山田亮太のこと+お知らせ
たいへん時宜を逸していて申し訳なく
「今更」感もあるだろうが、
今年五月に思潮社から出た
山田亮太さんの『ジャイアントフィールド』は
客気にあふれ、かつウルトラポップな詩集で
もうとても大好きだった(刊行直後にどこかで
そのことをチラッとだけ書いた)。
同語(同フレーズ)の波状攻撃。
そのときリズムが生き生きと生起しつつ
同時に脱論理も入ってきて
同一的構文が主客や正負の軸で
アクロバティックなズレを起こしてゆく。
詩とはまずリズムであり、
同時に意味と脱意味の弁別がなくなる場所で
豊かな混乱をしるしてこそ
成就を迎えるという信念が
山田さんにはあるだろう。
何か意味と音韻にまつわる峻烈な装置がいつも働いている。
結果、山田さんの詩篇の最良のものには
同じ名前、同じ事物が脅威としてあふれかえる。
ただしそれは同一であって同時に差異でもある。
それを哲学として語るのではなく
語りの陥る豊かな逼塞として山田さんは語る。
これによりポップで現代的で、見たことのない時空となるのだ。
そこまでをふくめドゥルージアンの呼気を感じる。
けれどもこんな抽象的な物言いでは
山田詩のポップ感が矮小化されてしまうだろう。
なので例証としていくつかのフレーズを引用してみる。
●
【ポチたち】(部分)
山田亮太
夢はありますか。
はい、ふたごを生んで
両方に同じ名前をつけることです。
そんな会話を最後に留学生のリサは帰国した。
彼女がくれた赤いテレビはイトーヨーカドーカートに載っている。
それを押して家まで歩くことは一週間分のイヌの散歩をするようだったから
ポチと呼んだ。
〔・・・〕
坂口さんの家の近くに小さな橋があって
その橋の下でイヌを二匹ひろった。
黒いほうをポチ、白いほうをコロと名づけるか、黒いほうをコロ、白いほうをポチ
と名づけるかで意見が分かれたので
あいだをとって黒いほうをポチ、白いほうをポチと呼ぶことにした。
坂口さんは毎日、ポチとポチと散歩に出た。
ポチとポチはよくけんかをした。
ポチのほうがポチよりも少しだけ大きかったけれども勝つのはたいていポチのほうだった。
ポチとポチはいつも並んで眠った。
叩くとピアノのようだった。
ある朝ポチが死んだ。
悲しみにくれる坂口さんは見境なくイヌをひろってきてはポチと名づけた。
次第にひろわないイヌさえもポチと呼んだ。
やがてイヌでないものまでポチと呼ばれた。
全世界ポチ
けれど恐怖とはつねに個別的なものだ。
自分以外のすべてがポチと呼ばれて何がいけない?
〔・・・〕
●
同一的テーマはさらに別局面に伸びてゆく。
今度は詩篇【双子の誕生】から部分引用しよう。
このタイトルは『国民の創生』に似ているとおもうのだが。
●
【双子の誕生】
山田亮太
一九八二年の秋、一組の双子が誕生した。
父は、兄を太郎、弟を次郎と名づけることに決めていた。
母は、生まれたばかりの二人の赤ん坊でお手玉をした。
母の両の手の上で兄と弟が回る。
そのすさまじい速度が、兄と弟を見分けられなくした。
〔・・・〕
太郎一歳、次郎一歳のある朝、太郎は次郎に話しかける。
最初に覚えた言葉は「太郎」。
太郎は次郎を「太郎」と呼び、次郎は太郎を「次郎」と呼ぶので、
太郎と次郎は取り違えられる。
〔・・・〕
太郎三歳、次郎三歳のある朝、太郎は次郎に提案する。
きみの顔に生涯消えない傷をつけてみてはどうか。
次郎は拒否し、太郎は眠る次郎を狙う。
以後、双子は同じ部屋で眠らない。
●
リズムに既聴感がある(とくに引用した第三聯)。「あ」と気づいた。
吉岡実の「僧侶」に似ているのだった。
この詩篇の結末は引用しない。
ただ(脱)論理により、あらゆる子供は双子として生まれる、という
中間結論が出るとだけ指摘しておこう。
それは先に引用した「ポチたち」で
ポチと名づけられるすべてが世界を跳梁するのとも似ている。
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山田亮太さんは首都大学東京の瀬尾育生が指導した
詩の講座生たちが組織する「トルタ」という同人集団の面子だ。
僕がもっている「トルタ」は部分的にしかすぎないが、
安川奈緒さんだったかの「詩の読解試験風の詩」を組み込んだ
国語教科書をパロディにした「トルタ」の増刊号を出し、
さきごろも話題を呼んだばかりだ。
その代表、これも意欲的な詩作者である
河野聡子さん(詩集に『時計一族』)から
詩篇創作の依頼があって
じつは今日の午前中、愉しみながら詩篇をつくって完成させたところだった。
先の山田亮太『ジャイアントフィールド』寄贈者への公平な依頼で、
詩集に感銘したひとに
同詩集から抜いたキーワードにつき
新たな詩篇をつくってもらい、
トータル百詩篇で「トルタ」の増刊ともいうべき
『ジャイアントフィールド・ジャイアントブック』を出すのだという。
キーワードは自分では決められない。
僕については
冒頭二詩篇「エコシステム」「雪だるま三兄弟」(これらも傑作詩篇!)に
出てくる「電話ボックス」でどうでしょう? という提案で、
一も二もなく賛意のメールを送ったわけだ。
まずは「電話ボックス」が詩篇中どう使われているかを精査する。
それに山田亮太特有の想像力(同一性連鎖)を加味し
夜にひかる「電話ボックス」にいるのは何か、
声はどこに飛ぶのか僕なりの考えを加え
最後にその電話ボックス詩の生起する場所がどこかについては
完全に僕の独壇場とした。――千葉市だ。
出来上がりが幻影的な女性描写詩にして
チープな援交詩となって
満足している。
言い換えよう。
僕がやったのは山田詩に登場する「電話ボックス」、
その登場の矛先を替え、時制的にも意味的にも
別ヴァージョンをつくることだった。
ちょうど先に書いた日記のように、
「タランティーノ的なもの」を思考していたので、
そういう思考可能性により、別の時空を接木するのが愉しかった。
それで気づく。山田亮太の詩はリズミックに読み手の身体内を打つから
読むだけで錯視のように自分の言葉もそこから湧いてくるのだった。
僕は規定どおり22字×50行の詩を書いた。
この『ジャイアントフィールド・ジャイアントブック』、
発行予定日は本年12月6日のよし。
しかし何という意欲的な同人誌増刊の発想だろう。鑑だ。
僕の詩集『頬杖のつきかた』にも援用できる方法だな、これは。
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自分の日記に書く詩篇は俳句的欠落を抱えた難解抒情詩で、
原稿依頼された詩篇はポップ、という
二面展開は習いとなるのだろうか。
さきおととい送られてきた
池田實さんの個人詩誌「ポエームTAMA」でも
僕はポップ詩「百かばん百」を書いている。
これにも「援交」がチラリと出てくるし、
そういえば語法がちょっと山田さんに似ているといわれるかもしれない。
混乱を組み込んで「かばん」への認識がどんどんズレてゆくよう
陰謀をこらしているのだった。
「百かばん百」は、次の「ポエームTAMA」が出た段階で
「阿部嘉昭ファンサイト」中のネット詩集
『みんなを、屋根に。』にアップします。
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ポップ詩というのがいまはいちばん良い方法なのかもしれない。
田中宏輔さんが「文学極道」にアップした
「もうね、あなたね、現実の方が、あなたから逃げていくっていうのよ。」
の素晴らしい出来をみてもそうおもう。
下をクリックしてご確認あれ。
http://bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?refresh=1256189928
これについてはあつすけさんに僕は感想をコメントした。
以下に貼ろう。
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「文学極道」投稿詩、
拝読しました。
ぐわんぐわん肥ってゆきましたね。
無限の増殖形。
会話を活かしたパターンのあつすけ詩では
いつも当人というより
「都市そのものが会話して」、
どこか人が後景にしりぞいてゆくはかなさがある。
そのはかなさを「記憶」が再現しようとして苦悶する。
それで結局「生きること」「生きたこと」「あったこと」
といった主題に詩が逢着してゆく。
そのことと書式の問題。
一行アキを守りながら
字数の少ない行わけが連鎖してゆく。
読者はスクロールし、画面を下げてゆく。
何かそのときの
速度体験が精確に狙われている。
「この速度に同調せよ」と。
それってたぶん、都市や会話が
存在にたいして現前してくる速度なんでしょうね。
ここで「普遍」という問題がさらに惹起する。
「われわれ」はせつない。
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あつすけ詩的「普遍」はどこに出るか。
おそらく「詩魂」の高さに出る。
部分的には卑俗な用語にみちていながら
その詩はたとえばボードレールのような
普遍的な孤愁もたたえていて
だから「人間として」感動に導かれてゆくのだった。
詩魂、これはすごく大切なことではないか。
僕がいまいちばん嫌っているミクシィ上の「批評家気取り」は
こうした詩魂がゼロの卑しさを感じさせる。
詩を商社の交易アイテムのように扱い、
すべての詩を代替可能と考えている趣がある。
そんなことはありえない。
たとえば山田亮太も田中宏輔も唯一無二、
――「だからこそ」普遍なのだということ。
彼=批評家気取り、は、僕がいましるした
「孤愁」という言葉をよく噛み締めるとよい。
その彼は自分の尺度でしか詩を読まない。
だから、読めない詩の範疇も多すぎるようなのに、
「なぜか」詩についてコメントをしたがる。
それでそのほとんどが頓珍漢、という結果にもなる。
僕はいまその彼を明らかに敵視しだした