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中断して、ヌードをいれた ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

中断して、ヌードをいれたのページです。

中断して、ヌードをいれた

 
 
【中断して、ヌードをいれた】
阿部嘉昭


煙草や珈琲の香りがすきで
珈琲殻を敷く通路を校内にももとめた
あたえられた制服のくろさを
色でないものに転化する気持だったのか
でもついえてみれば背丈がのびただけだった
ぼくらの鉄路だってあるくためにあり
ことに夕方にはレールのあいだに
みらいを斜めにみせる珈琲殻がただみえた
あしもとはそれで冷たくゆれたのだ
均衡をとる
みんなのみぎうでがすきとおっていたな

まちかどでくろいものを呑む余裕が
自身くろいものとなるまでの猶予でもあること
そんな言い方もたしかに若さのしるしで
あこがれだって千の顔をもつのではなく
千の顔をもつもの自体がただあこがれだと
みんなが持前の律儀さで言い直していたが
けれどなにのためのげんみつだろう
あんみつずきのきのうがたりのようじゃないか
しっぽはたれていた

いずれにせよ珈琲殻の堆積がせかいにあり
無告であっても退席をしいられないその場所で
みんなの音楽は聴かれ奏でられたが
椅子はけして十以上をならばなかった
だから場所がひかっていた
椅子が椅子であるための前提やなにかを
みんなの尻がずっと敷かずにいたのは
ゆいいつの椅子をピアノまえにしたかったから
公平とはそんなかなしさだとあらかじめ了承して
みんなはいちばん歌のうまいやつの
その歌ではなく その歌の地面を
聴くようにみた
「唄いおわったら珈琲をいかが?」
それだけをどもるようにいいたくて

三々五々さってゆく 明日の授業へだ
臑毛をおがくずていどにはがしてゆけば
みんなのからだも無個性になって
立秋のプールを木材いじょうに小刻みにゆれた
プールだがここが材木座、そんな意見だってでた
性的な秘密としての肌のもくめ
じっとみているとさわりたくなっちゃう
だから水泳後のほてりは
不良を中断して
書物のけんぜんなヌードをいれた
生きるため中断して、ヌードをいれた
まゆみやえつこやるみのひかりを
みんなのくろさと対極する場所
ただの前方に




昨日、古本ネットに注文していた
西中行久さんの往年の詩集が
べつべつの書店から一気にとどく。
『定刻』(手帖社、84)と『動く水』(詩学社、91)。
西中さんの第二詩集と第四詩集にあたる。

第五詩集『街・魚景色』(思潮社、98)が遺作になったのだろうか。
廿楽順治さんが以前「亡くなっているんですか?」と
吃驚していたことがあった。
僕の知識も間接伝聞。
たしか福間健二さんの『詩は生きている』に
その事実が書かれていたのではなかったか。

西中さんの詳しい経歴はわからない。
生年没年だって知らない。
ネットなどで積極的に調べたわけでもないが。

知りうるのは福間さんと同じ岡山を基盤にした地方詩人で、
やがて東京に戻った福間さんとちがい
岡山での暮らしに終始したらしいということ。
そして『動く水』所載詩篇は
福間さん主宰の「ジライヤ」初出が多いということ。
なのでいずれ福間さんには西中さんの詳しい話を聞いてみよう。

ゴタールたちのヌーヴェルヴァーグが
風潮ではなく地上の「音響」だったという
稲川方人のすばらしい断言的評論がかつてあったが、
むろんヌーヴェルヴァーグは思潮的に厳密にいうなら
ヒッチコック=トリュフォー主義だった。

たいして僕はいま自分の向かおうとしている改行詩を
ひとつの「音響」だと考えるとき
それを「西中=貞久主義」としたい誘惑に駆られる。
「西中」が西中行久だとして「貞久」は貞久秀紀だ。

ふたりはとうぜん改行詩の達人中の達人、
しかもその改行も身体性をもちこんでじつに厳しいのだが、
なにか改行切断をかさねることで
「地上の音響」もがしずかにみちあふれてくるのだった。

この感覚こそが今後の全詩篇の回帰すべき場所だし、
詩が詩の愛好者から離反せず、「自閉」にもならず
ただ地上性の証となる要因なのだとも個人的に感じる
(僕は改行詩を短歌俳句のような
定型ジャンルとかんがえたほうがいいともおもいだしている。
そうすれば「詩の散文化」からも超然としていられる)。



ということで未明、届いた西中さんの二詩集に向かった。
それで西中さんの生きていた交換不能の時空が
詩篇ごとに僕の眼前にうかびあがってきた。
それは西中さんの個人性の時空であるとともに普遍性の時空で、
だからこちらも入場は可能なのだった。
ただ銘記しておこう、
入場するうれしさと、はじかれるかなしさ、
本当はともにあるのはそれなのだと。

そういうものを確認して、自分の詩を書きたくなり上を書いた。

では均衡をとるということでもないが、
西中さんの詩篇で泣けてしまったものを
『動く水』から二篇、最後に転記打ちしておこう。
僕の上の詩篇がこっそり影響を受けたものだ。



【蛇口】
西中行久


朝は鏡のなかで軽い
水がほとばしったあと
門を開くと
路地では水漏のような言葉が滴っている
少ない家族
だが どの家も
ピカピカに磨く物をもっていて
辺りは黒光りだ
すぐ動く人になり
触らないでわかってしまう危ない街を走ってしまう
見えない言葉の橋をいくつも渡る
繰り返し何度でも
「ストップモーションは御免だ」
ただそれだけで
何年も掛けるつもりだろう
夜は同じ画像で流れて眠るだろう
言葉に枠をはめて頭を垂れる
あの家の人も いまは
黒光りするほど生きて
水を流しているのだ




【夕焼け】
西中行久


何度でも街を焼き
人を海に沈めたかもしれない
挙げ句のように父は
明日薪を炊くために
背に火を背負って帰ってきた

むかし欠食のままで
薪を背負って歩く姿を学んだ
根は見せないで
突っ張りもなく立っている樹を学んだ
回り回って
いまは流れるように歩くすべを知っている
飾り物の余計なものも覚えてしまった

父が出てゆき
この世の店が閉まったあとも
水脈をたどり
少年は日めくりのように雑誌のページをめくる
母はどこへも伸びそうにない短い足で
もつれた人の糸をほぐすように
編み物のつづきをしていた

そのまま涙も流さないで
景色は焼かれながら
遠くにも近くにもなっていった
 
 

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2009年09月08日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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