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梅宮辰夫が、 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

梅宮辰夫が、のページです。

梅宮辰夫が、

 
 
今日、女房と録画済のTV番組をちょろっとみていた。
なかに、「最強ラーメン伝説」とかいうテレ東の番組があって、
出ていたラーメン・コメンテイターとしての梅宮辰夫の言葉に
変に感動してしまった。
曰く、

《食べた瞬間に
「あ、もう一回ここは来よう」とおもったら
自分のなかではOKなんです》

引用は若干不正確かもしれないが、
大意では外れてはいないとおもう。

これ、僕が詩集に感動するときの経緯とすごく似ていた。

「いま」読みつつ、
「もう」再読したくてたまらない詩集があるのだ。
このざわめきは時間錯視にもかかわっていて、
体験としてすごく強度となってのこる。

このことだけを記憶しておいて
一応、人生に激変がなければ
その詩集は必ず再読されてもいる
(たとえばそうして杉本徹の『ステーションエデン』や
松岡政則の『ちかしい喉』をいまは読みなおしたい)。

そしてほとんどの場合
初読時と同等、もしくはそれ以上の感動を得るのだ。
「気づき」が増すからだ。

これは何か。
対象によって自分自身が「寿がれている」--
まずはそういうことだ。

同時に少し、「この非力な自分が」
「偉大なる対象を」寿いでもいる、
そうした力関係が
対偶的に生じている、ともおもう。
この際の関係的「飛躍」こそが、
世界を向上させる具体性なのだ。

となって、ラーメンも詩集も実際は
感動をあたえる質に径庭がない、とも考えたのだった。

幸福ということには時間的充実の印象がある。
それは当然だとおもう。

ところがその「充実」の質を考えてみると
「ふたつの時間が混ざる」ことと
ちかいともすぐに気づく。

端的には「現在」と「未来」が混交する--
それが最も手っ取り早い幸福的「混ざり」なのだ。
あるいは「過去」と「現在」の組合せもあるかもしれない。

詩集は読解の体験が他と比較しにくいと
気づくひとは多いとおもう。
「いま」読みつつ、
「未来」も読んでいる自分を認識しているから
読解の実質には混乱が理論的に組み込まれているのだ。

ただこれこそが一回性の表現にたいしての
正しい態度設定であるような気もしてしまう。

そうそう、こういえばいい--
「あなた」は僕の今日だ。
同時に、あしただ--

そうおもって泣けてしまう対象は
限定的ながら世に着実にある、ということで、
それだけが「僕」「あなた」の
双方の真実を語る資格がある、のだとすれば
絶対ではなく相対にしか
真実味を帯びさせるものもない、ということになる。
この「発見」は切ないが。

となって、「発見」に資本運動ではなく
個人的感動だけを結ぶ詩のような文芸が
とりあえずは「絶望」から自身を引き離す、
「第一歩」のような飛躍を実現するのだとおもう。

以上の僕の言葉は狂気的かもしれない。
ただ狂気が常態の詩作者にはまず響くだろう。
その次段階では真っ当な「詩の読者」をも直射するだろう
 
 

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2009年10月03日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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