反れない
【反れない】
光の檻のようにみえる川を沿った
都合十年もう傍らがわからずに
鳥が眉を影さすにまかせた
卑しすぎて秀麗とも呼ばれない
風ぬける菰がわたしを集中して
あらがえずに棒杭の辛酸
十字を切りやがて万字も切った
みぞおちからとりだした影で
さきを四角くなろうとする
あの川面の桝目を埋めれば
約束が用紙で流れるのも知る
わたしの三分の一が拘束だった
きょうはやがて反れないだろう
柱のようなものを追憶する
でもきっとわたしの極のむざん
ふたつの帆のあいだを計算しても
なるものが風や原稿になるか
やわらかさがただ楯となるか
なきくずれてかたまりが笑う
二三の煙がねじあげる天上の道を
ない衣服もつらくなだれて
ふりかえる背骨が平衡のなか
川幅の範囲でただゆれるから
わたしと橋の関係が削られた
ふかい夕暮はそこに
糸くずがでて
●
このところじつは午前中に俳書を読み
午後は音楽を聴きまくるという日が
基本的につづいている。
やがてはじまる後期の講義のためだ。
昨日の午後は久しぶりに
モールスの『モチーフ返し』を聴き、
胸が悲哀でつぶれそうになった。
これはたぶん
僕の10年単位の愛聴盤になるだろうと
そのとき気づく。
以前聴いたときにはバラード系に佳曲が多いな、
という程度の印象だったが、
全体も、流れもすごくよく、
酒井泰明の歌唱は「節回し」のレベルを超え、
そのふるえ、ひっくり返りが
存在論的にこちらをゆさぶってくる。
純度の高い異形性の哀しみによって照らされた世界が
変哲もないのに異常という視界を呈するようになって
なつかしい。
最近は(『みんなを、屋根に。』の段階から)
じつは胸が悲哀にふたがれたときを
詩作の契機とかんがえるようにしている。
悲哀状態では運動神経が重くなり、
発語聯想もひきずりをかたどるようになって、
詩一篇の完成が遅れるのだが、
その逡巡やら停滞やらも詩にしようとしているのだ。
悲哀の倍音として、眼下に詩の進行を組織する。
停滞によって具体相を消し、
それで音素の普遍性を得る。
意味形成は分光の果てを狙う。
そうやってできあがった詩篇は
自分で再読してみても他者性が高く、
自分だけの所有に適さない。
そして再読ごとに悲哀が抽象的に浮上してくる。
詩が音と意味のまま分岐しないが、
その融合性のなかに悲哀という、実質でない実質も潜む。
上の詩ではたぶん、発語聯想が
とりわけ不自由な遅延形態として認められるだろう。
「秀麗」「拘束」などはそうしてからげられた言葉。
それと「柱」は神を数える単位だった。
ずっと杉本真維子のような
安直なイメージ結像を阻む峻厳な、
それでいて音素のあかるさによって再読をしいられる、
圧縮と割愛だらけの身体落下詩の抒情に憧れてきた。
憧れてきたが、あのようには絶対に書けない。
そうおもったのは、彼女の詩の秘法が
「省略」にあると考えてきたためだ。
そう、技術のみへの着眼だった。
しかし《技術のみを語る者は頽廃する》(大島渚)。
ちがう、「悲哀の調律」(中沢新一)がむしろ
杉本真維子の詩の根源にあるものだった。
これが何か「魂の唯物性」にとって不要なものを
飛ばしてゆくのだ。
そんなことを考えながらも、上の詩をじつは書いた。
結果、真維子さんの「笑う」(『袖口の動物』所収)の域に
すこしは詩が近づいたかもしれない。
あの詩は何度も引用した詩なので
そのリズムも、その語彙も、
なんとなく記憶にはのこっていたのだった。
その「なんとなく」を奇貨とした