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なかにしけふこさんの詩 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

なかにしけふこさんの詩のページです。

なかにしけふこさんの詩

 
 
以前マイミクだった、なかにしけふこさんに
初の詩集『The Illuminated Park 閃光の庭』を送っていただく。
題名がうつくしい。
ランボーの『イリュミナシオン』と造園術がふくまれている。
僕は造園では幾何学的図像性を架空の俯瞰視線から志向するフランス式よりも、
ある種無駄毛を放置してしまうような英国式、茫漠な隠者趣味が好きだが
この詩集はどっちだろうか。

いずれにせよヨーロッパ起源の神話学民俗学歴史学の学殖が細部に渦巻き
反時代的傾向の詩篇集とはいわれるだろう。
往年の鷲巣繁男たちが中心となった詩誌「饗宴」に
掲載されるべきだとおもわせるようなこの反時代性はじつに狷介だ。
尖った現状否定精神の変移として各詩篇があるからだ。
ただ僕の好みとしては、であればもっと「無時間の現状にもまみれ」、
そこから魂の流謫をつたえることがあっていいかな、とはおもった。
何よりも現代人は提示された学殖に「試される」のを嫌う。
神を試してならないのと人も同様なのではないか。

けふこさんの詩は風が白く光って潤み、
ひとがうつくしく、駘蕩をまじえてすら自己展開してゆく。
希臘的晴朗さを薬籠中にして、
反面、幾ら意図しても汚濁が盛れない、一種の「幸福」のなかにあるとおもう。

詩集は構成意識までを評価の対象にする。
「詩人に生まれついた」という伝説的な存在がいまだいるとするなら
「書いた順に」詩篇を並べればそのまま詩集が成立してしまうような存在だろう。
書かれたものが交響し対位し、自己展開して、
おのれが時間となって、おのれを奏鳴させてゆく。
ただ「われわれ」凡俗は、そんな至福恩寵にいることなどほとんどなく、
ある詩篇は捨て、のこった詩篇をあれこれ並べ替えて詩集を構成してゆく。

初出一覧をみると詩篇の創作順は掲載順とはだいぶちがう。
それと全18詩篇中、書き下ろし詩篇がわずか2、
これは処女詩集をつくる手つきとしてはちがうのではないかとおもった。
自分の詩篇のうち「良い特徴」を延長させるべく
書き下ろし詩篇をもっと殖やしてゆくべきなのだ。
テンション的な理論としてはそうなるだろう。

たとえば厨房作業に材をとった冒頭ちかくの「厨」にたいし
欧風風土に想像を働かせて自由な時空化をかたどる彼女の通常詩篇とはちがい
現実の彼女の日常を別次元化して反映させた
モザイク詩だという判断をするとする。
そうなると「ここにあまり人生がない」という否定的評価が出てしまう。
そしてこの詩篇が、造園と発語についてエピグラフ的に掲げられた冒頭祈祷詩篇の
つぎに入り込んでくる「構成」にも迷いの意識を感じてしまう。

こんなことも書くのも、「瀧」という詩篇が掲載された74頁から
最終詩篇「ぱるかろうる」が終わる112頁まで
この詩集は圧倒的な展開になり、
書き下ろしも加え、「こういうもの」で押すべきだったと惜しんだからだ。

「こういうもの」とは何か。
「音素」を中心にする。その「音素」を、学殖を洗浄させる要素にもする。
詩篇細部に曖昧が宿り、そこに読者の心情がたゆたい溜息が出るようにする。
散文形、改行形は問わない。ことばのうつくしさは意味のうつくしさでなく
もっと機能的にその音楽性のうつくしさでしかないという
「絶望」によって詩篇を、そのあいだを、柔らかく構築すること。

このときルフランといった明瞭性をもたない「反復」が
詩篇時間の背後を往還するコーラスの役割も担うようになるだろう。
たとえば何度も書くのだ、「歓びの男は」という書き出しを(「寄港地にて」)。
その周囲にこそ、古代都市の風光が豊富なディテールをもって現れるだろう。

とはいえ僕は学殖に暗い馬鹿だから
学殖の伏在によって威圧される詩篇よりは
「そのままに読めてしまう」音楽的な詩をより深く愛する。
前言したようにそうした彼女の「特徴」へと転調を最初に完全に告げたのが
74頁からのすばらしい「瀧」だった。これのみ全篇転記させていただこう。



【瀧】
なかにしけふこ


ふりしきるふりしきる
ほんとうのみず
滝壺に嫗は空を向いて
いちめんの水をてのひらにうける

つかのまにわかくなる
酔うほどに
水はあまい

いとすぎの
にがよもぎのまちをすぎて
女は跪き
いくつものうつわに水を汲む
燐光の走るてのひらに うおはひかる

ふりしきるふりしきる
ほんとうのみず
地の果てへの道の辺の磐に降りて
血に塗れた手を
つかのまに老いる
むすめは濯ぐ

ありえない合一の夢ばかりみる
酔うほどに
水はつめたい

ふりしきるふりしきる
ほんとうのみず
瀧は
葉ずえを
外套をぬらし
風は頬にも面紗にも吹く




「ふりしきるふりしきる/ほんとうのみず」
(それ自体反復をふくむ)は
詩篇全体の牽引機となって三回反復される。
その反復により、「嫗」は「女」になり
「むすめ」は血にまみれて「老いる」(老いは洗濯されるのか・・)。
三回目の「ふりしきる・・」ののちは地上を総括する位置から
すくない言葉がだされて詩が終わる。

水は回春を導く。万物は流転であり水でできている。
水は清澄にして内部に水しか含まぬ虚無なのに酩酊を導く。
甘露により、老婆が娘になる着想なら
何かの神話に典拠を見出すこともできるだろう。
地上にはそのような霊力をうたわれる泉も洋の東西を問わず数多い。

ところがこの詩篇では水の逆転力、
たとえば流血をともなう罪を犯した娘なら
水の眷属・血において老いるという逆元が
発端と終結を結ばれるウロボロスのように構成に加えられる。
むろん女と血は「ある種の同意語」だ。

発端と終結を同じくする力。
それで水は永劫になって回帰する。
その回帰の姿はニーチェの直感どおり「反復」を証拠とする。

もうひとつ詩篇で賞玩したいことがある。
水の現れる場所が「瀧」だということだ。
瀧においては、音が霊気がイオンがちがう。
地形の恣意により現れた高低差を根拠に
恍惚と水の落下する運動があたえられ「世界の果て」を暗示する。

瀧は斜面の裂け目だ。
男瀧女瀧があると考えるか、瀧はすべて女だと考えるか。
ともあれそういう瀧の水をてのひらに受けて、
女が女として繰り返され、再生され、死ぬ――
よって瀧と女と時間はすべて同位だという見解が伏在していると感じられる。

一瞬の文法の乱れと感じられる(やがて形容節の悪戯と判明する)
《血に塗れた手を/つかのまに老いる》の、
読者を欺くようなうつくしさ。

さらに一瞬擦過するフレーズ《ありえない合一の夢ばかりみる》も
もう不満を抒情する言葉ではなくなって
その「合一」は「嫗」と「むすめ」のあいだの、
すなわち時間上の発端と終結のあいだの
合一のレベルにまで変貌している。
男女和合からかぎりなく離れ、
女と水の遍在を語ることで詩篇は反世界性を獲得してゆく。

この「湿気するもの」の「遍在」一点において
物語りを変奏したらしいこの詩篇は
西脇順三郎『Ambarvalia』にある先行詩篇をも指呼するだろう。
《南風は柔らかい女神をもたらした。/青銅をぬらした、噴水をぬらした、
〔…〕この静かな柔い女神の行列が/私の舌をぬらした。》の「雨」だ。

詩が文学であること。あるいは文学でしかないこと。
そして遮二無二、文学に依拠することに、いまの僕は反対する。
詩は詩そのものであって、そのありようは単に息や運動神経でしかない。
その意味でいうと詩に文学の装飾や土台をあたえるなかにしけふこの詩は
基本的には僕の詩観に対立的だということにもなる。
また、現実に取材した「厨」などの詩の運動神経の悪さにも辛さをおぼえる。

ただ一点、上の詩のように「音素」により
意味の、文学の浄化がまず起こり、詩が水のようになり、
そののちに「文学が回帰してくる」のなら何の異存もない。

この詩篇にある、《濯ぐ》の語の作用域はとても広いと考えるべきだ。
洗濯、濯ぐ、濯(あら)う――「内藤濯(あろう)」の名を憶いだす。
そして「濯ぐ」は「雪(そそ)ぐ」にも変化する。
このとき前景として「汚辱」が描かれる必要があるともわかる。

なかにしさんにはより多くの他人の詩篇にふれて
自らをさらなる多作に導く今後があればいいとおもった。
 
 

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2009年09月20日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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