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あふれるくつ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

あふれるくつのページです。

あふれるくつ

 
 
【あふれるくつ】


からだが
鳥籠のようになって
感覚の四ほうを
むだにする
風をくみ入れた
肋骨は
わたしを運ぶわたしを
河原のながい
花束にしている
ひょんなものを
たずさえる心根で
かり
過去のあるじが
ひとすじの線に
なったときは
この短日
彼方の秋へ
のびるもの
を見とおす

なにの森だろう
この詩はなに
秋の眼になっている
ぬれないいろに
なっている
ゆれていて
ひかりのあふれた
そこへも入る
くうきの
さかなたちだ
以前まで
なのやみにいたのに
もうわたしは
あふれるくつ
答のなかをただ
あるきねむりにて
生きているのだ
 

【その後のセルフコメント】

上はほぼ一日、
何のコメントのない
孤独な詩篇となりました。
そんな詩篇自体が可哀想なので
(ミクシィの共同性は
文自体がこういう孤独から回避されるためにあるのでは)
以下には「自解」の試みをしてみます。

あ、いまこの欄を読んでいるひとは
上の詩篇に何か解釈の糸口があれば、と願い
日記へのコメント数がふえれば
それを見ようと考えてくれていたともおもいます。



一見、簡単にみえて
じつはとっつきにくい詩篇だったんだとおもう。
その理由もわかる。
詩篇は主題以外に
実験的なモチベーションももっていた。

各行末から句読点を排除しているために
文節のつながりで混乱が起こるようになっている。
で、実際は一行が
前後に別の文脈でまたがるようなこともして、
そのうえで宙に浮かせる行もつくったのだった。
とつぜんはめ込まれている一行とか二行が少しあります。

ただ、そういうことでないと
改行詩はどこかが単純すぎてしまう。
とくに全体行数、一行字数の少ない場合はなおさら。
僕はまあそうおもうのですが。

ライトバース化にそのようにして歯止めがかかるのは
たぶん僕が短歌俳句に親炙していて
それらにない「決定不能性」を
詩行の運びで実現したいからでしょう。

たとえば上でいえば一聯十一行目、
たった二音の「かり」が問題にもなるかもしれません。
どう漢字表記されるのか。
正解は秋の到来を告げる渡り鳥、「雁」で
その二行後「ひとすじの線」で
俗に雁行(がんこう)といわれる
雁の整然とした群れの飛翔が伝わってくるとおもう。

同時に、読みの段階で少ない比率で採用されただろう
漢字表記の可能性「狩り」「刈り」「駆り」なども消えないで
読者の脳裡に幻のように残存してゆくとおもう。
そういうことで行加算の理路に複合などが起こるのですね。

一聯は、秋の日中を歩む身体を
再帰的に述懐するというだけの試みです。
周囲にみえるだろうものによって
その身体が散歩の速度で相対化されてゆく。

とくに詩篇の最初の八行は
躯に入り込むひかりや風を
それらの言葉をあまりつかわずに
表現できているとおもいます。
それで躯の内側/外側という視座が出る。
これが秋の内側/外側へ拡大するのです

そのなかで明らかに俳句が組み込まれていると
理解される三行が入って
詩がジャンル的同定性をゆるがせる。

以下の三行です。

この短日
彼方の秋へ
のびるもの

秋になり日が短くなって
短日性植物だけが自らの終わりを唄うように
寂しげに咲く。
秋の午後は日に日に夜の含有をつよめてゆき、
そういうものに秋の身体は位相されている。
そうしてはるかをみはるかす。
「かなたにのびるもの、なに?」

「なに」という設問は
実は二聯二行め「この詩はなに」に出てきて
これが通常僕が使わないフレーズなので
引用くさいな、ということにもなり、
詩篇が参照しているのが
辻征夫の詩論集『ロビンソン、この詩はなに?』
(書肆山田、88年刊)ではないかという疑念も
わきあがってくるかもしれません。

当たりです。
二聯ラスト五行は圧縮すると
《わたしは/答のなかを/生きている》という
すごく肯定的な自己承認になるはずですが
(となって、「あふれるくつ」が不可解な挿入行ともなる)、
この着想は『ロビンソン、この詩はなに?』の
28~29頁、辻征夫が引用しているリルケから
孫引っぽく変型使用しました。

最初この五行がもやもやと浮かんで
じつはそこに辿りつくように詩を書き始めた。
主題的なモチベーションもそこにあったといえます。

秋の自然の遊歩者が
その遊歩そのものを回答とする神的状況にいる・・・
そのような認識の転位を
詩篇の最後でありながら中心的に据えるという詩発想は
もう僕がさんざんオマージュをささげている
貞久秀紀さんの詩篇「夢」(『昼のふくらみ』所収)と同じです。

二聯中に一瞬出てくるフレーズ「なのやみ」は
「なやみ」を「やみ」へ変奏していった
那珂太郎『音楽』の先例に倣ったものですが
ゴダール的な「名の前」も含意しています。

わかりにくいところですが
これもモチベーションだったので捨てられませんでした。
こういう語句については詩篇が自己説明すると
壊滅が起こってしまう。

「あるきねむりにて」という
詩篇完成直前に入れた譲歩節が好きでした。
その瞬間、眠り男シェザーレを
詩篇のなかで歩く男(ほぼ自分)の顔に想像しました。

図像的には秋の銀色にぼかされるのは
歩行睡眠している哀しい男の顔と
エチエンヌ=ジュール・マレーが分解写真にしたら
歩行する男の足許につづいてゆくだろう
「あふれるくつ」のはずです。

そして「あふれるくつ」の詩篇タイトルには
椎名林檎の「ありあまる富」をも意識しました。



このような自解をなぜ今回は書いたか?

こういうことです

僕が大好きな詩作者が最近ある詩篇をミクシィアップした。
詩発想が斜めながらどこかがベタだったその作品を
僕はその詩作者の本領から離れるものと捉え
好きにはなれなかったんだけど
何かほかの詩作者たちからのいろいろなオマージュがつづいた。

それらのことばはほんとうに考えられているんだろうか?
その詩篇はちゃんと読まれているんだろうか?

いっぽう僕の上の詩篇にたいしては無音でした。
けれども上と同じ問いを自らに返してみたのです。

まあ、ひとつの詩篇を書くには
これだけ頭が動いていた、としめせればよかったのかもしれません
 
  

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2009年09月23日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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