木村威夫先生追悼
僕が「先生」の敬称をつけてお呼びするかたは
着物デザイナー、千代田のきものの山田玲子先生や
映画美術の木村威夫先生などさほど多くないが、
その木村先生の訃報にきのう接した。
熊井啓監督『千利休・本覚坊遺文』の現場での
美術監督と製作宣伝の間柄としてはじまったお付き合いだから
都合22年間、先生には
映画にまつわる幸福な夢をみさせていただいたということになる。
その現場では僕はペーペーの新参だった。
何しろ監督補には原一男さんという峻厳なひとがいて、
現場取材を入れるには台本と現場進行、
俳優の顔色などを読み、総体的な判断をしたうえで
監督、メインスタッフ、俳優間の
根回しを細心にしなければならないと叩き込まれた。
「このシーンは取材を呼ぶには重くない?」
「阿部君は台本をどう読んでいるわけ?」
「主要俳優が揃わないけどそれでいいわけ?」
原さんからは矢継ぎ早に質問が飛んで、
こっちがしどろもどろになりながら自分の意見をいうと
それが「自分の意見」だと原さんが見抜けば
根回しを原さんは手伝ってくれた。
原さんに対抗するためには理論武装がいる。
ただし僕は製作会社側から派遣された製作宣伝で
社内の仕事をこなす必要があり、
ひどいときは夕方、定時の仕事を終えて日活スタジオに駆けつけた。
今日はこういう撮影になった――こういう問題が生じた、と
こっそり教えてくれたのが記録の内田絢子さん。
僕はたぶん顔に緊張を張り詰めていたとおもう。
そんなときセットの陰から例の帽子をかぶり、
ニコニコ上機嫌に僕のほうに寄ってきて
東京弁の早口で「おもしろいこと」を必ずいってくる
恰幅のいい、
どこまで教養を秘めかくしているかわからない「爺さん」がいた。
木村威夫先生だった。
熊井監督の現場の製作宣伝が危険なポジションなのは
旧知の記者や評論家が来ると、取材後、
熊井さんが饗応のはてに下手をすると翌朝まで飲んでしまうからだ。
そうなると翌日の撮影がガタガタになる。
だから酔っ払った監督を無理やりタクシーに叩きいれたりと
事もあろうに扱いが次第に「ぞんざい」にもなってくる。
おまけに当時僕は製作会社側の「一人文芸部」みたいな存在で
これまた事もあろうに依田義賢さんの脚本に
プロデューサーの命で「直し依頼」を入れるという
神をも恐れぬ振舞をしいられていた。
その直し案を熊井監督はおもしろがった。
けれど「阿部ちゃんはまだまだ映画を知らない。
俺が今後ずっと叩き込んであげるよ」。
そういう監督の余裕に若い僕は少し向かっ腹を立てていて
その様子を木村先生は横目にみながら
その「威勢の良い子ども」に興味をつのらせていただいたのだろう。
僕の「映画好き」は雰囲気ですぐ知れ渡るようだ。
社内広報誌のためにメインスタッフのインタビューを連載していて、
彼らが往年たずさわった映画の話をいつも呼び水にする。
「君はそんなものまで観てるの」と
みなメインスタッフの老賢たちは相好を崩し心地よく喋った。
木村先生のインタビューでは熊井監督をさしおいて
鈴木清順監督作品の話ばかりになる。
やれ『春婦伝』でのラストの切り株の林は時間停止の暗喩ですよね、
そのとまった時間のなか
死に傾斜する野川由美子の慙愧と心の揺れだけが動く、とか、
そういうマニアックな話を延々とするのだ。
木村先生、「そうだよね、やっぱり阿部ちゃんの世代だと
熊井監督より清順さんのほうがみんな好きだよね」。
破天荒な先走りを見抜かれている。しかしそれを先生は面白がった。
「でも熊井さんの映画の美術は僕のもうひとつの基本、リアリズムなんだよ」。
『千利休』公開前などにはキネカ大森などセゾン系の小屋で
熊井啓監督特集などをおこない、
俳優やスタッフをゲストに呼んで僕が壇上インタビューをした。
木村先生の話はとりわけ面白い。まず気風が良いのだ。
先生には自分が手品師・魔術師の自覚があったとおもう。
ところがその悦びは倒錯的で、種明かしを惜しまず、それで客の心を掴む。
たとえば熊井監督『海と毒薬』はモノクロ映画。
モノクロ映画で画面上、「白」として映されるものは
撮影の実際では薄いピンクに着色するんです、と先生。
それを露出で真っ白になるよう調整すると
黒が輝くハイコントラストの画面になりますね。
映画美術はセットでも何でもどう撮られるかという意識なしには存在できない。
また撮られないものはつくる必要もないんです。
先生はそういえば表側を厳密につくりながら
裏側が裸木まるだし、骨組み丸出しのセットを
面白いでしょ、と僕にしょっちゅう見せつけてもくれた。
カメラポジションは予想するんです。
というかセットがカメラポジションを要求しているといってもいい。
だから美術は撮影に関与してるんだね。
そう、先生の美術は動態的で、しかも荘厳癖などなかった。
魔術のようなたたずまいとは、
「映画の嘘」をセットなどにあらかじめ含んでいること。
映画は集合意識の叡智によって作法を集中化していて、
映画の嘘を種明かししたそこにこそ、映画の幻影=リアリズムが現れる
――そういう信念がおありだったとおもう。
映画は「映画内」を幸福に含んでいる、ということ。
だから先生は美術の種明かしをするときにいつもあれほど上機嫌だった。
当時の僕は吉田健一や西脇順三郎など「上機嫌な老人」が大好きで
木村先生にもたちまち心酔した。
発想力の美術監督、幻想性もある美術監督――
先生はそういういわれかたをよくされる。ただ、それだけではない。
『海と毒薬』の手術シーンを憶えておいでだろうか。
あの手術室はタイル貼りで、水が張ってある。
その水のうえに手術中つかった脱脂綿などが次々に投げ捨てられる。
手術台から下に滴ってゆく流血もある。
語り草は、あのときの血はどう手配されていたかだろう。
モノクロ映画の血は墨汁と相場が決まっているが、
しかし墨汁では水にあっさりと拡散してしまう。
続いて試されたのは豚の血。しかし血沈速度が遅く、人間の血の感じがしない。
人間の血が必要だ。結局、演出部の人間が犠牲になった。
強制献血という次第。演出部は貧血状態でフラフラしながら現場に臨んだ。
ただしここまでは実際は熊井監督と原監督補の容赦ない「算段」だ。
それを導いたのは木村先生の厳密な調査力による、
戦時下の手術室の再現だった。
しかしあれは「再現」であってやはり同時に一級品の美術だ。
何か冷やっこいところが、木村美術らしくないから壮観だった。
木村美術の基本は内包的で、夢のぬくもりがある。
生死の儚さを念頭に置いていた木村先生の美術は
必然的に母胎回帰的ヴェクトルをももつ。
つくりものの囲繞性、外界への「抜け」、どこかに配置される球状のもの。
あ、先生の美術だと直観できるフォルムがあるのだ。
リアリズムと幻想性が拮抗し、しかもどこかで映画の嘘が誘惑的に開花している。
そういえば80年代の日本映画ではすでに「木村美術」ブームだった。
四方田犬彦さんの『黄犬本』だったか『赤犬本』だったかで
木村美術展の感想記が入っていて、そのなかで至言があった。
「木村威夫の美術は眠い」。
そのことを先生にいうと、先生「いいこというねえ」。
話があっちこっちに飛んで恐縮だが、
木村先生の発想力は複合的だ。
たとえば熊井監督『サンダカン八番娼館』に出現する南洋の娼館は、
その外観をどう設計するかで悩みぬいたものだったという。
資料がなかったのだ。
ところが先生は僥倖に恵まれたひとで
あるとき古本屋で茶に褪色した安価な「家族アルバム」を手にとる。
そのなかの一葉の写真に、まさに「娼館そのもの」が映りこんでいたのだった。
だから出来上がった娼館のセットはリアリズムだ。
同時にどこかが先生の美意識によってデフォルメされ、「撮影」を誘い、
その点では天上的な「映画美術」となってもいた。
木村先生の西調布のお宅にお邪魔すると、その書斎がご自慢だった。
見事な一枚板を不規則に切ったものを胡坐姿でおこなう作業机にしていらした。
板をみつけ、お弟子さんに机をつくらせたのだという。
そしてスライド式の書棚が都合10ちかく設置されていて、
僕の本好きを知っている木村先生は「みてもいいよ」とよくおっしゃった。
美術書、写真資料の数々、文学書、台本など雑多で数限りない。
そのなかに数段、見事な「家族アルバム」のコレクションがあった。
そういえば撮影現場における美術部は妙な動きをする。
先生は撮影が好き、俳優が好きでかならず現場に立ち会っていらっしゃったが
(これが晩年の監督作の爆発につながったのだとおもう)、
美術部は急場の金槌打ち程度しか現場での仕事がない。
セットを磨くのだって演出部の仕事だ。
スタジオ内部にはそこがまるで異空間そのもののように
何杯ものセットが背中合わせなどになって建て込められている。
実際は当日の撮影が終わると美術部全員が集結する。
それでセットをバラしたり、セットを建て込んだりして
スタジオ内の「セット地図」がパズルのように変化してゆくのだが、
それは夜盗のような真夜中の作業なのだった。
『千利休』の現場の話にもどると
三畳だったか利休茶室の最小のものを木村先生が完成させた。
むろん壁は撮影用に取り外し可能。
ところが照明技師の岩木保夫さんがものすごい剣幕で声を張り上げている。
「木村さん、こんな壁色じゃ撮影できない!」。
先生は他人から罵倒されることなど生涯になかったにちがいない。
だから紙のような顔色がこわばっているのが離れていてもわかった。
木村先生と岩木さんはともに大映から日活に移ってきたほぼ同輩。
岩木さんは溝口の照明助手などからキャリアを積んで、
今村昌平映画の照明技師として知らぬものがいない。
小柄なひとだが、照明指示の必要から地声が大きく、しかも短気だった。
木村先生は茶室を史実どおり壁を利休鼠に仕上げた。
しかしそれでは光を吸い込んでしまう――
そんなこともわからないのか、と岩木さんの語気が荒い。
そう、岩木さんの主張は「映画的な嘘をつけ」ということだった。
今村リアリズムが満身に流れている岩木さんが
清順映画の魔術師の木村先生に、
一見普段の信条とは逆のことをいっているとみえる。
木村先生は「わかった、塗りなおす。明日まで待ってほしい」と静かな声でいった。
翌朝、その茶室の壁は塗りなおされていた。
利休鼠的だが、それからもはずれて明るみのある――
つまり「この世にはない色」が出現していたという記憶がある。
岩木さんもご満悦で、前日の癇癪を木村先生に謝っていた。
この逸話で、厳しい現場の雰囲気の一端が伝わったかともおもう。
木村先生は尺貫法主義者だった。
東洋的身体の倍数として部屋空間が寸法化される。
むろん部屋にいる役柄がたとえば幸福か不幸かで
部屋内の調度のみならず、寸法まで変わるのだ。
人物と部屋の暗喩的関係。しかもそれが対位法をえがく場合もある。
ともあれ尺でなければ、東洋的な寸法が追求できない、
むかしからそれで宮大工も舞台美術も、戦前からの映画美術もできあがっていた。
その単位を廃絶するとは何事か、ということだったろうとおもう。
キネ旬時代、日活芸術学院(学長だった)での
木村先生の講義を起こしたことがある。趣旨はこうだった。
台本を渡される。そのときまずは主人公の居住空間を想像しなければならない。
主人公は科白や芝居によってのみならず居住空間によっても性格づけされる。
ただ、「想像」は比較的簡単にできる。
映画美術の仕事は、その想像を正確に寸法化して図面を引くことだ。
しかも図面は何通りにもつくり、そこで比較吟味がなされなければならない。
北向きか南向きか。照明はそれで規定される。
カメラポジションをどのように誘導するか。撮影はそれで規定される。
想像はそういうリアリスティックな部分までふくむものなんです。
先生は幻想映画的なもののセットなどでは
イメージ画から作業を開始されることが多かった。
パステル画で、荒い線で、不思議と色がにじむようにぼけている。
みな、すごく良い画だ。
四方田さんのいう「催眠性」はそこに極まっているとおもう。
その意味で木村先生は一種の幻想画家なのだが、
実際はそのように描くと、その瞬間から「寸法がみえる」のだそうだ。
何しろ想像力が果てしない。
そのことでいうと面白い逸話がある。柳町光男監督『火まつり』。
木村先生は中上健次のあの台本に独自の解釈を施し、
苦労して様々な動物の剥製を集め、
主人公・北大路欣也の家のここかしこに剥製を配剤してしまった。
先生はご満悦。柳町さんは困る。自分の演出プランとちがうのだ。
ただ先生は先生で襟を正すべき創造者なのは無論だ。
で、剥製をのこしたまま撮影に入って
カメラに剥製を入れないようにした。今度は先生が焦る。
剥製が監督に嫌われているのが伝わってきたからだ。
翌日、スタジオセットからは剥製が一切消えていたという。
柳町監督と木村先生がふたたび組んだ『愛について、東京』は
不幸な扱いを受けた映画だったが、僕は好きだった。
そのときに先生がいったことがある。
もう日本映画全体の疲弊がはっきりしていた時分だった。
映画美術監督は、映画の画面に映るもの一切を統括する。
映画が低予算をしいられるのであればロケ撮影がふえセットの出番がなくなるが、
そのロケ撮影をどうつなぐのかも美術監督は監督に提案しなければならない、と。
木村先生は当然、ロケハンでも先頭を切った。
映画的風景の脳内ストックも無尽。
そういう柔軟性が木村先生だった。
「『愛について、東京』は一種、東京論映画だな」――そう語っていた。
木村先生の株がとくにあがったのは
まだ無名だった林海象監督のシナリオに惚れ込んで
『夢みるように眠りたい』の美術に携わったあたりからだろう
(これは円形性を強調し内在的な美術が目立った――
松本俊夫『ドグラマグラ』などにもつながる先生の「レトロ論」だった)。
ともあれ対象を選ばない。党派性にも拘泥しない。
旺盛に、貪欲に活動してゆく。
その時点でもう先生は70歳ちかくだった。
木村先生は乗れば参加してくれる――そういう雰囲気が若手監督にも伝わった。
風間志織監督『冬の河童』などはそうして成立した映画だった。
風景にワンポイントを加えて映画性を配備してゆく木村美術の新局面は
このあたりから芽をふきだした。
やがて風間監督は美術のコツを独自に得るようになる。
木村先生なしでも美術的な映画性を発揮しだすのだ。
風間監督がもちいたものは「すりガラス」「穴」「赤い光」といった
ミニマルなものだけに見事に限定されていった。
先生の発想力はとどまるところを知らなかった。
僕がとくに高く評価しているのは先生の小説だ。
書冊となったのは『月下茫茫白狐之図』『白姫抄』だけだが、
「ストケイシオン」という先生所属の同人誌では
その他にも数多くの短篇小説が発表された。
幻想譚。回顧的。ときに痛烈な戦争批判をふくむ。
そういうモチーフが九十歳を超えてからのご自身の映画監督作に結実してゆく。
『夢のまにまに』『黄金花』。
旺盛さに戦慄した。このひとは一生死なないだろうとおもった。
そこではデジタルカメラ撮影を基盤にした画面合成が積極的につかわれている。
先生は映画上に新しい画布を得た、とは感じた。
ただそのことによって先生の美術的統括力が緩慢になったかもしれない。
先生の美術の細部は幻想とリアリズムと意匠性が渾然一体となったもので
(ということは、伊藤若冲と立脚が同じだということだ)
実際はそこに「内部/外部」の弁別線がひけないのだ。
それが悪く出た例が清順監督『ピストルオペラ』だったかもしれない。
具流八郎グループでは実際は鈴木清順をめぐり
木村先生と大和屋竺の暗闘があったようで、
『ピストルオペラ』は清順・大和屋『殺しの烙印』の栄光を蹂躙する結果となった。
ふたりの天才の水と油、その分離は『カポネ大いに泣く』に前段があり、
さらにいえば先刻の『ドグラマグラ』が同型反復した。
ただし木村威夫・鈴木清順の共同性の成果はもう世界化している。
たとえばタランティーノ『キル・ビル』で延々つづく
館内でのユマ・サーマンの戦闘場面。
あのとき広大な床の一部分がガラス張りになっていて
カメラはそのガラスの下からサーマンの動きを真仰角した。
往年の木村美術の真骨頂のひとつ、
画角の予想できない変化を呼び込むセットだ。
木村先生は映画美術はもろい複合体で、
それは前後左右上下から透視的に眺められる、
内側のない内側だ、という考えだろう。
『キル・ビル』の美術は種田陽平さんだが
直接、木村先生を参照したというより
タランティーノの清順への熱狂を経由しているのではないか。
ともあれ大和屋竺、熊井啓、さらに黒木和雄と
先生と同格の脚本家・監督の多くがいまや鬼籍に入ってしまったが
先生ととりわけ相性のよかったのが黒木さんだったとおもう。
黒木さん最晩年の怒涛の復活を画したのが『スリ』。
低予算だったあの作品では「配剤美術」の手法がとられていて、
主人公原田芳雄の「海底的」心情にリンクさせるためか
彼の居室には漁り網が天井を這い、
硝子の浮き球(ブイ)が網のなかを垂れ下がっていた。
黒木さんに訊いた。「あれ、海底的な境遇ってことですよね?」
黒木さん、「わからないんだよね。でも木村さん自信満々だし
画柄としておもしろいからそのまま使わせてもらったんだよ」。
あのふたりには何か奇妙な阿吽の呼吸がたしかにあった。
黒木監督『父と暮せば』のラストではカメラが移動し、
原田芳雄と宮沢りえが濃密な科白劇を繰り広げていた舞台が
別様相に一変する。
そこが家屋である「と同時に」原爆ドームだったという驚愕の仕掛けが生じ
そこがいかにも木村先生的な主張だった。
戦争批判の直截さ、ということではない。
空間は内部と外部の分離不能をあらかじめはらんでいる、という暴露が
木村先生的なのだった。
そういえば、黒木さんの木村先生の物まねが絶品だった。
何か急な用件が生じ、早口でそそくさ伝え、自分で納得して
一方的に電話を切ってしまう。ややしゃがれた東京弁。
これを黒木さんが愛する揶揄で完璧に再現して
僕と日向寺太郎さんの笑いがとまらなかった。
熊井さん、松村禎三さんをふくめみんなお亡くなりになってしまった。
さすがに寂しいなあ。
最後にしるしておくと、木村先生ご夫妻は僕ら夫婦の仲人だった。
「僕の仲人したカップルはみな立派になるんだよ。
離婚も一組もない、よかったね」
あの自信満々の口吻が忘れられない。
先生のご忠告は「早く子供をつくること。
仏教的にいっても、人間は子どもをつくらないと救われないんだから」。
このご忠告に背いてしまったのに心が痛む。
僕ら夫婦の結婚した時期は、DINKSの風潮真っ盛りだったのだ。
先生、ごめんなさい
合掌――
12月にお会いした後、葉書を出そうかと思いながら(必ず返事を下さるので、お忙しいだろうとかえって遠慮した)出さなかったのが残念で。
あの笑顔と帽子姿忘れられません。
良い記事を有難うございました。 犬塚さんへ
木村先生の生前のお姿をおもいだし、
知遇を得たみなさんにも
先生の懐かしい面影をよみがえらせようと
心して書いた記事でした。
お心にかない、
僕自身も
この記事を書いてよかったと
おもっています
コメントありがとうございます
2010年04月01日 阿部嘉昭 URL 編集