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柴田千晶・赤き毛皮 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

柴田千晶・赤き毛皮のページです。

柴田千晶・赤き毛皮

 
 
書評用に読み進めている本に疲れて
柴田千晶さんの句集『赤き毛皮』(金雀枝舎刊)をひもといてみる。
先週はじめ柴田さんご自身から寄贈いただいたもので
見るのは二度目。もう印は打ってある。

この句集は女性の内在的身体観の発露において「独特」で
(この傾向は柴田さんの詩集でも同じ)、
たぶんこの最も小説に向く柴田さんの資質を
俳句という最短詩型がどう支えているかにまず興味が行く。
このときの効果は多重に迫ってくると感じるが、
先を急がずに少し以下にしるしてみよう。

第一章「躯」が俳句的身体観の前面化という点で
タイトルどおりの働きをしている。

慌てていうが、
むろん柴田さんの句眼が身体のみに集中するわけでもない。
家族詠も職場詠もあり、
前者では家族を俳句的配剤のうちに描いて人間的悲痛を醸すし、
後者では労働疎外にどこか近未来的光景の感触が混ざるという、
これは僕の知る柴田さんの詩の資質と共通性を描く。

ところで女性句の拉鬼体というと
やはり三橋鷹女を想起するひとが多いだろうか。
となると代表句《この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉》に
やはり評価も集中するだろう。

謡曲「紅葉狩」に発想を得たということだが
僕はその謡曲自体を知らない。
ただ「鬼女」という語そのものの妖気が
「夕」「紅葉」という赤の二乗によって荘厳され
同時に「登らば」という仮定によって
意思の奇異よりもさらに
身体が上方に揮発してゆくような危うさを覚える。

それらが相俟って、男性としてはとんでもないもの
(たとえば情感)に直面させられたような気にもなるのだが
検証してみると「拉鬼」の実体(具体)はない。
手捌きはじつは抽象的で、ひとは崇高な事後に接しているだけなのだ。

前置きが長くなったが、柴田千晶の句は
拉鬼に迫る手続きとして、この抽象を許さない。
だからときに俳句が許容できない女体的鮮やかさと強度を得てしまう。

夜の梅鋏のごとくひらく足

葡萄滲むシーツの裏に千の夜

抱かれし後の花野へわが野性

腋剃りし昼の暗がり白薔薇

四句め、下五の詠みは「しろさうび」。
(剃毛後の)腋、昼の暗がり、白薔薇が
すべて物質的微差を連接させながら
喩的に同時(並列)化してゆく。
それしかない句の構造によって
剃毛という女性的行為が白く圧倒化されてゆき、
これが男性的句発想と対照を描くということだ。

鰯雲の不思議な日暮排卵日

ここでも鰯雲と排卵に感覚的類似性が架橋されながら
排卵という女性内在要素によって
たんなる外界の一自然、鰯雲が規定を受けることに
読み手は脅威を感じてしまう。
女性性が脅威として出現する――これが柴田千晶の個性だ。

しかし上述「白薔薇」の句は
同時に白を基盤に「腋」「昼の暗がり」「薔薇」が
相互溶融してゆくあわれさをもふくむ。
女性的営みの慎ましさはそういう生活の場所へ折れ、
自らを消尽していって残余をしめさないのだ。
となって「白」が特権色ともなる。
中村苑子にもそういえば次の秀句があった。

白地着て己れよりして霞むかな

この「白地」には死装束との複合があって
女体はその死後の相から霞まされるのだった。
柴田千晶にもこの系譜に属する佳句が陸続していて
それらに接すると
読み手のおもいも無常境に遊び、はかなく主情化する。

銅鏡に映らぬ目鼻梅真白

女てふ鋳型ありけり白木槿

天井に我を見る我春の闇

こうした自己を起点にした幽玄化によって
その視界も渺茫さを帯びてゆく。

天上に男は四人花樗

「樗(あふち)」の花盛り、
空にはその四隅を支える四柱の男、あるいは四君子がいたが
それが支えをやめて飛翔している図を感じた。
しかしここでは「男」の語によって
その対比「女」こそが
感性的な大団円を迎えているのではないか。

以上しめした句は第一章「躯」にふくまれているが、
その後の章の句でも同じ運動をすることがある。
「銅鏡」の「消滅」ならば

冬桜感熱紙の文字みな消えし

「女てふ鋳型」はその素朴形を土偶に再発見され
そこから清潔で豊饒な春の匂いがたってくる。

あたたかや土偶の陰〔ほと〕は一本線

「天上に」の幻視は縦に流れる、
より女性的な幻に逢着する。

日照雨誰にも見えぬ滝を見る

これらの句では柴田千晶の句発想=躯発想が「鋳型」となって
そこに読者は躯を容れ
柴田のやさしく、普遍にもつうじる感覚を追体験する。
これが至福につながる。

その柴田が絶対に馴致できない、
完全な「拉鬼体」を実現する。
そこでは脱論理=拉鬼という図式が成立するのだが
永田耕衣的ではなく柴田独自的なのが凄い。

白さるすべり女の躯使ひ切る

青梅雨の体に百眼描かれたる

「百眼」は鈴木清順による『殺しの烙印』のセルフリメイクに
出てきたキャラでもあるが、その意識はないだろう
(柴田さんは映画のシナリオも手がけている)。
ただ身体がアーガス化し、青梅雨の前方を百乗に視ている。
そうした身体が怖いのだが、それが女の身体だとは。

この「百」が「算定不能」にまで昇華されて
柴田的「拉鬼」の特権的天文、「銀漢=天河」が登場してくる。三句。

まはされて銀漢となる躯かな

銀漢や髪洗ふ手の一つ増ゆ

銀漢に菌糸めくもの延びゆけり

二句めの脱論理が凄い。
ただし柴田さんの所属結社「街」は加藤楸邨系の流れだろうから
僕が最近の日記で引用した楸邨の次の句が念頭にあるかもしれない。

天の川後脚を抱き犬ねむる

眠る犬の躯の円型がウロボロスとなって
終末と発端が噛みあう永久をつくりあげる。
それで天の川との対照を導引できる。
となると髪を洗うべく頭に置かれ円をつくりあげた双腕も
そのまま手の増幅を予感させ
女の躯も髪を洗うごと千手観音化してゆくのかもしれない。
そこにも天の川を導引できる。

ならば一句めは何だろうか。
初五《まはされて》の解釈に誰もが戸惑うとおもう。
「輪姦〔まは〕されて」とまで読んで、
たんに躯が回転させられただけだと考え直すのではないか。

たとえばそれも独楽のようにではなく
観覧車に乗るように、であっていい。
ともあれ身体に加えられた回転によって
身体はそれ自体の星を粉のように噴き上げる
――この脱論理は躯を起点にしているから綺麗なのだ。

このように柴田さんは発想の人だ。空間発想も素晴らしく
何か数学的鬼才をおもわせる。
そうした句は拉鬼ではないが愉しい。最後に二句を転記打ち。

花冷のジャングルジムの中に鶏

捨てられし冷蔵庫開く桜山

いや、転記打ちして考えが変わった。やっぱり柴田的拉鬼だ。
そう、この二句では描かれている空間性そのものが
女性身体を暗喩しているのではないか
 
 

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2009年10月12日 現代詩 トラックバック(0) コメント(5)

ぎょっとするような奇想が、句作品としてのきめ細かさに端正に刻まれていて、迫力がありますね。
女性が書いていること自体が興味深く感じられて、すごいなあとおもいました

2009年10月12日 三村京子 URL 編集

柴田さんはこの『赤き毛布』と
その前の詩集『セラフィタ氏』を合わせると
女性性の規定にたいし
逆規定で返すような個性だと判断ができますね。
僕もほかの詩集も読みたい。

ちなみにほかの詩集は
今度の『赤き毛布』によると以下。
『川岸まで』(紫陽社)
『濾過器』(思潮社)
『空室 1991-2000』(ミッドナイトプレス)

デビュー経緯も年齢も小池昌代さんに似ている。
いや年齢と居住地が
廿楽順治さんとまったく同じだったりする

2009年10月12日 阿部嘉昭 URL 編集

阿部さん、拙句集を評していただいてありがとうございます。
天井の句の四人の男を、四柱の男という阿部さんの発想にはっとさせられました。
同じく、銀漢の句、髪を洗う手が千手観音になるという発想も、阿部さん独自の把握であり、作者である私も、そうか、そういう読み方もできるのかと驚きました。
こんな風に深く鑑賞していただいてとても幸せです。ありがとうございます。

ところで……句集のタイトルですが、毛布ではなく、毛皮なのですが……。「赤き毛皮」と訂正していただけたら嬉しいです。なんかみんな間違えるようです。(笑)

2009年10月13日 柴田千晶 URL 編集

わあ、済みませぬ。
最初に「毛布」と錯視して以来、
ずっと「毛布」と思い込んでました。
自分の手帖の読了本記載にも
「毛布」と書いている・・・

表紙に刷られた字体が原因なのかもしれない。
もちろん直しておきます

しかし柴田さんの句では
「なにぬねの?」のやりとりでお見かけした句も若干あって
懐かしかった。

「なにぬねの?」を僕はもう辞めちゃったけど
(勇ましく句作してくるひとのなかに
切れ否定論者と標榜する苦手なひとがいた)
ネット上の句会とか、誰か提案しないかなあ

柴田さん、どうですか?

2009年10月13日 阿部嘉昭 URL 編集

さっそくありがとうございます。
私も「なにぬねの」で阿部さんや近藤さんと句を作り、大変刺激を受けました。
ネット上句会、よいですね。今ちょっと余裕がないので私が即動けないのですが。
そういう場があればぜひ参加したいです。

2009年10月13日 柴田千晶 URL 編集












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