その後考えたこと
早く寝すぎて真夜中に起きてしまう。
ヘッドホンで音楽を聴きながら
その後をいろいろ考えている。
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結局、ネット上の評論の問題は
精密性の低下を
数の論理がむしろ支持してしまう、
という点に尽きるかもしれない。
とうぜん低精密性評論にたいしては
同じ対象に取り組んだ者からのチェックが入る。
入るのだが、それはたぶん抽象的なチェック機能の伏在、
そのレベルに終始されることも多く、
結局それでネット空間そのものが精神疾患にかかる。
低精密性評論を支持した者すら
見えない視線からの批判の対象に入ってくるので
全参加者が防衛的になるということだ。
贋評論にかかわった人間が直感的におそれるのは
そうして生じている空間の多層性にたいしてだ。
それでいう、多層性とは
全・平滑的な民主性にもとるではないかと。
これがすべてにわたりPC抑圧となる。
たとえば詩の実作者同士の目配せにより
「わかるひとはわかるよね」という符牒の交わされることが
詩をわからないのに詩の評論に首を突っ込む人間には
これまた恐怖と映る。
ただその人間は二重に間違っている。
まずはこのとき彼自身が評論主体にならず
彼の嫌いな受動性に終始している。
本当は自尊心の肥大した彼が苛立っているのはこの点だろう。
それで「教示」してほしいという甘えさえもたげる。
いっぽう自分が間違った、得手でない領域に
首を突っ込もうとしている点が閑却されている。
価値基準が自分中心だからだ。
「教示」にあるだろう分布の偏奇。
全教育時代がかかげる悪平等主義によって
書かれるものはすべて正しいの評語が、
正しく書かれたものだけが正しいというトートロジーを
「民主的に」駆逐してゆく。
そうなって疎外に陥っているのが結局どの類型なのか
一応は綿密な吟味が必要ともなるだろう。
「データベース」はいまや本来的に空間でない。
それが「隈なく」「拡大している」という事態が
資本が喧伝しているだけの擬制にすぎないと
もはや理解されているからだ。
それは俗情に集中を起こし、
自己愛を相互補強する怠惰な精神の材料にしか
現状なっていない。
空間ではなく装置なのだった。
その証拠にいくら検索しても、
別人の同じ意見が重畳してくるだけで
真の少数意見には出会うことがほぼできない。
少数性を架橋してゆき
多数性をその盲点から切り崩す、批評の本懐にたいし
じっさい批評は「そんな対象は知らない」という無視により
段階的に、かぎりなく圧殺されてゆく。
ということは批評も
もはや「負けない」「屈しない」という
精神性からしか起動しないことにもなる。
その場合「負けない」は「知らしむる」情熱に漸近してゆく。
詩壇に蔓延するネット詩否定は
たぶん俗情が詩作に集中する経緯を恐怖し、
それが自分たちの詩作の特権性に
否定的に跳ね返ってくることの防備意識からだろう。
とうぜん心情的には理解できる面もあるのだが、
そこでは現在の批評が不屈性からしか起動しないという
観測だけが脱落している。
ネットはそれを否定し変化させるためにこそ、
対象として否定されてはならない。
そうなってネットに批評、
つまり少数性同士の架橋が開始されてゆくだろう。
この可能性を圧殺してはならない。