バキバキ
痛みがなくなる----痛覚から完全に解放されると
人間は大火傷を自覚なしに負って死んでしまったり
関節を曲がる範囲以上に曲げて
悲惨な骨折を繰り返したりするそうだ。
さっきまで、本日の「詩と思想」編集会議のため
「またまたネット詩談義」の全員の書き込みを
ずっとチェックしていた。
それで現在の若いひとの詩がすべて「悲鳴」である、
という一発言と、
安川奈緒さんの「悲鳴」であるかもしれないが、
詩作者はその「悲鳴」を
発すると同時に聴いている、という切り返しが
妙に澱としてのこった。
自分で骨折を試みて悲鳴をあげている例はないか?
そういう「人生への不誠実」を犯している例は?
なにかへの近道としてそういう営みが横行しているのは
現象論的考察に値するが、事態としてはすごく病んでいる。
ところが「大袈裟なやつ」の書く詩は、
そういう眺望を一挙に不透明にもしてしまう。
痛くないのに痛い、というのだ。
救うべき順序なら、簡単に整理できる。
逆に書こう。
最も救出に値しないのが「大袈裟なやつ」。
つぎが「自分で骨折をこころみるやつ」。
つぎが「あたえられた痛みをそのまま悲鳴する者」。
最後にのこる、もっとも尊敬に値する対象が、
「痛覚が存在しなくなった者」。
けれどそれは「死者」かもしれない。