橘上・複雑骨折
スパム対策として本日一旦消した過去の日記を
対策が終わったのでまた復活させます。
07年12月20日に書いたものです。
元ヴァージョンでは拍手は八つでした。
●
今週月曜、立教の「現代歌謡論」には
若手詩人の橘上くんがモグってきた。
授業を聴きがてら自分の詩集を渡しにきたのだという。
ちょうど手持ちに僕の新刊
『僕はこんな日常や感情でできています』もあったので、
物々交換した(そればっかしている-笑)。
橘上『複雑骨折』(思潮社/07年10月刊)、とあって、
「現代詩手帖・08年鑑」にその表示があったと気づいた。
和合亮一さんが「今年の収獲」にあげていた、という。
「橘上」と書いて、「たちばな・じょう」と読む。
自分でつけた筆名だそうだ。
「オダギリ・ジョー」みたいな音になっちゃって、
と謙遜(?)するが、やんちゃで乱暴で汚い気配が漂ってくる。
前回日記の黒瀬珂瀾さんとは真逆のようなキャラ(笑)。
ガタイは、ガテン向きの感じ。つまり、ゴツくデカい。
研究室でまあ話を、という流れになった。
パンクバンドのヴォーカルをやっているという。
詩を音楽として書く、とも言い切る。
ただし、紙の詩と唄われる歌詞には弁別があってしかるべき、と
意外に慎重派の局面もみせた。
音楽は僕の知らぬ分野が詳しい。
僕は僕の知ってる分野が詳しいので話が噛みあわない面もある。
当然、語勢のつよい阿部が会話のイニシアティヴをとりはじめると
橘くん、学生時代の習いのまま、メモをとりはじめる。
その日、授業で配付したプリントの余白に。
ビーフハートは好きだが、どのアルバムがいいか、などなど。
ビーフハートは『トラウト・マスク・レプリカ』一本派が多いね。
70年代末期からの彼もいいのに。
橘くん、安川奈緒を讃える。
そりゃそうだろうよ、パンクロッカーなら。
だが、インスピレーションだけでつくると詩心はやがて枯渇するのでは
と僕がいうと、彼は、
いや、安川奈緒はものすごく推敲してるんじゃないかと
意外な見解を述べる。
詩集は「メロフォビア」だが、「音楽として」詩が推敲されていると持論展開。
ほう、この男、姿は乱暴だが、なかなかではないか、と見直しはじめた。
その他の褒め筋もいい。
授業でかけた曲のうち、彼は中森明菜『Tokyo Rose』と
三村京子『風の京子』(阿部嘉昭が作詞した)を絶賛。
エレえ面白い授業でした、という。
生徒が大人しすぎるだろ、と僕が言葉を向けると、
阿部さんの生徒は「幸福に」飲まれてるんスよ、と餞も欠かさない。
じつは案外、如才のない奴かもしれん。
彼は数年前にも僕の講義に潜ったことがあるという。内海と来た。
日芸・文芸学科の生徒だった。卒業済。
同学の久谷雉にたいし学年が一個上ともいう。
(詩は)品行方正の久谷にたいし、ここも逆の気配がする。
ひとしきり、久谷、日芸文芸学科、さらには日芸全体の話となる。
ひとつだけしるすと、日芸文芸学科は若手詩人輩出のようにみえるが
詩は変わり者が取り組み、比率は全体の五%ほどで
詩の実作指導に有効的なものもなく、
みなが「個人」の範囲でやっているとのことだった。
バンドでは日芸はパンク傾斜がつよいかも、とも認めた。
橘くん、ほぼ無一文にちかかったのに、
蛮勇を奮って、僕につきしたがい、
その後の「松本秀文さんを囲む会」にも乱入してきた
(松本くんと面識があるんだとか)。
その会でも彼は談論風発。
松本圭二の話などに嬉々として加わっている。つえぇ。
で、昨日の早朝は、黒瀬珂瀾『黒耀宮』を読了後、
立て続けに彼の『複雑骨折』を読了した。
幾度、ブハッと噴き出したことか。まごうことなき傑作だった。
いままで僕が書きつけた固有名詞が
キーワードとなっているとも気づく。
パンキッシュな下痢文。
町田康が源流(その基本リズムは落語だ)だとしても
安川奈緒を同時代人と構える彼の感覚がよくわかる。
散文と詩文の弁別なしに、爆発して四囲に言葉の糞便を撒くのは
松本圭二のヤンガージェネレーションともいえる。
さらには、その日の授業でディープ大阪のパンクバンドにして
河内音頭と大阪笑いとパンクとジャズと恐るべきローファイが混ざる、
オシリペンペンズをかけたのだが、それとも風合いが通じる。
こういうふうな「文」系の結節点に彼の詩も位置しているということだ。
笑いの喚起力+凶暴さでは詩壇内、松本圭二と並ぶトップクラスだろう。
文の論理が内側にねじれて、しつこく、
しつこいながらもするすると「展開」して、
圧倒的なフレーズをついに爆発させ、さらう。
スカトロも殺意も極貧バイト生活も、
偏執狂的=犯罪的拘泥もあって、
こいつ「アブナい」と考える自分の鳥肌がもう笑っている。
しかし全体は畳み掛けるようなリズム。
躯に圧力が蓄積されて、
酩酊にぐらぐらするという至福も味あわせてくれる。
一体に、垂れ流し散文で詩を標榜する動きが僕は苦手ではある。
顔とちがって、端正さがこのみだったりするのだ(笑)。
研究室でクリトリック・リスを褒めたように
もともと下品な笑いが大好きなのに、
ねじめ正一から始まる動きには以前ついぞノレなかった。
詩は愛唱性あってこそ詩、という気概を崩さない。
だが、一過性の文として、
詩的垂れ流しによってリズムを打ち込んでくる文章には多く接している。
いまの学生に、このタイプの文章が多いのだ。
で、橘くんのそれは、このタイプのなかの極上品。
破壊性が並みではなかった。
悪意のひねりも効きまくって、時には真空が生じ、
この鎌鼬によって読む継ぐ頬をザックリ斬られる。
取扱い注意物件のヤバさがあって、
ねじめさんの詩の前提となっている小市民的ペーソスなど何処吹く風。
何しろ勢いがいい。この勢いは下痢噴霧につうじているが(笑)。
散文型の詩を転記打ちするのはシンドいのだが
ザクッとまずは一篇、変態愛の物件を丸ごと差し出してみよう。
すごいぜ。これなどは、そのまんまパンクとして叫べる。
●
【花子かわいいよ】
橘上
花子。かわいいよ花子。えっ何? 何でこんなにかわいいの? かわいい。本っ当にかわいい。かわいいわ。何つーか、その、かわいい。ばりばりかわいい。花子をミキサーにかけて、どろどろした花子ジュースをつくったとしても、絶対かわいい。もうヤベェ。ヤベェよ花子。ヤベェヤベェ。電柱があって、その電柱を花子と思い込めば可愛いもん。もう何だろうな。死ねよ。死んじゃえよ。何でお前みたいのが生きてるんだよ。もう死んじゃえよ。マジで。ホンットに死ぬ。頼むから。死んでくれよ花子。ホントに。かわいいよ。花子。死んじゃえよ。かわいいよ。何だよ。お前なんだよ。何で花子なんだよ。やめちゃえよ。もう花子やめちゃえよ。一体いつまで花子なんだよ。どうすんの? お前花子でどうするの? 何がいいの? そんなに花子でどうしたい? 何がしたいの? お前は? 生まれたときから花子で。もうずっと花子だろ。どうすんの? どうなるの? 花子。花子。花子? おい。花子? 花子なのか? もういいよ。花子。充分花子だったじゃん。お疲れ様。代わるよ。俺が代わるよ、花子。もう俺が花子でいいよ、花子。花子でいい、つーか、花子だわ。もう俺が花子だわ。すげぇ、俺、すげぇや。俺でありながら花子だもん。すげぇ。ホントすげぇ。すげぇ上にかわいい。ホントかわいい。かわいいわ、俺。ほんとに俺ってば、かわいい。極々にかわいい。かわいいわ、俺。俺っていうか花子。花子かわいいよ、花子。
●
見られるとおり「花子」「かわいい」の同音が
幾度使用されたか、数える気もしないほどだ(笑)。
それは速読リズムの畳掛けへと無惨に「消費」されてゆく。
だがこの消費構造のなかで、認識の転轍が生じる。
「死んじゃえ」という唆しは、愛の非対称性ゆえに生じた感情逆転で
これならストーカーのすべてが理解できる(笑)。
しかもその前段階で花子はミキサーにかけられ、
電柱にも変じている。
この花子の可変性全体を愛する愛はもう無償に近い。
この無償の深さがヤバいのだった。
これは書きつけられている言葉の無償性と同列にあるもの。
橘上の手柄は、そこからさらに変容の劇を生ずる点だ。
バイトの場で使われる常套句が接合材となる。
《お疲れ様。代わるよ。》。
以後、「俺」を思い煩わせた「花子」の位置に
「俺」を代入する、という「無謀」が生起する。
凄いのは、「俺」が「完全変身」などを目指さず、
俺、すげぇや。俺でありながら花子だもん。すげぇ。ホントすげぇ。すげぇ上にかわいい。ホントかわいい。かわいいわ、俺。
という、見たことのない「妄想自己愛」へと
読者が拉し去られてゆくことだ。
描かれているのは、「俺半分・花子半分」。
この愛というか、自己認識が、「極端に新しい」。
新しさは狂気と悲哀を材料にもしていて、
ゲ、こいつ、お笑い芸人であると同時に
現象学学者か哲学者ではないか、という「奥行」も生じてくる。
こういう「翻るような」認知は
同音を中心とした畳掛けだからこそ、
その隙間に「ヌッと出る」もので、
橘上の詩はそれなりの「時間化」が施されていることにもなる。
僕は安川奈緒の詩を無時間性と断言したのだけど、
そこから時間を見る橘くんの感覚は、この詩に明瞭に現れていた。
だが、安川さんのような文学趣味、サブカル引用、フレーズ主義は
とりあえずこの詩にはない。すっからかん、なのだ。
ここでペンペンズと符節が揃う。すごい捨象力だ。
「花子」と「ミキサー」の配合には
会田誠『ジューサーミキサー』の意識はないとおもう
(ハイ、阿部嘉昭『少女機械考』の表紙、ですね)。
だから当然、「花子」の命名に
故・佐藤真さんのドキュの転用があるなどと考える必要もない。
「花子」は現実の誰かの代名詞的な代入かもしれないが、
「花子」の音韻の実質が「花子」の実在よりも先んじてしまう。
といっても、マラルメの「花」にかんする揚言を考える必要もない
(橘くんの詩はサブカル臭たっぷりなのだが、
多くは名辞が具体引用的でなく速攻代入的だという特徴がある)。
たとえば、以下。
●
【ミスタールピン】(冒頭)
ミスタールピンは2046年12月9日に発売され、今でも根強い人気を誇っているロングセラー商品である。
発売当初は小中学生を中心とした人気商品だったが、大人の慰みとしての視点から再評価され、現在では老若男女を問わず幅広く支持され、石原裕次郎以来のスターとまでいわれることもあった。
ミスタールピンは薄紫色で、通常楕円形のゼリー状をしている。
ミスタールピンは開封後一ヶ月で銀色に変色し、二ヵ月後にキリンの臭いを放つようになる。三ヵ月後にはメロンパンのようなかたちになり、四ヵ月には赤と黒のボーダー柄になる。一年飼い続けると、虫が集まるようになり、夏場ミスタールピンでカブトムシをつかまえるものも多い。
●
ナンセンス詩か。
幾つかの仕掛けがある。
出だしはSF的設定。
商業文章と、商業「解析」文章が混在している。
この「混在」により資本主義がおちょくられている。
「ミスタールピン」は、説明されればされるほど正体不明となる。
これなどにはカフカ「オドラデク」などの作法をおもうべきだろう。
次、命名問題。
「石原裕次郎」の名の出し方があまりにぞんざいだ(笑)。
悪意も何もあったもんじゃない記号的・機械的処理。
一方、文末の「カブトムシ」はそのカタカナ表記によって、
案外、aico「カブトムシ」の引用と読まれることが
想定されているかもしれない。
「ミスター〇〇」は、
レナード・コーエンが一節に唄った「ミスタークリーン」(洗剤商品名)など
アメリカの「家庭助っ人商品」によく顔を出す表示だ。
だがそれは「飼育」されるものだから厄介だ。
で、〇〇に代入される「ルピン」とは何か。
フランス人名「Lupin=リュパン=日本化して「怪盗ルパン」」の
米語読みではないだろうか。
リュパンでもルパンでもない、帰属性剥奪の発音。
これにより、この商品が定義不能性の域にあるとわかる。
しかもそれは泥棒なのだ。
それを人が嬉々として「飼い」、「スター」となり、
そのヴァリエーションをめぐって次々に「マニア」も生む。
資本主義的欲望の真の対象は「空隙」だとでもいった、
ラカン派精神分析ともこの詩篇は境を接しているが、
橘上は僕の引用部分ののちも
「ミスタールピン」の機能説明、ヴァリエーション分岐、
商品運命の帰趨を「だらだらと」続けてゆくだけ。
よってカフカ的不条理に脱力がもちこまれ、
規範にしている文の商業主義がいよいよ怪しくなり、
むなしい笑いが文の底にただ響かう。
いずれにせよ、橘上の「詩」は
「花子かわいいよ」「ミスタールピン」の左右のなかで
全体が振幅しているとおもう。
ほかにも、「須藤によるイジメ」「猟キチ君」など引用したい詩篇が多いが
散文形の転記打ちは疲れるのでやめておく(笑)。
何しろ破天荒。乱暴。饒舌乱打。クレイジー。批判力満載。笑える。
最後に気に入った詩篇の書き出しをランダム引用する「お茶の濁し」で
この書評記事をかるーく切り上げておこう
(題名転記はしない)。
●
尻というのは腹が立つ。何でそんなにぷっくりしているのか。
全力疾走してからのエロ本は腹にくるね。
俺さぁ、友達んちでウンコできないんだよねぇ。
地球ってバカ。超バカ。だって自転とか言って一日一回まわってんの。
ダーウィンってすげえよな。種の起源ってヤツ?
最近の須藤は調子が悪い。イジメにいつものキレがない。
「いやね、私ね、自分で呼んだんじゃないんだけど、猟キチ君だなんて呼ばれてんのよ。
家に居てもやることがないので近所をうろうろ歩き回っているのだが、
一致団結。/これが文化祭のクラスの目標。/だけど他は何も決まってない。
食堂でビーフストロガノフモドキを食べていると、
アイドル川島行枝の正体は四角形で、三百六十二回にわたる整形手術を経て、四角形からアイドルに生まれ変わったのだが、
「死ぬまでコケシと愛し合いたい」と語りながらピノキオ似のコケシを片時も離すことなく暮らしたことで、
俺は脱糞した。/長年続くお昼の生放送で。/ただそれだけのことだ。
●
こうして詩篇の書き出しを書き抜いてみると
橘上が「書き出し主義者」だということがわかる。
独特の気合、見切りから詩篇がはじまっているのだ。
評論分野の蓮実重彦と双璧、といえるかもしれない。
面白い詩人が現れたねえ。