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市隠 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

市隠のページです。

市隠

 
 
昨日の「鬱」日記(本欄では未掲載)では
多方面に心配をかけた。
今日は天候同様、気分が晴れ晴れとしている。
現金なものだ。

さて「市隠」という言葉がある。
中国起源熟語で、「市井の隠者」程度の意味。
草森紳一がよくつかった。
これが初期坪内祐三になると
「ストリートワイズ」ということになるのだろう。

むろん大学教授などは「市隠」に関係がない。
ただし民間学者という転位もちがうだろう。
どちらかというと何かあったとき
義のために決起する侠者に
僕のイメージがちかいかもしれない。

昨日の日記で「幸福」のために
「あること」「生きること」
「かんがえること」「つたえること」が
不即不離で融合している状態が必要だと書いた。

(「あること」と「生きること」は同義ではない。
実際、そのふたつが分離し、
「ありつつ」「生きられない」不幸な類型が
格差の吹き溜まり部分に悲惨にもふえている)

けれども問題は「つたえること」。
「表現すること」「促すこと」「働きかけること」
などとこれを言い換えてもよいのだが、
この他動性が現在、表現では軽視されていると感じる。
「説得できる」ひとが激減していて
表現の価値がそのかぎりで低落しているのだ。

昨日は午後から坂口安吾を読みはじめた。
安吾の小説では僕は「青鬼の褌を洗う女」が
たぶん一番好きで、
その付帯作用としてその照応域にある
坂口三千代の『クラクラ日記』も大好きということになる。

昨日は岩波文庫『白痴・桜の森の満開の下』では
「恋をしに行く」(良いタイトルだ)までを読んだが
安吾の初期小説はニューロティックな味があるものの
構成が破綻し、極度に文学的だ。
そのままでは二流にすぎない。

それが三読四読に値するのは、
発語衝動がつよく、畳み掛けの「呼吸」があって、
それが世界の多様な像を付帯せしめるからだ。
「白痴」の書き出し、貧民窟の描写で
坂口安吾はまさにそういう域に達した。

女体に魂があることの不可解。
または女体に魂がないことの魅惑。
「存在」に安吾は「ふるさと」をみて
「懐かしい」と感慨を発する。
しかも「ふるさと」とはたぶん、
「残酷の原型」みたいなもので、
文飾を受け付けないもののようなのだ。

安吾はそこで格闘する。
「恋をして行く」などは処女性の魅惑にたいし
セルフ哲学問答を激烈に展開して滑稽感すらあるが、
どういうのだろう、安吾の畳み掛ける思考の呼吸に
えもいわれぬ魅惑を感じてしまうのだった。

そういう安吾はたしかに「青い」のだが、
「働きかけ」という点ではすでに市隠の風格があって
だから安吾とたとえば石川淳との平行も
かんがえなければならなくなる。

そして安吾にはその文の魅力以上に
悪戦的思考と存在の魅力を先に感じるし、
そこから詩性をテッケツすることもできる。

女体とはなになのか。
それはなににさらされているがゆえに
「懐かしい」のだろうか。
あるいは残酷さが即「懐かしい」のだろうか。
そうして安吾の重要エッセイのひとつ
「文学のふるさと」を顧慮する必要も出てくる。

安吾から離れ当初の文脈に話を転ずると、
「働きかけ」とはある種の身体性・呼吸性を
根拠として裏打ちしなければならないとわかってくる。

そういう表現は実際は音楽などに多く、
その意味で全表現は音楽を参照すべきなのだが、
いまの音楽はブレスがキツくなるよう設計されていて、
倣って唄う者は
水槽の金魚のようにアップアップ状態になることが
多いのではないか。

たぶん速度と密度の設計に過誤があるのだ。

このとき速度と密度を
ひとつの有機的理想として表現する
時空間表現があって、それが詩だ。

(批評はかならず分断線を引くこと。
そのうえで個別性を敬意することだ。
たとえば粗雑な党派性で
中尾太一と岸田将幸をひとからげにすることなどできない。
中尾くんの畳み掛けの「呼吸」が素晴らしいのにたいし、
岸田さんの「呼吸」は人をナメたようにだらしない。
よってふたりを同列に扱うのは
詩の呼吸の軽視しか結果させない)

むろん良い詩篇はただ理解に資する
単純な表情などまとっていない。
むしろ自らの魅惑化のために「驚愕」が仕込まれ、
意味上は不敵な乱脈を発していることが多い。
けれども詩行のわたりそのものは整脈のはずなのだ。

たとえばこういう二元性が
市隠のことば、働きかけにもあるのではないだろうか
(市隠とはもちろん説諭者とは姿がちがうのだから)。

澄み渡った空の下、とりあえずは市隠の自覚をもって
そんなことをかんがえた。
記録しておく
  
 

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2010年04月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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