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ポップ詩と音楽性 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

ポップ詩と音楽性のページです。

ポップ詩と音楽性

 
 
昨日のあつすけさんのmixi日記は
途中までエズラ・パウンド『詩学入門』からの
怒涛の連続引用だった。

この本は大学生時に高橋睦郎さんから
「読んでみては?」と薦められ当時早速読んだ記憶があるが、
まだ若年だったので真摯さに打たれなかったとおもう。
今回あつすけさんの適確な引用によって
すべてパウンドの言葉が腑に落ちてきて納得というか感激した。
自分のもっている詩観が反映する悦びを覚えたのだ。
書棚裏のどこかに
白い表紙が煙草の脂で真っ黄色になって眠っているはずだ。
探し出して再読しなくては・・・

あつすけさんの引用で
パウンドが詩と音楽(歌)との
必然的連関を語っている箇所があった。

詩が音楽の状態を夢みる、というだけではない。
ふたつは本来的に、論理上不可分なのだ。
これを僕の言葉でいってみると
詩の言葉は配合・展開ともに
伝達性を超えた喩性をもっていて
この機能から、詩は論理の外側に自身を音楽化する。
そのときに言葉の物質性を逆にあらわにする。
まずはそうして「世界」の様相と喩的な同調をみる。

採譜しうる音楽は単位加算性をその本質にもつ。
ある律動があってそこに音色や旋律や和音が嵌められる。
しかもこれも伝達性ではなく感情の喩として達成される。
歌ならそこに言葉も乗っているが
その誘因もまた、歌を支える音楽だけによっている。
とすると、詩もまたみえない音楽に乗った、
そしてその音楽によって輪郭を曖昧にされた、
歌詞のようなものだという理解がえられるだろう。
土台を欠き、音楽をもとめてさまよう歌詞。

思考は伝達を旨とする。
だから音楽や詩のように
間接的に世界構造をつたえるものを本来的に倦厭する。
ところが詩や音楽においてこそ
細部が衝突し、カラフルな火花が散り、
その火花も実際は刻々消えることで
火花だったと事後認知されるのだろう。
火にして水のながれのようなもの。

詩では隣接予定性によらない言葉が
衝突型でひしめいていて
実際は言葉の権能を拡張している。
世界の拡がりのように詩がみえるのはそのためだ。
時間なのに空間なのだということ。

これが愛唱されまたは再読されて、
ついに受け手の身体と思考にまつわる逼塞も溶解する。
となると詩や音楽の要件とは
第一に世界性の慰安にあるということにもなる。

音楽とは「音楽場」なのだ。
そういう実定性があるから再生誘惑が起こる。
同じようなものが「詩場」でも形成されていて
おおむねはそれが「詩集」のかたちをとる。
一方、「音楽場」の法則は音楽、
「詩場」の法則は詩だと明瞭にいうこともできるだろう。

僕は価格・再利用頻度・減価償却の諸局面において
よく詩集とCDのアナロジーを学生にいう。
何度も聴くことで「展開」がすべて自分のものとなり
音素まで完全記憶化された
数々の名盤がじっさい個人的にある。

ビートルズ『ホワイト・アルバム』、
ニール・ヤング『アフター・ザ・ゴールドラッシュ』『ハーヴェスト』、
ザ・バンド『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』『ザ・バンド』、
フランク・ザッパ『フリーク・アウト!』~『200モーテルズ』、
ジミ・ヘンドリックス『ボールド・アズ・ラヴ』『エレクトリック・レディ・ランド』、
エリック・ドルフィ『アウト・トゥ・ランチ』『ラスト・デイト』、
スラップ・ハッピーの全アルバム、等々・・・

僕の詩が得たいとおもうのは
あれらと同等の組成であり、
あれらと同等の20世紀的な作品性だったりする。

そこに歌い手がいれば肉声の感情と唯一性を憧憬する。
言葉をドルフィの楽音のようにあやつって
それを断絶にみちた抽象的展開にすることだってできる。
そこからは言葉の連続性に脱臼的な衝撃もあたえうる。

いずれにせよ、音楽のように時間軸に
身体の幻影を散らしてゆく営みがあって、
それらではどの瞬間的連関を単位的にとりだしてみても
音楽的精神でしかないものが息づいている。

つまり「全体の音楽」を「細部単位」で除算しても
いつも「音楽精神」が解答として出てくるような「帯」。
その無限の入れ子状態は空間形式的には「罠」とも映るが
同質物のひしめきによって「別のもの」が現じているのは
世界そのものの形式であって、
これこそを音楽の形式とも呼ぶべきなのだろう。
詩と音楽の類縁とは、まさにこの次元で語られるべきなのだ。

換言すれば、音楽は音楽となるとき音楽化している。
あるいは音楽は音楽としてのみ自らを奏でる。
このトートロジーはそれでも無空間なのではない。
つまり音楽のそれ自体とはいつも上の空、気散じのような、
「別のもの」なのだから。

これを感知すると音楽は時間的形式であるとともに
夢想的な空間形式だということがわかってくる。
詩はこの形式こそを音楽と共有している。
だから詩句発想が音楽的であれば
詩のすべてが是認される、という意味でもない。

昨日は夕方から(食事・就寝を挟んだ)未明にかけて
立教での椎名林檎講義のため
彼女の07年以降のアルバムとシングルを聴いていた。

作曲能力には相変わらず驚嘆すべきものがあり
またアレンジも曲ごとの色彩化を貫き
ときに豪奢で、恍惚ともさせるが、
歌詞以上に、発声・発語に痛ましい摩滅を感じる。
初期のころの日本語の歌の変革意識を置くと
現在のモチベーションが消滅しはじめているようなのだ。
自己防衛的になっているのは否めないだろう。

唯一の例外が09年の日本の宝ともいうべき「ありあまる富」。
そこでは林檎の個人性を超えた立脚がなされ、
結果、諸個人を賦活する歌の表情が慎重で敬虔になっていた。

ポップ音楽においては歌手の実年齢が
商業的モチベーションとなっているが、
「ありあまる富」ではその商業性の枠組が超えられ、
むしろ「人間的モチベーションを再形成するには
どんな配慮が要るか」が問わず語りされている。

「しかも」それは林檎の個人性を音楽面でも超え、
あたかもビートルズ・チューンのように響くのだった。
そこには歴史参照もある。
よって今年、何度聴いたかわからない。
「フリー・アズ・ア・バード」と比較聴取したりもした。
コードの陰翳と解決に同様の形式がある。

詩においてこの曲並みの再読誘惑性をもつためには
詩の音楽性が現代的に動機化されていることが必要だろう。
詩には肉声に還元できる部分と
空間に還元できる部分とが相渉っていて、
いわばその分裂形式がポップに受け手を魅了するのだ。
分裂が端的で、かつ時間的含みをもつ美学的形式であること。
たとえばキャプテン・ビーフハートのような。
この意味でのポップ詩にこそ
今後の詩作の活路があるような気がする。

昨日からようやく
「詩手帖」年鑑号中のアンソロジーも読み始めた。
辟易する詩篇は難解であっても平易であっても
すべて「自分のために書かれていて」、
再読誘惑性を意識していないとわかる。
「摩訶不思議」もなく、ありようが痩せている。

技術や野心だけが前面に出ているので、
そこにある詩作の技術は、読む技術と
逼塞的なトートロジーを描かせるだけだ。
没入できる「空間」がない。
むろん「肉声」も、ひいては「音楽」もない。

僕はいま「摩訶不思議」と書いた。
これを先ほどの言から「別のもの」と換言することもできる。
あまりにそれ自身の物質性である詩など
一旦読めば、達成感をもって「終わり」となるだけではないか。
それでは「わたしはおまえではない」だけが結論になってしまう。
むしろ「わたしもおまえもおなじでかなしい」、
これこそが詩の本義だろう。

今日は夕方から畏敬する詩作者たちと会う。
彼らのポップ詩にたいする見解をそこで聞いてみたい。
そして彼らが通常、「音楽」をどう捉えているのかも
 
 

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2009年12月18日 日記 トラックバック(0) コメント(7)

詩のことも、音楽のことも
しばらくは語らないようにして
詩のことと
音楽のことを語りたいね、と思いました。

エリック・ドルフィには、
単純に、音楽の留意された感情などは
捨てていかないと、彼は浮かばれないという
思いがあります、
ドルフィの呻吟は、彼のテクノなんですね。

かんがえてみましょう。
ドルフィって、一度も、抒情を吹いていません。
チコ・ハミルトンのコンボのときでしょうか。

ブッカー・リトルとのファイブ・スポットのときでしょうか。それともストックホルムの泣きたくなるほどの衰退したセッションのことでしょうか。

詩と音楽を、そんなに急速にぼくはたためません。たたむな、とも思います。

ドルフィは、コンボの人で、ジャズの文脈では、あまちゃんです。どれほど、あまい人かは、彼の死後、コンボ信仰から離れたジャズマンのことを考えてみましょう。

マイルス、コニッツ、アートペッパーなど
ドルフィは、それに比べてはるかに、のんきです。

だから、ぼくは、彼ののんしゃらんとした、音楽的評価に比してはるかに悲観的です。

ドルフィは、コンボの人だし、コンボという形態に甘え死んだ人です。

2009年12月19日 褄黄 URL 編集

きのうは、突発的にコメントを寄せて、今朝読み返してみて、あまりにも支離滅裂なのに我ながらあきれてしまいました。
ドルフィは、もっとも好きなジャズマンでもあります。でも、どうしても、ファイブスポットでのブッカー・リトルとのセッションの人とずっと思ってきました。
彼の音楽や存在が、その屈曲音において、詩との連関で語れるとは思います。
詩の評価軸として、再読を誘発するかということで、音楽との関わりを語られたことはよくわかりました。でも、音楽を為す奏者と詩を為す詩人とは、一旦、線を引いて考えたいと思いました。
再読という意味では、音楽性も重要でしょう。ただ他にも、そこに書かれている言葉の造形性なども関わってきます。
ポップ詩やネット詩では、この造形性がとても薄い。それで、どちらかといえば音楽性が濃くなっているかというと、そうではないように思えます。造形性の薄さは、詩書という書物と親和していないということと、口語への親和に傾いているということもあるでしょう。書くことと、本になっていく編むということや、様々な行為が介在して、口語はメタ口語へと変化してきます。あつすけさんの詩などは、方法において、口語が書物化される過程で変容し、口語でも音楽でもない、詩としかいいようのない、造形になってきていると私には思えます。

2009年12月20日 褄黄 萩原健次郎 URL 編集

萩原さん、コメントありがとうございます。

ドルフィはアルト・サックス、バスクラ、フルートと、
三種の楽器をあつかった境界者です。
抒情というよりその跨り、それと音楽素養の跨りにおいて
おっしゃるとおりアマちゃんだったかもしれないですね。

それだからこそ『アウト・トゥ・ランチ』で
バスクラの真の音色に到達し(雷鳴)、
「ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラヴ・イズ」で
フルートの真の音色(亡霊的喘ぎ)を獲得したとき
ひとが快哉を叫んだのだとおもいます。

もうひとつ、インプロヴィゼーションの能力は当然として
ドルフィの作曲が好きです。
暗黒のエレガンスがある。
結果論ですが、夭折者の視野を
あらかじめもっていたという印象すらもつ。

ファイブ・スポットのドルフィはその手前ですね。
天使的。
だからブッカー・リトルと翼較べ、翼自慢をしている。

ただブッカー・リトルが存在論的に怖い奏者でない点で
ドルフィもおおらかになっている。

ヨーロッパで信奉者のミュージシャンに囲まれ
コンボ的でない音楽をしいられて
ドルフィの馬ははじめて天翔けたのかもしれません



音楽との類推だけで詩を語った僕は
萩原さんのおっしゃるとおり暴挙ですね。

ただリズムが推進力をもたらし
詩行がスピードをえて
混ざるべきでなかったものが
混ざりだし、光芒化し
この光芒によって時間が空間になる。
その姿はやっぱり音楽と
弁別のできない詩の場所になるとおもいます。

というか、詩と音楽、
どちらが先験かというのも無意味。
「流れ」を口や手で創造することに
上古のどこかで突破口が見出されたのでしょう。

たしかにその流れをいまのメディア環境で
萩原さんのおっしゃるような造形性にまで鍛え上げるのは難しい。
可能性はないとはいえないけど
口語性へのだらしない依拠によって
視覚に雪崩がおこっているだけにみえる。

そのなかで田中宏輔は
造形性とスピードが綜合された
恩寵のように稀有な眺めです

ネット詩が萩原さんのおっしゃるような
造形性の必要に気づけるか、
そしてそれがネット的な造形でありうるかが
2010年代の詩の分水嶺となるかもしれない。

そうやって紙から詩が離れてゆく?

僕はそれでもいいとおもっているのですが
萩原さんは墨守されるべきものがあるという
意気軒昂なんですよね、たぶん

2009年12月21日 阿部嘉昭 URL 編集

阿部さん、応答ありがとうございます。
とてもよく理解できます。
一旦、音楽を詩の類似として対置して考えたほうが、見えやすいこともありますね。
なんどもそういう誘惑にかられます。
それは、音楽が、とくにジャズにおける即興性が、身体的な痙攣までもドキュメントする詩の為者の憧れだからと思われます。
阿部薫の音楽などを再生すると、この切実さはすぐに理解できます。でも、詩においてパルスのドキュメントはなかなか達成できるものではないですね。音楽に対してはいまだ、憧憬にしかすぎませんね。
詩は、つねに二次的三次的なメディアムな行為なのかもしれません。もちろんあきらめてはいませんが、その不達の精神は知悉していたい気もします。それが、いとも簡単にできるかのように「やってみせている詩」は、ぼくはあんまり信じていません。
身体的痙攣のドキュメントなんて、たびたび、さらには、言葉に翻案しながらできるものではない。不達の認識で狂者になってしまいます。一度できても、二度とできるものではない。ドルフィですらそうかもしれません。だとすれば、散文という台地に一度、メディアムな体躯を乗せて、試みつづけるという方法もあるでしょう。
いま、ラディカルな詩を書く人は、この方法のトートロジーに陥っています。地に落ちたり、台地に乗っかったり。

>暗黒のエレガンスがある。
結果論ですが、夭折者の視野を
あらかじめもっていたという印象すらもつ。

これは、ふっとひっかかりました。
シドニー・ベシェなどのことも想起しました。
「暗黒のエレガンス」といってしまえば、詩人たちがつねに指をくわえて憧憬する音楽の大衆性そのものです。
ベートーベンも誰彼も、ポップを夢想したときにまっさきに、「音楽の台地」に見据えるのが、この「美しくも暗い」感覚です。
ひとことでいえば「ブルース」です。
椎名林檎のユーミン曲「翳りゆく部屋」でもベートーベンの交響曲でも、ドルフィもオーネット・コールマンも、大衆的な信を志向して「ブルース」を歌います。
それは、黒人の主題などではけっしてない。人は、そうした「身体的な痙攣のドキュメントもどき」に弱いからです。
詩は、さいわいにも、こうした危惧からは自由なはずです。詩は、メディアムだからです。あるいは、諦念を知悉しているからです。

こういうことを考えることができて、うれしく思います。

2009年12月21日 褄黄 萩原健次郎 URL 編集

萩原さんへ

ふたたびありがとうございます。

詩とジャズのアナロジーといえば
ビート詩が多くいわれ、
なるほどそこにはある種の複数性の共通も
みてとれますが、
なにか一本線の演奏概念と孤独、
むしろそっちを共通項と考えるべきかもしれませんね。

ビート詩には僕は孤独をあまり感じない。
いっぽう萩原さんのおっしゃる
阿部薫の痙攣と咆哮には孤独をたしかに感じます。

>詩は、つねに二次的三次的なメディアムな行為なのかもしれません。もちろんあきらめてはいませんが、

萩原さんの皮肉な書き方、よくわかります。
詩は本当は一次的・先験的なメディアでしかなかったはずでした。

ところが現在の詩はメディア連関上に忍び込み、
それらを「味付けする」間接的媒質の位置へと
貶められている。

詩において直接性を再度前面化するために
たぶん声に代表される詩作者の身体が
必要とされていると考えているひとが多いかもしれない。
かといって朗読偏重主義も「黙読文化」を等閑にしていて
笑止なのですが


「暗黒のエレガンス」=ブルース。
この場合のブルースはジャンル音楽以外のブルースですね。
僕は作曲を
・認識論的作曲(ジャンル的、ポール・マッカートニー的)、
・存在論的作曲(独自的、ジョン・レノン的)
の二軸にわけていて、
後者に潜む「暗黒のエレガンス」を愛していると
いえるかもしれません。

世界認識の苦さ、バサラ感覚めいたもの、冷笑、痙攣、
なおかつそれが「自分に再帰してくる苦しさと恍惚」・・・

まあ暗い奇妙な雰囲気になる作曲群のうち
ドルフィとザッパの一部の曲に
以上のものを感じることが多いです。
萩原さんと同じことをいっているのかもしれません

2009年12月22日 阿部嘉昭 URL 編集

阿部さん、ありがとうございます。


詩への径庭は、死への径庭に似ていてその諦観と真摯さにおいて、あるいは直接性や投身性において、切実の深度が測られると思っています。
これは、音楽では大衆というマーケットへの投身性においても測られます。
ぼくは、フィル・スペクターなどの音楽にこうした切実を感じ、まさに暗黒のエレガンスを感知します。
当然、大衆の円熟化する価値は、音楽の技術に収斂されてきますが、この技術は主に編集やプロデュースなどの分業化された技術の集約になってきます。
作曲というのは、この投身性においては、実態が成果物と遥かかけはなれた代物になってきました。
これが、ぼくら60年代や70年代の音楽で育ってきたものにとっては、音楽の現実かもしれません。
ドルフィの存在は、その意味では、かなり考古です。
かつて、ステレオシステムが開発されたころ、プレスリーがへなへなに萎えた大衆性に身投げしこれがある種のパラダイスを形成しましたが、同時にオーネット・コールマンは
右チャネルと左チャネルから同時に二つのコンボが違う無調の音楽をぶちまける「フリー・ジャズ」というアルバムを発表しましたね。
ブルー・ノートはプロデューサーのカスクーナだったかが、当時の大衆性をそのまま
暢気路線で取り入れたラティーノのサウンドを混ぜた音楽をばんばん出してきます。
ぼくは、このあたりの「音楽」の混濁した真実の暗黒が大好きです。
一生没頭したいくらい。
ビート詩なんて、あれはなんなのでしょうか。少し前にケネス・レクスロスという人の詩をリーディングしたことがあり、その時はとても打ち震える感覚をもちましたがケルアックなどを読んでもあまり感心しません。彼らは、黒人ジャズマンのいったい何を聴いて、何に共鳴したのかさっぱりわかりません。フリオ・コルタサルなどの小説などのほうがもっと理解できます。大衆性への身投げは、それは再生芸術という社会ごとの身投げになります。
ヒップやヒッピーなどといった倫理のスタイルは、ただそれだけにすぎずビート詩は、パーカーの破滅を志向する倫理のスタイルに同調しただけのように思えます。
いまのポップ詩やネット詩を考えるとき、それらがあたかも詩を書く者の孤絶の結実であるかのように勘違いしたり、逆に孤絶の純朴をあたかも反マーケット、反プロデュースと勘違いしているようにも思えます。それは、詩を書く者が実はもっとも敏感であるべき
倫理のスタイルへの過剰意識だと思えます。
詩や詩集を他人に差し出すということは、とてもメディアムな行為なのです。
カスクーナやフィル・スペクター「な行為」でもあると思います。
詩のリーディングなどは、どれほど多次元の疑似マーケットがそこにあるか見えにくいほどです。
舞台に立つ一人の詩人が孤絶を体現して見せる、などとんでもない勘違いです。
ぼくは、「脳の木」という詩集で、ウジェーヌ・アジェの写真を「泡沫の造形」でリプレゼンテーションしていこうと企図して書いていきました。
自己プロデュースです。なんとか、詩の単一次元を造形できないかと考えました。
「k市民」では、自分の撮った写真をテーマにしました。
アジェの撮った一枚の写真に唖然としたのです。それは、彼がオーストリア大使館の大きな
鏡を撮ったものなのですが、そこには、カメラを据えた自らが映りこんでいます。
その鏡が、まさにアジェの瞳のような造形で濡れているのです。
これが一次元だと、思いました。喩的身体だと。
もうひとつ、同じころに関心をもったのは、ローランド・カークとポーツマス・シンフォニアというイギリスの楽団です。カークは、ドルフィのように跨りません。カークは、鼻にも楽器という管をくわえています。そのカークが動物園へ行って、いろんな動物の前で
自分の音楽を演奏して聴かせるというドキュメント映画を見たことがあります。
解説は、ジョン・ケージでした。カークもまた、単次元を志向しつつ、メディアムも自覚する自己プロデューサーです。喩的身体です。
ポーツマス・シンフォニアは、ギャビン・ブライヤーズが組織した楽団でほとんどの楽団員は、それまで楽器にふれたこともなかった人たちで組織されていました。
これは、倫理のシステムを軽く破壊しています。
レインコーツや少年ナイフは、そんな意味で好きです。

書きすぎました。
何かがお伝えできたかどうかさだかではありませんが
しるしておきます。


               萩原健次郎

2009年12月22日 褄黄 萩原健次郎 URL 編集

健次郎兄

萩原ファン垂涎の熱いコメントをいただき
一ファンの僕としても感涙のかぎりだったのですが、
実は結石発作で救急車騒ぎなどあってバタバタし
お返事が遅れました。

「投身性」、素晴らしい鍵語です。
かつてマラルメは人魚の無限の投身を
シャンパンのグラスに透視して
詩の乾杯(挨拶)としました。
そういうエレガントな投身は
いまやメディウムとなる詩では
その発表形態では
まみれるような真摯とならねばならない。
このとき発表して事足れりとするネット詩の
独善を不全性として省みるべきということですね。
よくわかります。

芭蕉歌仙のような座はないものかと考えても
ネットの不定形な伸縮性は気味が悪い。
具体的な足場を欠いて
多手多足が相互を撫でつけようと
うるうる蠢くばかりなので。
この劣勢のなか唯一、
「文学極道」という詩の応募サイトが
場の具体性を肝に銘じて
拡張とも収縮ともつかない運動をくりひろげています。
大兄にもお暇な折ごらんいただければと念願しています。
僕はそこで、講評を書いているのです。

オーネット・コールマン主導の『フリー・ジャズ』。
ドルフィも参加している、なつかしい名盤の名が出ました。
百家争鳴は全的状態ですが、
その全的状態を導くには
実際には「身のおきどころ」の技術がいる。
だらしない後姿が空気を読めずに道をふさぐことの多い昨今、
身体の具体性を自意識するのに必要なのは
僕は「侠気」によってではないかとおもっています。

その「侠気」において
萩原詩は傑出しているとおもっていたら、
アジェの写真など新たな連関項を掲げていただき
感激の至りでした。

つまるところポップ詩に侠気を吹き込む
『k市民』などの厳密な方法は
いまたしかに忘却されている。
ということは「文化混乱の方法」も忘却されている。
あるのは矮小化された混乱のみ、というのは
たしかに要約して出来してくる
現在の詩の光景ではあります。

あらたな指針を得ました。
僕もこれから精進します

2009年12月24日 阿部嘉昭 URL 編集












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