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不調 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

不調のページです。

不調

 
 
先週は「ユリイカ」へ入稿、
読書生活が戻ったタイミングで
女房が映画見本市から帰国したのだが、
以来、感覚としてはずっと不調が続いている。
時差ボケ振休の女房とは金土日ずっと一緒にいたのだけど。

早い時間に晩酌して早寝をすれば
ふつう未明に起き出して
詩なんかも書くのだけどそうならない。
詩想が妙に枯渇しているのだった。
かわりに積ん読本に手を出すのだが
これまた気持があまりフィットしない。
詩語満載の美しい女性詩集なんかを読むと
能天気だなあ、とかなりつよい反撥を覚えたりしている。
こんなものが好きで
詩の世界に俺は舞い戻ったわけではないのだ、と。

してみると先週半ばに読了した
稲川方人・瀬尾育生『詩的間伐』の
後遺症も大きいのではないか。
実作者実感を真摯に繰り広げ
詩作の現場に精密に切り込んでいった感のあるこの本だが
読後、この本の「弱点」もじんわりと浮かびあがってきた。

時評対談にしては毎回とりあげる詩書の数が少なすぎる。
結果、詩作の趨勢変化が迫ってこなかったという憾みもあるが
(つまりのちのちゼロ年代を調査するのに
この本はほぼ役立たないだろうということ----美点は別にある)、
やはり二人の「生真面目な」資質により、
「しなやかなもの」への注視に
物足りないものを感じ続けたのだった。

下村康臣、あるいは杉本徹、飯田保文、さらには藤原安紀子など
応酬が軟らかくなるべき対象がとりあげられていても
結局はそうならない。
下村康臣などは言及する詩篇に誤りもしくは偏奇があるとおもった。

ゼロ年代詩は90年代詩と同じく
依然、80年代詩に萌芽した詩風の継承と反撥とに
位置づけられるとおもっている。
ライトバース、私性、女性詩・・・
それらが男性詩にも織り込まれ詩が武装解除される流れと
厚顔無恥に難解と拒絶と恫喝を貫く流れ、
このふたつがずっと輻輳を繰り返しているのだった。

後者に加担しない流れは事実上、顕著になりつつある。
だから僕などはゼロ年代、詩作を再開した。

たとえばふたりの対談によって
萩原健次郎さんの詩的ピークが90年前後にあると
中間結論が出る。
その是非はどうでもいいのだ。
しかしその中間結論の「意味」は考えられるべきではないか。

あれだけ語感がするどく対象攻撃力があって
なおかつ拉鬼体の改行詩篇が得手だった萩原さんが
私性に閉じたのか、マニエラに陥ったのか
そのことを検証すべきだろうとおもう。

私見では、関西圏特有の詩性というものがある。
90年代は永田耕衣なども現役で、
その磁力圏で萩原さんの活動も考えるべきなのに
稲川・瀬尾の二人はそうしていなかった。

中央的という難詰とともに
男性的という指摘もできるだろう、二人には。
井坂洋子『箱入豹』が俎上にのぼせられる。
精密さにおいてこの上ない詩集という意味で
二人の意見は一致していたはずだが、
あたかも「この精密さはわれわれの欲するものではない」と
いいたげな表情が紙面から感じられた。

これは何だろう。肝腎なことがいわれていない。
『箱入豹』は「わからない詩篇」が多いのだ。
「わからないのに」「魅力的で」「しなやか」なのだ。
音韻、あるいはその逆の散文性、どちらにも
井坂洋子独自の加工が加わっている。
このことを語る勇気がじつはふたりにない。

ふたりは大魚を獲り逃してもいる。
倉田比羽子『世界の優しい無関心』。
当該行を読むうちに前行の印象が溶出してゆく詩法によって
詩の権威性が倉田にあっては除外される。
音韻感覚がまずのこり次いで引用出典などから文学的喜びが来る。

つまり当時書かれつつあった稲川『聖-歌章』とは
形式的に似ていてもちがうものが書かれている
---そういう分析がやはりないのだった。
ふたりは形式の分析には拘泥しているのだが。
あるいはこの詩集の芯を掴むことは不可能ではないかという
瀬尾の予感も写ってくるのだが。

そういう女性詩の最も重要な場所を
批評的に流産することで
『詩的間伐』の性質が
倫理書めいたものに定まってしまったとおもう。

二人がスルーしたゼロ年代詩の特質とは何なのか。
ひとつは廿楽順治や中島悦子などに代表される
多元的なポップ詩だろう(田中宏輔をここに加えてもいい)。

もうひとつは杉本真維子や藤原安紀子に代表される、
女性詩の厳しい「縮減」ではないか。

前者を導いた80年代詩・90年代詩の流れのひとつが
たとえば萩原健次郎や貞久秀紀だったとすると
後者を導いたのが川田絢音や中本道代だったということになる。
そうした重要な名前を稲川瀬尾はまともに口にしていない。
女性詩については頓珍漢な固有名を挙げることが多いとおもった。



話をもどす。先週後半が不調だったという話だった。
女房が帰ってから最初は録画済TV番組を見まくった。
大収穫が『笑神降臨』での2丁拳銃。
「ちょうどエエ」がいま最高のギャグだ。
『行列48時間』が面白いのは自明。
あと『クローズ』をスボコンと香里奈によって好んでいたりする。
一部で評判の新しいNHK土曜ドラマは
(『系列』『バブル』なんかがあって元々大好きな枠)
まだ録画してあるだけだ。

昨日になってようやく不調脱出の兆しが出たかなあ。

懸案だったポン・ジュノ『母なる証明』をようやく観にゆく。
出だしの芒原で母キム・ヘジャがゆるやかに
しかも猛烈な悲哀をかもしつつ踊っている(その奇妙さ)。
その芒原に画面が復帰してから以後、
シーン、カット、すべての流れを記憶に永遠にやきつけたいほど
展開が見事だった。
ラストショットの何という逆説的素晴らしさ。

ネタバレもからむし、とやかくはいわない。
ただポン・ジュノはいつも韓国的な醜さを露悪的にしめす。
それでいて「愚」の逆転力にかならず映画を結びつける。

ポン・ジュノのように撮れる、
潜在力をもつ日本の映画監督はいるだろう(誰とはいわないが)。
ただしタランティーノ『イングロリアス・バスターズ』のように
撮れる映画監督は「絶対に」日本にはいない。
映画プロデューサーはそうした端的な事実から
製作発想を開始すべきだろうとはおもう。

昨日は天皇即位20周年記念で新宿御苑が入場無料だった。
菊祭りもやっていた。ごったがえしていたの何の。

そのあとジュンク堂へ女房と。
女房は旅行書を、僕は建築書から落語書から美術書まで
雑多な本を買った。
気がついたのだけど詩書・俳書・歌書の棚には
買いたい本が「ほぼ」なくなってしまった。
しゃぶりつくしたのだ。それと何かにうんざりもしている。
ならば以前のような多彩な読書をするまで。

詩のことでいうと先週届いた詩集礼状で
峯澤典子さんのものが嬉しかった。
詩集最後のパート「春ノ永遠」を適確な言葉で絶賛していて、
「わが意を得たり」とおもったのだった。

実は先週、歴程賞の会では浜江順子さんに
最初の「フィルムの犬」はいいけど
あの詩集はだんだんへばる、といわれ、腐っていたのだった。
僕はだんだんよく鳴る法華の太鼓のつもりでいたので。



今週は以下の二点で忙殺される。
・「文学極道」選評執筆
・新座(立教)の映像コンペの事前審査

どちらも若い世代への接近、ということになる。
首が回らず、日記を書かないかもしれない
 
 

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2009年11月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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