小川三郎さんの「直中」
廿楽順治さん主催、「電気ブランで酔おうぜの会」で
さきごろ知り合いになった小川三郎さんから
05年11月刊の第一詩集、
『永遠へと続く午後の直中』をおくってもらう。
さっそく読んだ。2回読んだ。素晴らしい詩集だった。
四六判。思潮社刊だが派手さを排した体裁。
一頁17行と行の多い組だが、目詰まり感がない。
レイアウトに工夫があって、
各詩篇は右開きなのだが、
その開始された右頁は左右中央に一行、
詩篇タイトルが印刷されるだけなのだった。
このレイアウト上の冒険が効いている。
小川さんの詩行は字数が少なく、
語句も一見、平易さから離れない。
だから、トータル112頁26篇の詩集が
上のレイアウトもあって30分内外で読めてしまう。
これは何か――「再読」をしいているのだ。
それで語句は簡単なのに意味や修辞に仕掛けのある彼の詩が
深い次元で咀嚼され、読者が魅惑に包まれることになる。
ロマンチックすぎるような詩集タイトルだが、
むろんそこには毒が秘められている。
直中(ただなか)=渦中にいるという身体意識は
充実に結びつくのが常だが、
ここではそれが結びついたりつかなかったり、と
メタモルフォーゼにちかい運動が多く起こる。
描かれたのが「渦中」のはずなのに、
その「渦中」が「決定的な事後」と弁別がないこともある。
だから火薬を身中に装填されたような妖しい読後感が生ずる。
あるいは、こういうべきか――
世界は永遠に変わらない。
そう諦念を感じたとすると、その諦念の分だけ、
もう世界は決定的に変わってしまっている――と。
これはマンガでいうなら浅野いにおのテーマだった。
小川さんはその意味で、若いひとの心性の側にいるともおもう
(実年齢は30代の終わりらしいけど)。
マンガといえば、この詩集でエラく目立つ役割を果たす
第一篇「夏の思い出」。
映画『ジョーズ』の設定を借りたような作品で
鮫に食われた恋人同士が非論理的に不変性のまま生き残り、
しかも鮫に食われる毎年の夏の回帰も寿がれ、
さらには鮫に食われることには快楽語句がまつわるという
「逆つなぎ」がすごく映像物語的な詩なのだが、
このタイトルは当然、
つげ義春の名短篇「夏の思いで」を想起させる。
しかも詩集の作者名が「小川三郎」。
むろん「小川三郎」は、同じつげの短篇「退屈な部屋」で
つげと思われる主人公が、元遊郭のアパート小部屋を借りるとき
名義手続きで使用した偽名だった。
ならば果たして、この作者名「小川三郎」も偽名なのか?
「渦中」にいるということは、
時の進行の動力に紛れて、「私」が存在を失うということだ。
だから小川三郎の詩に「血」が頻出しても
それは多く、赤々とはしない。
ヘンな切り方になるが、二番目の詩篇「濃度」から数行抜こう。
●
血痕すら残せない。
私は既に一秒生きて
残りは一秒ありそうもなく
煮詰まるにはまだまだ足りず
寧ろ薄まる一方だろう。
しかし私は心の何処かで
水ほど透明になればいいと
思っていはしなかったか。
グラウンド横を流れていく
ぬめった河の透明度が
丁度私の色らしい。
私も時代の人間である。
●
「渦中」をたった2秒と捉え、そのうち1秒が既に生きられ、
残り1秒の保留もすでに覚束ないという特異な時間意識。
むろん余命のなさが予感されているのではない。
時間の微分のなかで、そのどこにも身の置き場のない点が
不如意感として摘出されているのだとおもう。
余命がないのではない――この充実を欠いた時間意識は
むしろ永遠に続く――だから「直中」なのだった。
最終行「時代」の語には悪意がある。
荒川洋治的な使用のようにみえて
前行からの連結が足りず、言葉が奇妙に裸になり、
よって電通的な意味の付着から語が離れる。
この場合の「時代」は「次代」の否定でもあるだろう。
諦観の感触だけが痣のように残る。
偽物の下町で偽物の着物を着た偽物の女を
詩の主体が尾行する設定の詩篇「芸術的」では
その最終聯で「永遠の持続」のなかに
「不可逆的変化」が微かな傷として刻印される、
時間論=意味論的メタモルフォーゼがやはりみられる。
あらかじめいっておくと移動の渦中に定住を
一瞬でも夢見たことが
移動に「微かな」致命傷を負わせたのだった。
しかもそれが「永遠に」続く逆説を負い、
やはりその致命傷も致命傷たりえない。
●
閉じられた格子戸の奥には
誰かの人生が
丸ごと収まっている。
格子戸は女の行く道に沿って
無数に並んでいる。
私もいつかはその向こうで
丸くなれるに違いない。
しかしここらは満室で
取り敢えず偽物の女を追って
偽物の下町をごろごろと
転がり落ちて行く日常。
●
結語の投げ出したような体言止めが
すごくヤクザだとおもう(笑)。
小川三郎にはもうひとつ、詩句に残余をまつわらせない
特異な残酷、という特徴があるだろう。
周囲の情景が消え、あるものがあるものと――
あるいは、あるものだけがあるものだけと――
その真芯で「合致」する(カフカのアフォリズムと似る)。
たとえば以下、詩篇「汲み出す」の冒頭聯――
●
昼寝から覚めると
一本の鉛筆だけが目に入った。
まだぼんやりで
私の意識には
鉛筆だけがあった。
私の記憶にも
鉛筆だけしかなかった。
●
贅肉を殺がれた、詩的修辞たりえないがゆえの詩的修辞。欠性。
修辞のあられもなさが詩性に残酷に転化するということでもある。
それを飄々としたユーモア、といっても意味は同じこと。
しかもこの詩篇ではその「あられもなさ」が
小川特有の時間意識と結びつき、哲学の気韻すら発してしまう。
●
死とは自己の全てが
外へ流れ出ること。
一気にすれば単なる死だが
少しずつなら
生きるであり
価値があるようにすら見える。
●
しかしこの肯定哲学に忍び込んだ毒の修辞、「すら」には
しっかりと視線を配っておくべきだろう。
小川三郎の詩は、詩行の数瞬を採りあげれば
カフカ的アフォリズムに通う、無気味な不透明の感触をもつ。
以下、詩篇名表示なしに送り込みで列挙。
《人の死と/人形の不死は/繋がっている。/見れば強い糸である。》
《竿竹屋が/三十年前の録音で/エンドレスに遠ざかる。》
《私はまた一年の節々を/丹念に死ぬ。》
《夏の日を/持ち帰るのは不道徳である。/
悪い奴が持ち帰る。/悪い奴の分だけ/来年の夏は痩せてしまう。》
《陰部を隠す要領で人は/地球を丸ごと焼いてしまう。》
だが、こうした部分引用は、小川三郎の詩にたいしては
誤ったやりかたというべきだろう。
彼の詩は、論理が修辞をつくり、その修辞が物語をつくる、
この全体性のなかでこそ真の相貌を現す。
もともと像の少ない詩にあって、
さらに細部同士が衝突し、像が喪失する、そんな「渦中」の刻々を
一篇の詩の読後、茫洋と恐怖することが彼の詩の体験ということ。
僕は彼岸花の咲く山の斜面を詩の主体が駆け下りるうち
距離感覚と彼岸花そのものの大小感覚が変容してゆく
詩篇「夕風」の、
他語を排したゆえの修辞論理の奇妙さが大好きだし、
「私」に傷をつけた当事者=「あなた」が傷に包帯を巻くことで
私に「人の形」が温存されても可視性が奪われてゆく
詩篇「傷」の悲惨なユーモアも大好きなのだが、
ここでは小川詩の詩篇全体の物語性がいかに錯綜し、
その錯綜のなかで詩がスパークするかの実例として
詩篇「後戯」全篇を引かせてもらおう。
●
鬼がやってきて
女が死んだ。
私はそれを目撃した。
私は笑っていたろうか、
笑い声は
聞こえた気がする。
相槌も打った気がする。
鬼は私を見なかった。
全ては決定済みのこと
面白いことは何もなかった。
夢であると言うならば
寧ろ納得が行くかもしれない。
しかし私はその色彩を記憶している。
鬼と女の色彩は
とてもよく似ていた。
かろうじて私は指先にだけ
その色彩を持っているのだったが
無論儚かった。
天は何度も私たち三者のところまで
降りて来はしたが
何もせずまた昇っていった。
放たれた矢は
必ず一周して戻ってくる。
私は避ける気力もなくて
見事命中
磔にされ
鬼と女の姿が
ともだって薄れていくのを
ただ見送るしかなかった。
どんより流れる煙のような
苦しみ
痛み
それは鬼とも
女とも無関係だ。
女の涙は
別件にて流される。
私は寧ろ鬼を愛した。
磔にされるも承知の上で
甘ったれるな
運命は哀しいもの
決断は冷たく
棺桶まで持っていく傷となり
しかし今は寄り掛かる。
●
「色彩」や「天」の語が裸で使用されていて、唸る。
さてこの詩篇では「鬼」が「私」の分身なのか
「女」の分身なのかが論理的に規定できないだろう。
そしてこの三者のうち何者が
死んだのか、死んでゆく「渦中」にあるのかも
詩篇内のさまざまな矛盾撞着によって
藪のなかに入ってしまう。
ただ、惨劇が起きたという感触だけが残るのだが、
それすら虚辞、「起きていない」と断じれば
詩篇全体が哄笑性をもってしまうことにもなる。
詩篇は変容を許容し、読者側からの作り変えをさらに待っている。
このとき詩篇で唯一、
「決断」によって「私」が傷を負い、冷やされ、
死を宣告され、なのにそれを拠り所とする精神だけが
鈍く浮きあがっている。
そういえば小川三郎の詩篇の最終行、いつも厳しいなあ。