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7センチ差にたそがれる ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

7センチ差にたそがれるのページです。

7センチ差にたそがれる

 
 
前回日記のつづき:

おととい、ソフトオンデマンドの
宣伝・細渕陽右さんからは
ダンボールが郵送で届く。
なかをあけると同社作品が合計52本!
ご参考用に提供、とのこと。
この齢でどうせえっていうんじゃい♪

一週間に一本の換算。
ならば年間単位でクリアできるか。
などと高を括るうち
さらに続陣も届きそうだなあ。
ともあれ僕のスケベ欲情をみたしてくれる
細渕さんに多謝

ここで命題ひとつ。
ソフトオンデマンドは
がなり社長時代になぜあれほど急成長したか?
世は単体時代から企画物時代に移り
とうぜんその企画物がよかったからだが、
それはこういうコンセプトに基づいていた。

「世の中のフェチはじつに多様に深化していて、
そうしたフェチ欲求に
ひとつひとつ真摯にこたえるAVをつくると
それはかならず売れる」。

僕が「おおっ」とおもったのは
女の子の「鼻の穴」フェチ。
そこに指を突っ込んで
描かれるAV的企図も大団円となるらしい。
その瞬間もみたいが、
そこにいたる男女の攻防戦、すったもんだもみたい。

ともあれそれって
「女の子の膝」に触りたい欲望が大団円を迎える、
ロメール『クレールの膝』のように
純粋で馬鹿らしくて美しい作品なんじゃないのか・・・

さらに近況。

おととい木曜日未明:「ウルトラ」13号を読む。
高塚謙太郎の巻頭詩に感銘。
以下、高塚さんに送ったメール文面をペーストする。



冒頭の高塚さんのにはやはりびっくりした。
CAN『モンスター・ムーヴィ』と同じタイトルだとおもっていたら
そのマルコム・ムーニーの狂気のお経唱法、
ハンマービートあれどもドイツ的にロック衝動を欠いた
CAN的反復の土台のうえに、
鏡花の語彙もからげながら
コンフューズした日常が間歇-点綴されてゆく。

しかも描写のモチベーションはその描写内実でもなく
まさに運動神経、語連想の提示だったりする。
それに「息を急かせる」リズム上の可変装置が
エフェクターとしてさらに噛まされ、
結局は「、」のブレスこそが詩篇の主役か、とビビりました。
美しい蕩尽です。

CANについては僕はダモ鈴木時代がとくに不安定で好きです。
アルバムでいうと『サウンドトラック』『タゴマゴ』。
ここらあたり
やがて狂うマルコム・ムーニーの在籍した初期CANの不安定性から
第二段の不安定性へ踏み込んだという感じがした。
メロウな渦巻きと反復と浮力、かなあ。

ダモ鈴木は数年前の来日時にライブ行きましたよ。
石橋英子がドラムを叩いたんだっけ

ただしCANはすべて輸入版アナログLPの保持なので
歌詞がほぼわからず、歌詞吟味をしていません。
ありゃ『タゴマゴ』はジャケットに刷り込んでたんだっけ。

高塚さん、年齢の割に意外なことを知っている。
CANもそうなんだけど(実は日本でのブームは80年代初頭)、
「咎なくて死す」とかもびっくりしました。
塚本邦雄経由の知識ですか?
僕はそうです。

むろんパフュームから少女Aまで
高塚さんのサブカル知識は出自・時代も雑多だね



木曜日:「文学極道」の九月作品選評書き(まる一日)

今月から発起人参加と相なった。
「文学極道」は一か月分で相当量の詩篇が集まる。
今回は65本が選評対象に。
玉石混交だが通覧し評をしるしてゆくと
「詩手帖」一ヶ月の投稿欄はおろか
特集として出される「新人作品特集」よりも
「絶対的に」おもしろい。
「詩人気取り」がおらず
「自意識」にも厭な逼塞をおぼえないからだ。
すげえ、と息をのむ表現も随所にある。

これについては実際に「文学極道」サイトへ
僕の記事がアップになったときさらに詳しく書く。
これ、今後僕の仕事のなかで大きな割合を占めそうだ。
僕の社会的役割のひとつがここに集中するということ。
緊張する。平川綾真智さんのナヴィが頼り。

ともあれ「文学極道」に関わり、
詩のブログアップを頻繁にすることで
僕の「同人誌忌避」も完成する。
そう、詩も詩評もひらかれた場所へ投げられねばならない。

それでこそ世間的には通じていない「詩人気取り」を
その驕慢を、駆逐できるのだ。
リラダンやアポリネールは
「詩人気取り」の駆逐に火山をつかった。
現在ではそれはたんにネットで済む。

あとは「詩手帖」本体への食い込み。
こちらの頼りは亀岡大助さんだね。

金曜日:立教で健康診断(午前)、
合間に東京新聞書評欄用の分厚い本を読んでゆき
帰宅後の夕方は
疲れて自分の二冊の詩集をひもといた。

前回『昨日知った、あらゆる声で』あっての
今度の『頬杖のつきかた』なのだが
前者のツッパリと文学性にたいし
今度ははるかに軟化し「食えなく」なっている。
詩法が拡張しているのだ。
ただし『昨日知った』には今回詩集の兆候もある。
「へちまが見える」などがそれ。
小池昌代さんが買っていたな。

昨日は立教からの帰途に「チキンタツタ」を食べた。
確かに味は懐かしかった。
バブル時代、僕の腸がつよかったころに
よく愛食していたのだった。
今回はその後、激しい腹痛に襲われる。
やっぱりマックの使用油は僕には鬼門だなあ

そうそう、健康診断で判明したこと:
前回調査で腹回りが83センチだったのに
今回90に(笑)。
禁煙成功ゆえの肥満だが
やっぱすげえヤバイ・・・
メタボ化驀進中じゃん♪
とうぜん腹筋運動を薦められて
上ずった声で「ハイッ、がんばります」と応じてしまう。

広瀬大志さんから詩集贈呈にたいする礼状が届く。
葉書にいっぱい小さな字が書かれている。
その一々がうれしい。
次の日記本体にでも引用させてもらおうかな。
どうしようかな

しかし礼状というものを
世の中はなぜもっと利用しないのだろう。
普段仲のよいひとは問題ない。
ただ仲のこじれたひとは
礼状こそが「敵に塩を送る」好機のはずだ。
対立軸を惑乱させる高尚な遊戯に
ご興味がないのだろうか、
FさんKさんIさん
 



【その後のセルフ書き込み①】

ついでに
「tab」18号掲載、
高塚謙太郎「高野」について
高塚さんに送った感想も:



「tab」所載「高野」はさっき読みました。
「荒野」とのコノテーションは関係ないね。
「高野山」という磁力のある地誌を
小説的記載が束になって襲い、
それらが相互化して異文脈をつくりあげる。
そこに無告者の悲劇が歴史的厚みをもちだす。

同時に詩的問題としては
詩の散文化は詩の散文性によってこそ
歯止めがかけられるという正しい見解も割って入る。

軽率に総括はできないけど
第一回読了時には、とりあえず以上のような印象をもちました。
無媒介に固有名詞=人名が紙面に前面化され、
それに「記述」が取り巻いてゆく磁力が新機軸。

これは高野山という場所でしか成立しないのか、
それが次の判断軸です。
当然そこで中上の「熊野」が視野に入ってくる。



「高野」はたぶん「モンスター・ムービー」よりも
もっとヘンな詩篇だろうとおもう。
ただ呼気とともに「ぶちまける」詩法には
いつもある一定の枠がもうけられていて、
詩篇をみた瞬間にすでに美学的な厳格性が伝わってくる。
それが高塚調で、しかもそれぞれのかたちがちがう。
だからたぶん彼の詩が信頼できる。

書くことが一回性だとして
そうした一回性だからこそ
そこに内在的複数が参照されているという機微。

その後の高塚さんからの私信では
「高野」は新機軸で、
今月出る思潮社の新詩集には入らないということ。
いずれにせよ僕はすごくそれに期待している。
70年代前半生まれ世代の男性で
彼がトップを切るのではないか




【その後のセルフ書き込み②】

詩の同人誌への批判
(現状における媒体政策的なもの、です)を
片方でしながら
もう片方では高塚謙太郎の同人誌掲載詩を褒めた。
矛盾は感じていない。

どういうのか、現状は多様な発表媒体が
「われわれ」の前には拡がっているが、
書き手への信頼は
そうした拡散を刺繍するように現れてくる文業の、
その連続性と不連続性とを考量し、
そこに存在の固有性を省察できるかに
僕の場合は限られているかもしれない。

ところが多くの同人誌では「潜行」が基礎になる。
書かれたものが数十人から二、三百人程度しか読まれない、
しかも送付した安全圏でしか読まれないという
防衛機制が前提となって、
厳密性のないテキストが甘えのように書かれている。
これは評論にかぎらず、むしろ詩作を中心に言っている。

そのひとたちもたとえばSNSをやる。
ところがそこでは彼らの真実を告げるものが
何も書かれないことが多い。
本当は出し惜しみではない。
出して惜しむほどの自分がない、といったほうが適切だろう。
そうして日記的記載はほぼ同じものの反復となってミニマル化するか
何かの調査の過程中途を退屈な列挙でしるすようになる。

つまり同人誌で書く、ということが
SNS記事のつまらなさの補償となっているらしいのだが、
そういうひとは結局、どちらも駄目なのだ。
「量」の感覚に欠けるからだ。
つまり高塚くんにたいしては
読んで即座に測られる
「量」の感覚を信頼している、ということになる。

僕はたぶん自分自身、僕の読み手に
まず「量」をシャワーするよう心がけてきた。
たとえば二百人くらいの一定読者が
日々の僕の記載から
「阿部的連続性」をかぎ当てるにまかせる。

だからこそそこに、不連続性の罠も仕込める。
昨日書いた阿部と今日書いている阿部はちがう、というような。
「ゆるがす」ことが
最も文業ではエンタテイメントなのだとおもう。

これはとうぜん現今ではブログなどで実現しやすい戦略だ。
ところが同人誌で同じことを展開しようとしても
「潜行」が前面化されているがゆえに
言葉の貧しい意味での不連続性から
文業が逃れられない、ということになる。物理条件だ。
この状況の打開のために
どれほど多くの同人誌に所属しても
事態は本質的に変わらないだろう。
「同人誌」性がもう一端の問題だからだ。

松本秀文君などはそうした状況に苛立っているはずだ。
だから「ウルトラ」に「速度太郎」シリーズの
大々掲載を敢行する。
それ自体はたしかに壮挙に映るのだが、
そこで個人誌の可能性がどう捨てられ、
実際の詩集出版への格上げがどう構想されているか
こんど訊いてみたい気もする。

僕自身は読み手の信頼を得ているとすれば
媒体発表の感覚に「連続性」の印象がまずあって
そこで不連続が測られることこそを潔しとしているためだろう。
もうひとつ、ブログ以外は、書く媒体がほぼ一般媒体で
同人誌的「潜行性」を嫌う信念を貫いているからだ。

「量」を書く。身を賭けて書く。
その成果がたとえば今度の『頬杖のつきかた』であって、
だからあの詩集では詩法・内容と同時に
その成立に関わる現代的媒体性も
語られなければならないのじゃないか。

 

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2009年10月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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