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犬・草・猫 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

犬・草・猫のページです。

犬・草・猫

 
 
昨日は虎ノ門から銀座にかけ
いろいろ用事があった。
移動はスムースだったが
あいだの空き時間が多くて
ドトールに這入り替え、這入り替え、
ずっと本を読んでいた。
おかげでコーヒーも計五杯、飲んだ。

読了本は二冊。
やがて手持ち本がなくなって
銀座のブックファーストへ行き、本の補充。
けっきょく前々から気になっていた
グラフィックデザイナー松田行正の本を買う。

08年3月、NTT出版刊『和力〔わぢから〕』。
デザインの日本性を多元的に考察した本で
見出し語ごとに項目分けされている。

それが何か
「歳時記」を読んでいるような刺激を呼んで、
結局、懸案だった
「かいぶつ句会」50号記念号のための
句作までドトールではじめてしまった。
できた句は小さな手帖に、くちゅくちゅ書いた。

今回の「かいぶつ句会」の特集は「見る俳句」。
例の横長変型判の冊子で
見開きスペースをあたえるから
そこで絵でも写真でもヴィジュアル要素をかませ
視覚連動した句をつくれ、というお達しだった。

最初僕はカリグラフ俳句を構想していた。
字で図形をつくり
その角を句頭と句終わり、同じ字で一致させるみたいな。
しかし気合が不充分。
で、結局、画像に句を当てることにした。

月曜日、研究室にいた三村京子に相談する。
「あんた、絵を描くか」。
けれども三村嬢は書棚にあった
松本人志『松風96』(書名、正しいか?)を取り出し、
そのなかの犬の写真を指差し、
これで句をつくったらどうですか、という。
そんな乱暴な提案にのってみようとおもった。偶然は大切だもん。

この『松風』は忘れてしまったくらい以前に
古本屋で購入したものだった。
彼の「一人ごっつ」ライヴの副産物だとおもう。
つまり例の「写真で一言」に使用した
写真素材集(結果的に写真集)ではないか。

ただし松本の「一言」は印刷されていない。
もともと二巻セットだったのかもしれない。
奥付裏には古書価格のシールが貼ってあって
僕は百円でその本を購入したとわかる。
たしか三鷹の古本屋だった。

松本は、瞬発的にスライドで拡大提示された写真に
「見立て」を加え何事か一言を語る。
それが動物写真の場合は
それをマンガひとこまと見立て、
「フキダシ科白」を「成り切って」語ることもある。
当時の彼のクレイジーな「没入」は
本当に素晴らしい運動神経で、
しかも俳句の俳味もあったのだった。笑えた。

犬の写真は人面犬。
無加工ながら、おっさんのように与太っている。
その写真にあわせる僕の俳句は
往年の松本の「一言」をなぞるようであってはならない。
ズレのズレ、が必要だった
(何しろ俳句はそれ自体がひとつの画像になりやすいのだ)。

で、僕はその犬を名倒れするような「菊紫」と名付け
犬のいる海を、秋から冬の野に置き換えて
その死までの六句を一気につくってしまった。
爆笑ではなく微笑を誘うズレがそれで出て
しかもなおその見開き頁では画像のズレが
メタレベルで演出されるはずだとおもう。会心の出来。

どんな句ができたかはいま書かない。
縁のあるひとには「かいぶつ句会」のその記念号を手渡ししよう。

ただ、以下だけは書いておく。
先述した松田行正さんの本、「方(ほう)」の項目はけっきょく
「まんだら的なもの」の考察に費やされていて、
しかもその観念連合がじつに過激だった。
じつはそこから着想をえた。
遠く鳴り響いていたのが
例の安井浩司の名吟、《犬二匹まひるの夢殿見せあえり》だった。



昨日は帰るとネット注文していた
松岡政則さんのH氏賞受賞詩集『金田君の宝物』が届いていた。
これは古本サイトでは高値がついていて
やむなくはじめてアマゾンに加入、
その安値本をオーダーしたのだった
(書肆青樹社という版元なので、03年刊でも書店で見たことがない)。

その後の松岡さんの詩篇よりも青春の匂いがつよい。
彼はある限定地にいる。
その感慨を詩篇にする心意気がここからつよく響いてくる。

場の象徴になるのが「草」。
この「草」は今年の詩集『ちかしい喉』では「艸」と表記され
より抽象的な奥行きを獲得するようにもなった。
もともと「草」はその限定集落の伝統的な生業に関わり、
むろん景観にも関わる。

しかも「詠草」などという言い回しを考えれば
「草」は言葉でもあるだろう。
こうした「草」の多元性に向け、
松岡さんの詩はずっと深度をつよめているのだった。

その限定地を「あるく」松岡さんの感慨が
誠実につたわってくる詩篇を紹介しよう。
のちの彼の歩行詩篇の原点にあたるようなもの。
松岡さんは動詞の名詞化という必殺詩法をもっているが
この詩篇では「歩く」はまだ括弧のなかに鎮座して
文法破壊的になってはいない。



【それはもう熱のような「歩く」で】
松岡政則


この頃「歩く」が気になる
「歩く」ばかり考えている
ぼくの「歩く」は保護区域に収容された飼い馴らされた
 「歩く」ではないのか
土からどんどん遠くなって
もうどこにも帰れない「歩く」ではないのか
ときどき他者の熱がする
ペタペタと恥ずかしい音がする
それでも「歩く」でしかいっぱいになれない事があった
「歩く」でしか許せない事があった


児童労働の空にも繋がっているのかそれでも真っ青い夏
 の空だ
公園の土手の斜めから
突き上げるようにツクツク法師が鳴いている

遠い日の濃い緑を抜けてきた「歩く」
あなたの事がみっともないくらい好きだった「歩く」
ぼくは「歩く」の本来の在りようを
「歩く」の少し前を考える
母の母の
そのずっと昔の母の「歩く」のあとを
ぼくはこっそり追尾〔つけ〕てみたくなる
〈走り〉や〈逃散〉の野っ原まで
〈一向一揆〉のあとの〈身分貶下〉の空まで
〈南無阿弥陀仏〉〈南無阿弥陀仏〉
ぼくはどうしても歩いていかなければならなくなる

怒りまくるだけの「歩く」があったような気がする
どこかで約束した「歩く」があったような気がする




わかるように、空間歩行がいつしか時間歩行にすりかわる。
しかも「被差別製造」のひとつのポイントに思いが伸びる。
一向一揆の参加者のうちの一定割合が身分貶下に遭ったのは
敗走後の雑賀衆を、被差別民に固定した歴史の罠と同じ。
往年の柄谷行人が中上健次論にあたり
とりわけ強調したポイントでもあった。

詩篇中で「アッ」とおもうのは、「母の母」という修辞。
「母の母」「母の母の母」と女性性を遡行していったとき
(歴史の)(液状の)闇に逢着すると語った
『エロス+虐殺』の岡田茉莉子が念頭に置かれてはいないか。

それでも松岡さんの詩は「歩行」の劫初の爽やかさ、
同時に、その心許なさを、
最後の二行、複雑な感慨でつたえてきて
眼がうるんでしまう。
「気がする」の措辞が良いのだ。
岡田茉莉子の巫女的なつよい託宣とは真逆の位置の選択が良いのだ。

松岡さんはともあれ自らの生を
喩法にかけ、そこにさらに抜群の音韻化をほどこす。
とはいえ詩心の出立がそうであれば
ドキュメンタルな芯も詩篇読解にのこる。
そうなると、彼の詩集は「順に」「編年で」読まれる必要が出てくる。
「現代詩文庫」に入らないだろうか。
僕はまだ彼の第一詩集を読んでいない
(このあいだの『詩のガイアをもとめて』で
野村喜和夫さんがその第一詩集を論評していた)。

そういえば、現代詩文庫に入ってしかるべき詩人は数多くいる。
そこにこそ70年代以降の「現代詩」を
読み替える文脈も新規に形成されるだろう。
思潮社の編集者も真剣にならざるをえないはずだ。

僕がいまおもいつく現代詩文庫登用候補は
松岡さんのほかはだいたい以下だ。
泉谷明。河野道代。中本道代。倉田比羽子。西中行久。
下村康臣。萩原健次郎。貞久秀紀。小島数子。
(ほかにも名を挙げるべきひとがいるでしょう。
たとえば廿楽さん松本くん高塚くん、何かリクエストありませんか?
亀岡さんには、「みんなで」かけあってみたいものです)

そんななか詩集単位で読みたくてたまらない
女性詩作者がもうひとりいる。
海埜今日子が、もしかすると浜江順子も
「僕に読め」と薦めた支倉隆子がそのひと。

海埜今日子が同人誌「ヒマラヤ」に発表した散文に
その支倉さんの詩篇「夢の虎」が部分紹介されていて
それを読んで以来、僕は一種、「狂恋」状態になってしまった。
孫引き引用してみよう。



【夢の虎】(部分)
支倉隆子


結びめというむすびめに
虎のおもいでがまぶしい。
虎の時間は虎に食われて
まだゆれている和毛〔にこげ〕を
虎のひとみの底に沈める。
この熱い塩にしずんで
それでも泳ぎつづけたい
虎がわらえば浮かぶだろう
対岸のながめは
笑うおとこの口のなかだ。
ことばと木の葉がもつれて
言葉でその色どりを言いつくせない
あたらしい旋回のゆくえだ。
虎といっしょにまわるだろう
振りかえりたくなくても
とおい水仙畑は焦げている。


〔※『詩集 音楽』より/75年、黄土社刊〕



支倉さんというひとは俳句につうじているかもしれない。
この一篇の奥に富沢赤黄男の名吟
《爛々と虎の眼に降る落葉》をどうしても感じてしまう。
季節はちがうだろうが。

あるいは草森紳一の虎縞のデザイン考察集『だが、虎は見える』(75)、
その第一章は現代詩作者二人の「虎の詩」と
李賀の「虎の詩」から開始されたのだが、
そこらあたりにもこの支倉詩篇の意識があるかもしれない。

草森さんが紹介したものを順に下に紹介してみよう。



【虎】(部分)
白石かずこ


私の意志の中に虎が生える
バケツが生えるのと同様に
風が生え
街が生え その街にビルの眼が
空しく 空ののどにむかって生えるように




【虎】(部分)
長谷川龍生


虎よ
恐怖王の使者の中の
たった一匹の勇者
赤外線の虎よ
てれくさくねむっていた内気な心臓
よごれたむしろをかぶっていたニヒルな毛皮
牙ばかりをみがいていた自虐の名誉
その虎が いま おれを喰いやぶり
獲ものめがけて 太陽への道をはしる
虎 はしる
虎 はしる
すべての色あせた獲ものの世界
虎 はしる




こういう達成があって、
支倉隆子の詩篇ではさらにそこに強圧がかかり、
「像」も「述懐」も複雑に乱れていったのがわかるだろう。
それで上述した「狂恋」に陥った。

矢も楯もたまらず、小池昌代さんにメールする。
「もっていない? 貸してほしいんだけど」。
小池さんは「大好きな詩人で、深川の実家に
全部の詩集が揃っているとおもう、ちょっと待ってて」
云々と返事をくれた。

そうか、たぶん小池さんの初学時代にも力を及ぼした詩作者なのだ。
小池さんの20代がどういう実質を帯びていたか
何かすごくリアルなものも返事からは伝わってきた。



上で、草森紳一について書いたついでに。

今日午前、東京新聞文化部(書評欄)から速達がくる。
お馴染み、「年間三冊」の原稿依頼だった。

一冊はすぐに決められる。

その草森紳一の『中国文化大革命の大宣伝』(上・下)だ。
該博な中国学の知識、「人民日報」への強靭な調査力によって
歴史の影に沈んでゆこうとする文革の局地・動勢・方法・運命変転が
手に取るように眼前に現れて、興奮はかぎりなかった。
メディアリテラシーの先駆本でもある。

草森さんの死後は、生前彼が手入れをしないままだった
雑誌連載文が続々と刊行されていて嬉しいかぎりだが
いまのところの真打は芸術新聞社が採算もかえりみずに出した
この文革本だろう(ナチスを扱った『絶対の宣伝』四巻本の続篇でもある)。

対抗するものが今後出るとすれば
「文学界」の気絶的な連載、副島種臣論と
「詩手帖」の往年の連載、李賀論だろうか。
篠山紀信論もあるはずだし、
「クイック・ジャパン」連載の自伝〔未完〕もあった。

のこり二冊のうち一冊を何かの詩集にするとして
もう一冊がまだ決められない。
『カワイイパラダイムデザイン研究』を入れたいのだけど
東京新聞の書評〔11月8日付〕に書いちゃったしなあ。
じつは詩集以外は旧い本ばかりを読んで手薄なのだった。
そうそう、出版ラッシュの松田行正さんに
今年刊行の本はないのだろうか。

――ということで、とりあえずは松田『和力』のつづきを読もう。
 
 

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2009年11月25日 日記 トラックバック(1) コメント(0)












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