野村次郎写真集・遠い眼
昨日は女房と等々力~自由が丘あたりを
ウォーキングした。
じつは尾山台は小学校二年三年に住んでいた。
そのころの住居「尾山台コーポ」は
立て直されたものの同じ区画に建てられて
往年のおもかげを残している。
近所で大好きだった「竜造寺さん」の家も
いまだに立て直されて残っていた。
九品仏の紅葉黄葉は、来世のようにきれいだった。
自由が丘のチゲ鍋定食屋「コチュ」も美味だった。
自由が丘では、20代カップルのように店を冷やかした。
往年の慶応生は、自由が丘にはよく立ち寄ったものだが、
もう30年以上前のことで
餃子センターのある、あの長細い建物以外、
ほぼ町並みが変わってしまっている。
学園通りをかなり進んだ「モン・サン・クレール」で
ケーキを買う。
店の売り子がみんな可愛くて聡明そう。
ケーキを売るのに最高の顔をしている。
駒沢公園からは恵比寿行きのバスに乗った。
このころになって空気が冷えた。
帰りに松田行正の本を買うため
新宿ジュンク堂に立ち寄る。
そこでフッとみつけたのが、
野村次郎というひと(72年生)の
『遠い眼』という写真集だった。
第七回ヴィジュアル・アーツ写真賞受賞作品。
オビ表、森山大道の推薦文に惹かれ開いたら
一目ぼれの状態になってしまった。
写真一点一点に日付がある。写真集空間では
その時間軸はシャッフルされているが、
「私のみたもの」「私の行った場所」「私の家族」
「私の恋人」「私の結婚」など
撮影者を取り巻いている現実が徐々に判明してくる。
そうつづれば、大橋仁のかつての傑作写真集、
『目のまえのつづき。』を想起するひとが多いかもしれない。
しかし大橋のそれは父親の割腹(自殺未遂)、
恋人を取り替えてのハメ撮り、
鯉、日本海の荒い波濤、紅白歌合戦の画面撮り・・
など、展開が劇的要素にみちていて、
だからこそ冒頭、蛍光サーベルを振り回す
大橋の連写自写像から写真集も開始されたのだった。
野村はちがう。
まず「彼自身」は結婚式の記念写真として
ようやく写真集空間に気弱げに顔を出す。
しかも事件が起こらない。
恋人「茜」ちゃんも脱がない。慎ましげな一般人にすぎない。
野村が出没する場所も
大橋の浅草のように有徴の場所ではなく、
秩父~坂戸近辺、どこともしれぬ林道、
上流すぎてそれとはみえない多摩川など
「それ自体が消え入りそうな場所」ばかりだった。
多摩川の川底に沈む自転車。
川底の泥がまつわったそれは車輪のかたちのみを
あらわにしている。
その次、脈絡なく
白髪が焔のように周囲を噴き上げている祖母の耳の、
ウルトラ接写の写真が続き、
その写真がさらに拡大トレースされたものが反復される。
(泥)煙、漸減消去を約束されてしまった儚いもの、
あの世に近づきつつあるものらの異相・・・
野村の「遠い」眼はそういうものに固定され、
異変を予感し、破滅におびえる。
静かにものにのみ「徴候」が見出される。
詩でいえば高貝弘也のような資質かもしれない。
すべてモノクロで、
丁寧に焼付けしなければ成立しない繊細な質感の写真群だが、
野村の撮影行為は現像行為とかならずセットになっていて
焼きあがってくる印画紙も
糸状の霊性を噴き上げるようすべて調整されている。
芒のゆれている山腹が剥落しそうになっている。
崖崩れ防止措置の林道の山肌が波打つようにゆがみ、
またガードレールの湾曲が、
規則曲線のヘンな幽霊性という概念とつながってしまう。
そうおもっていると実際に崩れた林道があり、
火事のあと黒焦げになった土地もある。
眼路前方、林の木立は、そのまま黄泉のようだ。
あるいは彼の見下ろす川面も黄泉のようだ。
何かそれらはみな「糸」に関連していて
一枚の紙なのに「紡績的な」厚みをもっている。
薄暗いのに眩しい。そして奥が怖い。
そうおもっていると昼寝ばかりをしている楽隠居の父も
皺だらけなのに輝く肌をもつ祖母も
みな「生きながらの黄泉」にみえてくる。
撮影行為に特有的に付帯する消音によって
物事の実相が減算的に捉えられ、
それらの正体はみな「減少の一休み」なのだ。
しかし野村の眼は「減少」という残酷ではなく、
「一休み」というわずかな安心のほうに
実際は向かっていて、だから写真群はほの明るい。
埼玉県西部あるいは北部特有の「土地柄」もあるだろう。
僕は松江哲明の『童貞をプロデュース。2』を想起した。
クルマでなければすべての移動がままならない
文明上の僻地(街道=ロードサイド文化しかない
----しかもチェーン店ばかり)。
それを考えると野村の撮影行為も実際は
クルマでの移動に負っているはずなのに、
自らのもふくめ、すべての自動車は画面から消去されている。
それでこの野村次郎が
「土地から何を抜いたか」が
象徴的にわかるだろう。
素晴らしい写真集。
つまり「われわれ」は質感を見て、
その質感という、実質のわからないものにこそ
魅了されてしまうということだ。
それは「われわれ」の幽霊性の証。
質感は模様としても現れる。
野村が継起的に捉える、窓外の光景。
あるいは木立の影が
まるで「上映されたような」障子表面。
物事に表面があり、表面化が起こることの魅惑と恐怖。
それを考えると野村は
自身の写真のみならず
メタレベルの「写真自体」をも
付帯的に浮上させていることになる。
う~ん、この写真集、
東京新聞の「今年の三冊」の候補だな。
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「ユリイカ」タランティーノ特集の拾い読みは
前々日に終わっていた。
とりわけ蓮実-黒沢清対談に倦む。
相変わらずの、口調のシニシズムの応酬。
タラちゃんへの愛は、自分の目利きと対になる構図のまま。
だからずっと逼塞を感じる。
「突き抜けた発言」「対象を本質的に射抜く言葉」が
どこにも見当たらないのだ。
そんななかでキーワードが「才能」「育ち」になる。
つまり19世紀の精神的貴族性が反復されているにすぎず、
21世紀的倫理がどこにもなかった。
いま誰がこんな言い方で、
自分の好きなものを語っているというのだろう。
この二人はもっと周囲を見回したほうがいい