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自己連続性 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

自己連続性のページです。

自己連続性

 
 
このあいだ、ある原稿のため
90年代の日本映画の質感をおもいだそうと、
自著『日本映画は存在する』を
半分ぐらい拾い読みしたことがあった。

そのとき、当時の自分のやろうとしていたことも蘇った。

つまり、映画を孤立化させない、
付帯的に映画評論も孤立化させない--
この一点に評論の精度が賭けられていたのだった。

映画を社会の、人心のなかに置く。
そのためにこそ付帯的な学問分野が
映画や映画評論を囲み、肉づけしなければならない。

僕がつかったのは
犯罪評論、民俗学、記号論、心理学、フェミニズム、音楽学、
歴史学、サブカル論全般、哲学、社会学--といったものだった。

単純な映画作家論の無効性を言い立てるために
俳優演技やスタッフ論、映画ジャンル論を
立論の中心に置いたこともままあった。
要は「多様性」によって孤立から解くという方便だった。

同じ流儀がたぶん現在の僕の詩作にある。
詩篇を孤立化させないために
たとえば行の渡りに音楽的な配慮を加えたり、
短歌俳句からの援用を試みたり、
映画性によってカッティングを組織したり
サブカル論や媒体論を付帯させたりする。

現在の稲川方人の「亜流」が蔓延している様は
80年代、蓮実重彦の亜流が
映画評論に蔓延して逼塞を導いていたのと
僕にとっては相似の光景だ。
凡俗性は繰り返されている。何が「倫理」だ

そのような詩作の現状を見ると
「本質的」改行詩の要件をますます考えざるをえなくなる。

以下はフラッシュアイデア提示のため、
箇条書きとする。
また典拠明示なしに、藤井貞和の卓見を
部分利用することにする。

1)散文詩形が増えている。
改行詩にあっても文型はもともと散文であり、
それが本罫返りしているにすぎないのだけども。

2)詩行の分かちは西洋脚韻詩を
本邦移入するときに新たに出来たとする擬制は誤り。
短歌俳句の一行棒書きののちの
連歌(連句)こそが分かち書き詩篇の日本的嚆矢だった。
そのときに作者の分立という付帯事項がある。
となると詩行はそれ自体、ポリフォニックに組織されていた。

3)上の件は西脇にあってはまだ暗示的。
それを達成したのは先駆的には石原吉郎、
方法論的には『サフラン摘み』『夏の庭』時点の吉岡実ではないか。

4)散文詩篇は、そういった達成の閑却視として
現象していることが多い。
むろんいつだって例外はある。
粕谷栄市や、現在なら高塚謙太郎の名を挙げれば足りるけれども。

5)詩の語は記号性と呪言とによって形成されるが、
高塚詩はその点をも知悉している。

6)神話以来、あらゆる表現は
一般化のため、物語化を結果している。その例外が音楽と詩。
ここで微妙なのが歌詞のある歌と叙事詩だろう。
ただ、思いの歌唱には本質的に物語がなく、
この無物語性は支配者のつくる神話にも先行してきた。

7)改行効果については以前、列挙的に書いた。
・文節提示、・呼吸(身体提示)、・景転換、
・強調、・視覚化(空間化)、・切断、・脱臼、
・多声性、・反復提示、・サーヴィス・・・
(「現代詩手帖」08年12月号)

8)繰り返しになるがこの場合、
最も重要なのは上記2、3に照らして多声性ではないか。
廿楽順治の詩の重要性はここにある。
ただし注目したいのが松岡政則。
記憶の景転換が多かった彼の改行は、
「けがれ」意識の先鋭化によって
けがれた事物がアジア大に「声」を発し
その一息の単位で改行を呈するという
原理的なものに変わりつつある。

9)「けがれ」は「詩人」の要件。
この意識がないから詩はリアルでなくなった。

10)改行の原理を切断におけば杉本真維子の詩に重要性が出る。

11)改行詩と散文詩の中間に位置するものとして
長い行をそれでも分かち書きにしてゆく自覚的手法がある。
それは改行と散文形、それぞれの根拠を問うものだ。
そこでは重要性を帯びるのが倉田比羽子と中尾太一だろうが、
無駄を挟みこむ中尾の方法が現在的かどうかは問われねばならない。

12)完全に断絶した行のようにみえて
ギリギリで詩行のコンテキスト(詩脈)を形成、
読み手を魅惑する詩の書き手には近藤弘文がいる。

13)阿部嘉昭の詩の「詩脈」については
詩の孤立化を防備すべく多彩なものが導入される。
連句性、音楽性、映画性などがみやすいだろうが。
音律主体に書かれているようにみえて「意味形成」があるのは
短歌的喩(吉本隆明)があるためだ。
しかし意味というのは微妙だ。
節と節、語と語の還元不能のスパークから
なにか瞬間的なものが「喩的読解」とともにこぼれ落ちるのを旨とする。

14)異常感覚と音韻が主体となって未踏の独自境をつくったのが
現代短歌では葛原妙子だった。
これに平行する女性の書き手は現代詩にはいないとおもっていた。
教養不足だった。じつは存在する--支倉隆子だ。



このあいだ、支倉隆子・川瀬裕之二人展で
杉本真維子と話す。

阿部「固有財産ともいえるあれだけ見事な切断的改行詩形を
なぜ手放そうとしているの?」

杉本「そうしなきゃいけないとおもって」

阿部「自己模倣が詩作倫理にもとるってことだよね」

杉本「そうです」

阿部「その結果、以前にあった〈非親密の親密〉という
峻厳な抒情詩の表情がそこなわれ、
散文形が部分的に入り込むこともあって
非親密を結果しているように僕は感じるけど。
自分の書いていることがつかめている?」

杉本「つかめていないかもしれない。
でもそういう過渡期を経過しないと
わたしは詩作者として永続しないとおもうんです」

改行詩(の作風確立)は賞味期限付限定財産なのだろうか。
自己模倣域からの真維子さんの真剣な離脱は
結局、詩作原理そのものを対象化していて
襟を正さずには聞けないものだ。

この問題は廿楽さんにも関わる。

こんど飲むときは、一回真剣な詩論を闘わせてみたいなあ。
近藤くんなども交えて
 
 

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2010年03月10日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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