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杉本徹ステーション・エデン ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

杉本徹ステーション・エデンのページです。

杉本徹ステーション・エデン

 
 
キッチュ詩の美学と我慢を競う「われわれ」のあいだでは
基本的に「エレガンス」の功徳がうすく考えられている。
となって、杉本徹の詩の、地上的にして、それでも晦冥なエレガンスは
どう捉えられているのだろうか。

杉本は03年、ふらんす堂から出た『十字公園』で
果敢な詩集デビューを飾った。
稲川方人氏により薦められ即座に読んだ当時の印象では、
うつくしさが反時代的で凶暴、というものだった。

春夏秋冬の四章立てで、
各詩篇には詩語(雅語)がちりばめられている。
漢字にフランス語を付すルビの多用によって
仏文学的素養もただちに明らかになる。
季語をしるす植物や古典語も挿し挟まれる。
イメージ結像を「半分」のこしながら
おもに、都会を彷徨する者が世界にたいして抒情を繰り広げ
そこに謎も加えられる――印象としてはそんな詩篇群だ。

それだけなら気障とか高踏派とかと難詰されそうなのだが、
「…」や「……」の多用によって詩文の流れが
内側に籠もって断続する感触がある。
口ごもり、内省――どういってもよい。

体言の束は連鎖性の弱さのなかでそうして浮遊し
用語の晦冥さも相俟って詩情を中心化しない。
あるいは改行のタイミングを意思的にずらすなどして
快適さのみに詩文を着地させない。
読点で吃音性というかシンコペーションを意図する点もそうだ。
つまり既存のエレガンスから離脱しようとする不機嫌が同時的にある。

あるいは構文が疑問文や目的格終始など、ひとつの型を連鎖することで
詩行の運び全体がニュートラルに浮遊してゆく場合もある。
あらゆる詩的文法が吟味された結果、
不安定さがこころざされ、そこにこそ再読誘惑性が賭けられる。
たとえば以下のように――



午〔まひる〕、ほそ道を横切るとき
奥まった木の間がくれの家の、梨いろの閂、消えた
ここは二度歩かない道、…ね、そこの、鳥を連れた人
敷石に打たれて水の黒く、刻々、お別れさ

〔…〕

横切るのはそこが、ここが、鏡だから?
滑るように射す陽を避〔よ〕けた、さわさわ、袖が波打ち
振り返らなくとも、そう、西の電柱には蔓草が纏わり……
ほそ道を、横切るのはそこが、ここが、鏡だから?

(「夏の鏡」部分)



夏、主体は細道に舞い込む。
油照りで木の葉が鏡のようにひかる白昼の静寂時間。
ならば「鳥を連れた人」の幻想とも行きすぎるかもしれない。
そして真夏を歩くこととは鏡中を歩くことなのだ。
鏡中――(神の)胸中?

それにしても語はぎりぎりの正常性で並べられている。
いったん空中飛散していた諸語が再着地したとき
ある種の僥倖が働いて、詩文が正常性に復帰したような
どこかで禍々しい「事後性」の感触がある。

ただし詩なのだから時間が交錯しなければならない。
つまりこの「事後性」の感触は
この詩篇の次段階でもちよられる
「遠街〔おんがい〕」の語によって未来性とも刺繍され、
そこで詩の主体らしき者が諸時間中を彷徨する都市的人格だと明かされる。

上記引用の中間には省略した三行があった。
そこで杉本徹は、言葉の運びが正常性に向けて再着地しないがゆえの、
情感の原型をまるごと提示してみせる。
この聯があって、他の聯も「仮構」になる、ということだ。



鳥は、緑金〔りょっこん〕… 影も啼く、フーガ季の、枝から枝へ
(手紙一葉の、ような虚〔うろ〕は、空に、きっとある、のだから…)
角〔かど〕で靴の音、小さく、カペラ、カペラ… あ、点った



「フーガ季」という語の奇異。
「フーガ季=遁走曲の鳴り響く季節」という予想できる第一義に、
「風雅期」という造語が加わり、
なおかつコノテーションとして「氷河期」も複雑に参入する。
主体は、暑気に冷気も知覚しているのだろう。
混乱ではなく「対立を同時に相渉ること」こそ、感覚の真実なのだ。

それは変異可能性をさまざまに知る、ということでもある。
だから葉と緑鳥の弁別がなくなって
さらには手紙を数える単位「葉」から、
木々に生い茂っているのが手紙という見立ても潜在してしまう。

あるいは靴音に擬される「カペラ」。
カペラは馭者座に位置する冬の巨星だ。
ここでは昼-夜、夏-冬の反対共存が可能性として実現される。

この詩集からもう一部分、ぬいてみよう。
「だろう」の連鎖によって詩想が浮遊的になる見事な二聯だ。



光生〔な〕る匙、受け皿に棄てた白い生涯…
かわいた音だけが後の世の秋を、渡るだろう
あの錆びた門から… 轍と鍵、不実な歌い手など

後の或る秋、狂い咲きの花が靴底を訪うだろう
踏みしめて、睡りながら梳る陽は、もの言わぬだろう
ゆるゆると舟漕ぐ、後背のように、遠ざかるばかりだろう



イメージは如上あきらかにうつくしい。
しかも「後の世」が「後世」のみならず「死後の生」まで含意していると
ここで錯視されるのではないか――それが「秋」で、
そこには門があって
車なき轍、用途なき鍵、そして誠実なき歌手が解放されてくるのだ。

太陽はもう髪を灼かず、微風となってひとの髪を梳るだけ。
その澄んだ冷気のなかで舟に乗った別れが演じられると感じるが、
それはじつはたんに太陽の遠ざかりなのだった。
秋は春を回帰させるが量的に少なく、それは「返り花」に過ぎない。

杉本徹の詩句のうつくしさが
不安定性と境を接している点は銘記されなければならない。
それはつまり、現れのうちに仮構性も宣言されているということだ。
だから引用した第一聯で「匙」に「些事」を
「生涯」に「障碍」を錯視しても何ら構わないだろう。



その杉本の第二詩集が
今年六月、思潮社から刊行された『ステーション・エデン』だ。
まずは詩篇「if」を全篇引用してみよう。



【if】
杉本 徹


凹面鏡の奥へ、路地を入りこむと
草の葉の黄褐色に揺れていた、if ――
崖下の髪に薄陽こぼれ、窓ガラスの青空に問うた
そう、……あなたのほどく結び目の蝶の、ゆくえを

暮れかかると遠い火が、消えてゆく息のように凝る坂
遠い、陽に血はあかるみ、あかるんだ――晩い秋の奸計として
(コインランドリーの前を過ぎ、すずかけの木をめぐる)
このたいせつな楕円軌道、靴先に湖水も滲んだ

月曜、脆くあなたがささやいたのは、……if?
銅板の闇を疵つけるように、囮の小鳥の、ように
すると顛末を弄ぶてのひらで、孵る最後の光があった
ナナカマドを七度訪い、絶えるつむじ風があった

あれもこれも、鉄筆の刻み目から腐蝕してゆく
(草地でタクシーを降り、手を振った人影も)
筋かいに、記憶の泥濘のかがやくのなら、……もしも
凍りついた蝶のうかぶ、夜の水が、……底なしに深いのなら



四行四聯、定型感覚のある詩篇といえるだろう。
第四聯、最後の二行が素晴らしい。
仮定節、語尾の「なら」の並列によって
詩世界が並行性と不安定さを相俟って浮遊する感覚がある。

主体は枯葉舞う晩秋の路地に踏み迷っている。
愛に失敗したのは確かで、それが踏み迷っている理由だろうが、
蹉跌の具体は、魂の秘密保持のため描出されない。
ただ、国構えのなかに「化」の「囮」の字によって異変の感覚が伝わる。
囲った対象は囲ったその唯一事によって
ただ「化成」してしまう――この生の残酷を主体は知らなかったのだ。

季節推移の終焉まぢか、主体は
囲われた過去が「最後」にさらに孵化し輝く可能性に心を奪われている。
この想念が「もしも=if」という仮定を祈願するのだが、
第一聯二行目を遡行する効果はそこで出てくるだろう。
この「if」は世界事象の現れに、すでに組み込み済なのだった。
それで詩篇は最終的に、世界肯定性へとつながってゆく。



ただしこの『ステーション・エデン』では
このように明快にとりあつかえる詩篇が
前作『十字公園』に較べ減少している。
詩篇中の構文が長大化・複雑化し
意図的に言葉の運びに冗長さ・重たさがまとわれているのだった
(それと、ルビの使用も減少した)。

構文はどこかで過重部分をもち、折れそうになっている。
「という」という同格の不恰好な濫用により、関係節も輻輳する。
この感触は稲川方人における『聖-歌章』の文体変化と相即だ。

そしてそういう素地があるからこそ詩行の運びの一瞬が電光化し、
捉えがたさの印象の残存によって再読誘惑をあたえられる。
そう、稲川的ないかめしさ(の魯鈍)を杉本徹はぎりぎりで回避し、
抒情の不安定に復帰するのだった。

詩篇「走り書きの炎のように」のなかに
《わたしが希うのか、希うのはわたしではない》
というフレーズが間歇反復される。
これは希望の不在をいう修辞ではなく、
「わたし」起源でない希望がすでに先験的に世界にあふれている示唆だろう。
このとき「わたし」は希望の実在によって逆に「無化」する。
こういう慎ましさがあるから杉本詩には再読誘惑性があるといえる。

意味/非意味のあいだを明滅する詩行を
次々に解読するのは手に余る。
逃避というわけではないが、
以下、杉本的詩行の輝きをたんなる列記の束にしてこの小文を終えよう
(出典詩篇名の明記は省略)。



やがて薄紫のセーターにくるまれた、この一羽の鳥のために
鳥の、錫の心のために



ふと、果実をすら一個の牢獄と、呼ぶ、呼んでみる



わたしが植えたイデュメアの樹は
音のない天体に揺らぎ
……いつか人影のような昼を告げるだろう



寒冷地で売られる惑星の花が、ときにララと吹きこぼれる日を
路面の光輪を踏むことで思い出す――



しんじつ場末の銀幕に映る永遠もどきの、青など知れている
ふいに西陽ひとさじ、露店で購った濃いコーヒーにうかび
微笑もまた暮れてゆく崖と知った



いつも、いつまでも
此岸では澄みきった残酷な遠近法が、痛いくらいに懐かしいので
それは割れそうな時刻を水の遥かさで満たすので
朱の、記憶に打ち上げられた舗石、舟板、……
そこだけがたしかな約束であるように、足を鳴らして



不意の光は、暗転と消失の境界に息づいたまま
川の流れを人さし指ほどの幅で(絶えることなく)示唆してゆく
水には水の、相貌というものがあると
迷うなら時間に、と



地平をさえぎる風景は恒星に曳かれつつ、流れ
いつか地を鋭角で截るビル影に、光年の谺をかえすため
わたしの一秒を、翔ぶものの骨となす――



「ひとすじ――腐りゆく果実のしずく、秘めたナイフをつたうと。やがて
時間の檻で、鶸の秋も啼くと」
古い歌はくりかえした、くりかえしわたしは信じた



地下水は手すりを遡る



飛び石を踏んで、きのうへ翔んだオナガは
遠い小駅の窓からなら見える
反故のようなかがやきが見える



暗い廊下の歌わない窓が濡れる
だから一瞬だけ降下する鳥の群れの思惟は、いまも美しい
崖下の蛇口から空だけが、いまもしたたり
点々と……、まみどりの音の群れは一滴の、この昼を満たす
一滴の、まひるのがらんどうの言葉を満たす



あれがセタガヤのスギナミの、夢のように入り組んだ抜け道



真冬の射し入る文字盤に針の、ようにふれた指は
そのまま語らない――
表情もなく別れ
やがてうつむく雑踏の涯てで
風になる人もいるだろう



舌の痺れる酒に朝が、射し入ると
そんな光の縞模様もまた記憶ほどに狡猾で、甘く
人は置き場のないアリアを、掌からそっと放つのだ
 
 

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2009年11月05日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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