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中断すること ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

中断することのページです。

中断すること

 
 
千石英世さんから水声社刊、
『未完の小島信夫』を寄贈された。
文芸評論家としての千石さんと
小説家の中村邦生さんががっぷり四つに組んで
ひとの小説観の根底をゆるがさずにおかない、
「異様な作家」小島信夫にそれぞれ対い、
また、互いにも対してくれた好著だった。

とはいえ、いつかは読まなきゃとおもいつつ
ずっと僕は小島信夫の門外漢だった。
僕が物心ついて小島『別れる理由』が
「群像」でずっと連載されつづけていて、
「終わらないもの」にたいする恐怖から
手をださずにいたのだ。

それが終わり、単行本化がなると
今度はその物量にあらかじめ辟易した。
これが「第三の新人」中、小島信夫を敬遠した理由。
やがて保坂和志が出て、彼が小島に傾斜するようになって
僕がそこから間接的にふたたび興味をもっても、もう遅い。
今度は小島の主要著作が選択的に入手できるような
出版状況ではなかったのだ。
齧り読みはつらい。それでまた手が伸びなかった。

(某古書店に小島信夫の大量の著作が
かなりの高価だがじつは網羅的に並んでいて、
それを金銭的余裕、時間的余裕から
一挙に入手できるかに自分の人生の、
今後の小説との付き合いがかかっている気もする。
そしてそういう人生の糧は
大学の研究費では買うべきでないとも感じる)

だらだら書く作家、ふにゃふにゃな鵺のような作家、
という系譜があって、僕のなかではそれは
田中小実昌、長谷川四郎だったりする。
じつはカフカの日本的変異、ということなのかもしれない。
となって小島信夫がその最高峰というのも勘でわかる。
そのひとたちのなかでは書くことの基準が
書割型の作家たち(三島が代表だね)と全然異なっているのだ。

保坂の小説を読むと、田中小実昌好きの保坂に
「小島信夫を読むべきだ」と示唆する、
彼の会社員時代の、先輩の同僚がいたとわかる。
そのひとはたぶん僕の上司でもあったSSさんだろう。

某中堅(一流)出版社が70年代、破産法を申請、
社員の三分の二を巷間に吐き出したが、
その後をセゾングループで拾われたひとだ。
セゾングループにはそんな前歴をもつひとが多く
意外に社内での無駄なおしゃべり時間は愉しかった。

僕がそんな会社員の小僧だったころSSさんとは
休み時間にずっと中上健次の話ばかりしていた。
けれどそのころ小島信夫を薦められたら
やはり手をだして熱狂したような気がする。

SSさんは事故死とも自殺ともとれる不思議な死に方をした。
いつものように車で帰宅しながら
「いつもとはちがい」近所の塀にその車が突っ込んだ。
ずっと健康だったという。



『未完の小島信夫』で感銘を受けたところのひとつは、
ロラン・バルトの「エポケー」(判断停止)の考えを引用した
中村邦生さんの文章の一箇所だった。
そのバルトを、改行付与してまず孫引する。
『テクストの快楽』から。



愛する者と一緒にいて、他のことを考える。
そうすると、一番よい考えが浮かぶ。
仕事に必要な着想が一番よく得られる。
テクストについても同様だ。
私が間接的に聞くようなことになれば、
テクストは私の中に最高の快楽を生ぜしめる。
読んでいて、何度も顔を上げ、
他のことに耳を傾けたい気持ちに私がなればいいのだ。



読みの中断。テキストの表面とは別次元に妄想が及ぶこと。
なぜそうなるかといえば、それは対象の立体性に起因するだろう。
逆に考えればいい、世の中の立体性は自身の視差に基づいていて、
となれば対象を立体化する契機が生じたときは
対象と自身がいわば視差を形成しはじめるということだ。
この視差は一種倍音的でもあって、それゆえに
幸福的・増幅的・共鳴的でもある。

じつは創作とは、この読みの中断時に生じた「着想」を、
本を置き、パソコンのキーボードに指を置き換えて
展開することで多くはじまるとおもう。
ただ着想はもやもやしている。
もやもやしているから、書きながら輪郭づけをしたい。
それでこのときの「おもいつき」は
人生時間に自己否定的に入ってくる斜線だから信頼が置ける。

ミクシィで眼にする「おもいつき」は
たとえば一冊の本を読了し、その感想をおもいつきでいう
低次元のものにほぼ終始する気がする。
そこでは導入説明がなされていないし、
要約も大幅にちがっていて、
対象の描写にも愛情が感じられない。
「放言」なのだ。

自分自身の、対象にたいする優位性のみを印象づける感想文。
あるいは裏がとられていないおもいつきだけを書いて
自分の多彩を他人に演出するだけの無内容な作文。
僕はそういうのにすごく苛々し、いつも茶々を入れてしまい
じっさい物議もかもすのだが、
いま上述バルトの文にふたたび接して気づくのは――
ミクシィの文章は「おもいつき」の時制が悪い、ということなのだった。

そう、以下のような二分法が成立するだろう。
読了後のおもいつき=自己糊塗、自らの底上げのための悪心によるもの。
読んでいる最中のおもいつき=単純な創作意欲の萌芽、
しかもそれは世界の真の立体化にかかわる。

あるいはこう綴ってもいい――中断、エポケーのとき
ひとがとりうる表情は大変に心許ないものだろう。
放心、上の空とでもいうべきもので
それらは隙だらけで本質が足りず、それゆえに性的なのだ。
そういう、性的ゆえに赦免される表情がエポケーの表情であって
(昔、松浦寿輝さんがこの表情につき良い文を書いていたなあ)、
だから読みながら人を中断に導いた思念は
それが綴られても、読む者を抑圧しないということになる。

これがあらゆる「書かれるもの」の本質で、
つまり書かれたものはこのかぎりにおいて連接性をももつ。
ところが読後の「おもいつき」はこの連接性をむしろ切り、
対象の価値を自分の側にこそ折り曲げる手前勝手な悪弊なのだ
(むろんこれは僕もやる)。



「エポケー」についての安井浩司の圧倒的な一句。

《キセル火の中止〔エポケ〕を図れる旅人よ》

安井『中止観』という句集の、冒頭の一作。
ほかに《性交や野菊世界を放火しに》
《糸遊にいまはらわたを出しつくす》などの震撼句もみえる。

「中止観」が「摩訶止観」のような仏教語であるか知らない。
ただ世界の進行を、思念を磨くことで一旦「中止」し、
その世界の断面を眼前に視、中止なのにじわじわ時が伸びてゆく、
世界の本質的な融即性をそこに感知すべき「止観」なのはわかる。

それと安井のこのキセルは西脇のパイプから得た倍音だ。
西脇『Ambarvalia』中
「ギリシャ的抒情詩」の第二篇、「カプリの牧人」はこうだった――
《春の朝でも/我がシヽリアのパイプは秋の音がする。/
幾千年の思ひをたどり。》〔全篇〕

むろん安井の提起は、「幾千年の思ひ=永遠」は
一瞬の中止とも釣り合う、という時空の切断にある。
そしてこの時空の切断こそが俳句そのものの立ち姿でもある。



最近、小川三郎さんの日記の書き込み欄で
井川博年のことが話題になり、僕はこの不思議な詩作者を褒めた。
詩の散文化にたいし
これほど豪気な書き手はいないとおもわれるためだ。
その井川さんにも「中断」にまつわる素晴らしい詩篇がある。
『現代詩文庫170・井川博年詩集』から――



【胸の写真】
井川博年


――今日中に仕事を片付けてくれ、
といわれると、
徹夜をしてでもやらなければならない。
なぜなら彼は下請けの仕事をしているからだ。
風邪気味や特に疲れている時などは
我とわが身が情けなくなる、
そんな時、彼は胸のポケットに入れてある
エロ写真にさわるのだ。
他人と会うのがいやな時、彼は写真の姿態を
思い浮かべて勇気をとり戻す。
男と女のからみ合いが彼を生かす。
電話の声を聞いたその時は
彼には特につらい日だった。
家に電話をかけてくると、煙草をつけ、
人影が少なくなった深夜に近いビルの一室で
胸の写真をとり出した。
毎日のように眺めていると、
写真の男女も
見知らぬ人とも思えないのだった。
それを丁寧にちぎると
窓を開け
水銀のような水溜りが拡がっている路上目掛け
少しづつ掌を拡げた。

〔※全篇〕



井川の親友、故・辻征夫はこの詩篇は素晴らしいが、
ドラマチックな結末をつけてしまった最後の四行が
駄目(不要)だという厳しい意見を書いた。
僕もそうおもう。たんに「中断」への思念でよかったのだ。

それと猥写真の「書物としての」存続性という
詩篇に伏在する付帯テーマだって素晴らしいのだから、
とりわけラストが不要だろう。

ただし定職をもたず、苦しい若い日々を過ごした
井川さん自身の姿は労働疎外の実態とともに見事に浮上してくる。

安井のエポケー、井川の中断、ともにそこには
煙草があるとも読者の注意が向かうだろう。

そういえば僕はこのごろ中断が下手になっている。
禁煙に成功したからだ。
たとえば僕の机上はいつもそれまで左右の二面性だった。
向かって右側に本があり、左側に大きな灰皿があって(僕は左利きだ)、
その左右のシフトを入れ替えることが
僕の中断であり、放心だった。
その簡単な作業が禁煙でできなくなったのだ。

そのぶん自分の思念から潤いも減った気がする。
だがあれは潤いではなく単なる煙だったのかもしれない。
 
 

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2009年09月06日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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