂洋子『GIGI』82年にもたとえば「幕」という詩篇がある)、
転記打ちした辻征夫の詩篇も井坂洋子の詩篇も
そのおなじ流れにある、ということだ。

同人詩誌「酒乱」の80年代特集では
たとえば座談会に出席する杉本真維子が、
80年代全体の詩風のおおらかな自由さによって
すぐれた女性詩作者は「詩を書かされた」傾きをもつと指摘した。
性愛詩などはまさに「書かされたもの」のど真ん中で、
いまなら井坂洋子も上のような詩を書かないだろう。

その誘導、勇み足はじつは「いい気なもの」なのではない。
むしろ時代に導かれた虐殺で、少年十字軍のようなものだ。
その荒廃した跡地に、パレスチナのような価値混交地がいま花開いた。

ということは、80年代詩の価値は
個々の「いい気」度ではなく
「殉教」度によってこそ測られる、ということにもなる。
だから女性詩が多くの男性詩を凌駕したと事後的にいえるのだ。
このように80年代詩の男女差を括る分析も有効なのではないか
(そうしてその後の詩史進展が読める)。

けれどまあそんな視座を「酒乱」80年代特集が
提示しているわけでもない。
それは同人のそれぞれに
真率な性愛詩を書いた経験がない点とも相即しているだろう。
いまつくった自作をひとつ。



【海溝】
阿部嘉昭


溝はひらかれるけれども
ひらいて海のような
中性が露見するわけでもなく
むしろそれは誰しもの肉が
とりわけ花びらのいろを
生きている間だけ保つにすぎないと、
つまりはひとしなみ普遍なんだと、
しずかにかたりするものだから
さおだって
さすかわりにただ領地をなぜて
溝を泪のふかみへかえてゆくだけだ
だがそれがどんなれきしの川なのか

肉なんて天上の総体にならない
栗のように秋のはずれに落ちるなにか
あい沿いあい離れる、ものみなのつねで
音楽もきっと川の二流となって
このあいだをつなぐ橋も
思想のように
ただ折れてこそ本望だろう

折れる
そんな気で
ひかりに白くなりゆく
輪郭をうれしくなぜて
手が鳥型の叛意もうける
こんなもの泪じゃないか
ああことばのただしい意味での
禁断じゃないか

それで腰下の骨組をたしかめきって
うれしくたがいに泣いたあとは
価値をけむらせるためだけに
きみのおなかのうえにこぼしたものを
まずは霧のようにひろげて
そののちゆっくり拭いてみる

かいこう、
海溝/開口/邂逅――
来年のない
いまはあまい秋が
ぼくらに
ただきていた
 
 

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2009年08月24日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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