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ネット詩も孤立するか ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

ネット詩も孤立するかのページです。

ネット詩も孤立するか

 
 
創刊50周年記念イベントを特集した
「現代詩手帖」の前号(八月号)を
ずっと読めないできていた。

その理由はじつに散文的で
思潮社・亀岡さんとする自分の詩集の打合せで
亀岡さんが同号をもってくるのを忘れつづけるなか
こっちが買い控えていたためだった。
ついに送られてきて、それを昨日読んだ。

「詩の孤立の必要」が数方向から話題にされている。
一個はイベント配布物にしるされた数多くの詩作者の
「これからの詩どうなる」という設問にたいする回答のなかで
北川透がしるしたもの。
その末尾を転記すれば・・・(改行付与=以下同)



詩は世間のどこにも位置を与えられない。
詩はどんな庇護や、もてなしからも遠い。
だから詩の孤立を、〈わたし〉は絶対的に擁護する



一見、勇ましくかつ悲壮だが、
実際はなにかここで鉢巻気分を上乗せする
有機的なことが語られていると僕にはおもえない。

ちょっと前の「詩手帖」での北川・瀬尾育生・稲川方人鼎談で、
商業基盤のない詩集は商品として流通しない、
それは贈与体系のなかでのみやりとりされる精神的なものだと
瀬尾育生がいい、北川も同意していなかっただろうか。

その瀬尾の文脈ならば、詩は孤立しない。
というか、一孤立は他孤立を照らすことで孤立が確認されながら
照射をつうじ孤立はそれ自体の状況をすら超えてゆく。

「孤立」の語はかつて日本的革命状況のなかで
とうぜん以下のように定位を変えていった。
《連帯をもとめて孤立をおそれず》という谷川雁的視座。
そしてそれを覆した、
《孤立をもとめて連帯をおそれず》という柄谷行人的視座。

どちらをとっても、
孤立は孤立状況として単元で把握することなどできず、
かならず他、つまり連帯とのカプリング、その複元状態で捉えよ、
という黙示がそこにあった。

じっさい雁的視座と柄谷的視座は
安保闘争の十年の幅で捉え返された経緯だが、
意味は同じで、生の順序だけが(壊滅的に?)ちがう、
といった程度に「すぎない」のかもしれない。
どちらでも「孤立」「連帯」の相互が手に入れられるのだ。

もうひとつ、「孤立」にそのイベント内で共鳴していったのは
上・北川の文言に触発されたとおぼしいその瀬尾育生だった。
とうじつ瀬尾は、吉本の講演を司会する場所にいて、
たぶん吉本の「還相思想」なども視野に入れたとおもうが、
「孤立の技法」を吉本に問うた。
こんな言い方がなされた。



いま不況で、たとえば自動車部品の下請工場が
いろんなところに、
たとえば大田区なんかには
小さな町工場がいっぱいあって、
そういうときに、ひとつには、
多少質を落としてもコストカットして
当面の利益を確保する、
というスタイルがありうるわけですね。

だけどもうひとつには、
ただひたすら、いまはあまり生産しなくてもいいんだから、
そのかわりひたすら世界レベルの技術を蓄積して、
来るべき時代に備えよう、という
やりかたもあるように思います。



瀬尾においては「孤立」の状況はこうした局面に比喩的に出てくる。
つまりたとえば取引先からの孤立を、
技術蓄積のための雌伏、その奇貨とせよ、という意味らしい。

雇いいれた工員の給料が遅配になるような町工場で
社長自らが自己給与をカットしている現状で
こんな二者択一の比喩が成立するか、という
経済論的な立腹までいかにも呼び込みそうだが、
こういう瀬尾の立論に択一命題を感じるのがむしろナイーヴだろう。

つまり瀬尾自身も、孤立と連帯の不可分を充分知っているはずで、
つまり技術蓄積のための雌伏が
「連帯のなかですら」状況していい、
とも柔軟に捉えているとおもう。
いえば、「孤立」は常態だから恐れるな、ということではないか。



いずれにせよ、詩作は今後ますます孤立をしいられる。
そのことに清潔な姿勢を個々の詩作者はたもち、
談合や互酬や権威化や阿諛からも離れて
雌伏でもいいからこの詩の受難の季節を乗り切ろう、と
呼びかけられているようにみえる。

そのように乗り切るべき理由は「詩が必要だから」のはずだが
(それは対・散文によってそういえるのではなく
ひとの身体と言葉の関係で、自明的にそういえるのだとおもう)、
このことはこの50周年イベントであまり吟味されていない。
あるいは政治/経済/哲学状況を考えるにも
それらの分野の思考の膠着を打破するのに
詩の思考が導入されるべきだという積極性もない。
それならば遠点どうしをつなぎ
たんなる言語隣接に幸福をあたえる詩の属性が語られるだろうに。

「孤独」にたいして最も言語的に清潔で、
しかもその清潔を最も詩作の糧にしているとおもわれるのは
しかし上述した男性人材などではなく
詩壇意識にたいしいつも本質的な亀裂を入れる井坂洋子などだと
僕はその詩作品を証拠に考えるのだが、
その井坂さんは、イベント配布物に次のように書いた。
これは名文なので、改行を加えてであるが全文引用しよう。



優劣や強弱を競う世の中で
詩は生き残れるだろうか。
利害によって対立する政治とは
まったく無縁であるというつもりはないが、
詩は丸腰で方策のたたない愚かな子どもだ。
けれども一人ずつに飛び込んでいく。
人間の皮膚より内側に浸透し、
つながっていく場合がある。
孤りきりに巣食うものなので、
人が孤独を抱えるかぎりにおいて、
生きのびると思う。
孤独ではないという幻想を与えるもの、
国家概念やある種の宗教、
ネットなどの集団偏向現象を詩は嫌う。



詩作の栄誉ある孤立孤独というときに
なぜか思潮社的文脈ではネット詩が眼の仇にされる
パブロフ的反応があって、
掲出、井坂さんの書いた最終行もまたそれかとおもってしまう。

多数性を恃んでいるのはむろん詩壇のほうで、
へたれ書き込みをやりとりをしない、
たとえば応募サイトのネット詩作者などは
「集まる場所」すらなくもっと「孤立」しているのは自明だ。
井坂さんはたぶんそのあたりにつうじていなくて、
ネット詩の水準を、「祭」程度の最低水準に定めてしまっている。

ただし、井坂さんの詩にたいする見解の無類の美しさはどうか。
《詩は〔・・・〕人間の皮膚より内側に浸透し、つながっていく》。
この皮膚浸透力のある環境は実感的には紙媒体よりも
ネットのほうだとする者も多いとおもう。
しかし詩は/詩作は、そこではなかなか定位されてゆかない。

孤立と連帯の配分に、詩壇とちがったものがあるとはおもえない。
むしろ個々の詩作者の孤立が高まっているぶんだけ
ネットのほうに今後の可能性を僕などは感じる。
けれども詩の運営がうまくゆかないのは
「孤立」の質がネット環境でほとんど履き違えられているためだ。

誰もが「わたしが、わたしが」と自分を主張する。
SNSなら自分が環境にあたえた刺激を
足あとなどの数値で実定的に受け取ることもでき、
それがまた癪の種になって自意識過剰が更新されてゆく。
これが依存性を高めようとするメディア資本側の罠だと
多くの人間は自分のいる環境を還元してゆかないだろう。

詩作特有の「罠」もある。
詩作者は自分の詩篇は繰り返し読む。
そして「絶対」他人の詩篇はそこまでの回数を読まない。
そういう自他関係の非対称性がそのまま
「わたしは他人に理解されない」という怨嗟の温床ともなるのだが、
実際はそこに隠されているのが
「わたしは他人をぜんぜん理解していない」という図式だとは考えない。

結果的には自己保全本能が働く。
そのレベルで日記が応酬されることのみを所与と考えて、
皮膚感覚レベルでの書き込みがしやすい日記が選ばれて書かれるようになり、
結果、ネットにおける詩作が壊滅してゆく。

自分の詩作を安定的にするためには
実際は他人の詩作にたいする批評能力を練磨し
それを自作に再度、還流させる手立てしかない。
けれどもそれが実感的にわかるためには
ある程度の加齢が条件になるかもしれない。

批評によって他人の詩作に介入し、
自分と他人の共同域を樹立すること。
これができず自分の詩作、
そしてそれに伴う野心や慨嘆ばかりを日記化する者が、
見当ちがいの不安定な詩作を繰り返し、
あるいは自己保全のために自己模倣を反復してゆく。
この部分こそをネット詩は詩壇から見透かされている。

考えてみれば、これはネットに「より」特有に起こることだ。
自分は自分の詩作を繰り返し吟味するが、
他人の詩作の吟味は絶対に量的に少ないというのが真実だとすると
(べつだんこの点は非難に値しない)、
横書き・小さな文字でほとんどの詩作が披露されるネット環境では
視覚の及ぶ範囲が広く、読解行為が速くなるという
生理感覚条件がさらに横たわっていて、
他人の詩作は「より構造的に」ないがしろにされるのだ。

ネット詩は環境的に「ゆっくり読めない」状況にこそ立ち上がっていて
これを環境疎外と考えるリアリティが
多くの若いネット利用者に育っていないと換言してもいい。

自分の詩作よりも省みる回数の少ない他人の詩作にたいし
あるいは飛ばし読みを環境的に促されている他人の詩作にたいし
「自分の孤立を救うように」そこにある孤立を救ってゆくために
人がすべきことは
しかしそれらを「よりじっくりと繰り返し読む」ことではない。

むしろ速読・一瞥読みでその本質を捉える
読解力・運動神経が必要なのではないか。
この能力の獲得がたぶん「詩的環境」を変える最大要因だ。
そうして「孤立=連帯」という等号が環境に成立してゆく。

佐々木幹郎が同じイベントで、
詩は縦書きで書かれ、読まれるべきだ、
たとえば言葉、あるいは言葉の流れには重力があって、
改行詩では一行の容量はその重力負荷と反転から決定される云々と
いまは横書きが決定的になった中国の詩環境に向けて語っていた。
これも場合によっては中国系詩作者への逆提案でも何でもなく
横書き詩が横溢するネット詩への牽制が本音かもしれない。

縦書き・手書き・原稿用紙で詩を書くとわかることは単純だ。
見通しが利かず、書き進む速度も遅いために
分量的に内容の多い(場合によっては饒舌体の)詩が書きにくいのだ。
それを言葉の重力にやられた、と換言することもたしかにできるので、
佐々木のこの提言を笑止というつもりはないし、
体力によって抑止がかかる慎重な環境を詩作が選ぶべきでもあるだろう。

ただ縦書き手書き紙印刷の詩における「重力」が特権的にいわれるなら、
ネット詩は横に伸びてゆく自らの立脚を特権的に言い返さなければならない。
詩は真空環境を横にはしる光線として書かれる、と。

とまあ、これらが「詩手帖」前号を読み、最初に感じたこと。
タイトルは「ネット詩も孤立するか」とでもしておこうか。
 
 

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2009年08月28日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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