けだものであるということは ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

けだものであるということはのページです。

けだものであるということは

 
 
【けだものであるということは】


おれが
けだものであるということは
ながれくる音楽に
総身をはかなく服従させ
錦のおれにおりあげられた
幼獣老獣の多時間を
時間ではない
ごみのようなものに変えて
世界との不接続を
ひたすら泣くことにみちびかれる
なんとなれば音楽とは
はじまりと終わりのある
つくりあげられすぎた
生きもの以上に狡知な時間で
音楽をみたされたおれは
総身がなだらかな合成となって
合成というからには
非電導の全身がぽたぽた
慙愧にくれたりもするのだ
いずれにせよ音楽は
ろっこつをつうじ
仏性のようにとりわけ悪を撃つ
ああ、ふらふらする
音楽を聴き剛力がぬけるのは
星の明滅に加担する
他の禽獣もおなじだろうか
もともと速さと殺戮のおれは
線でできていて
感情を湧かすこころなど
あろうはずもないが
ゆいいつ自分が自分にむけ
号泣したときにのみ
胸に、ひかるわだかまりができて
それが泪の心にもなるよしで
そうなったときおれは
全身ぴかぴかにながれる毛並みを
すべてに詫びているような
川のせせらぎにすることもできる
おれは音か
だがけだものぶりと混ざったそれは
陽にかがやいてもやはり
とうてい音楽とは呼べないだろう
だからうなる、
禹、うおう




カフカの諸短篇を翻案マンガ化した
西岡兄妹の『カフカ』の恵贈を
昨日、研究室で受ける
(カフカの文は池内紀訳が使用されている)。

あとがきで兄の西岡智が書くように
もともとカフカの小説では
偶像崇拝禁止の戒律下にそだったこともあり
「オドラデク」でも「毒虫」でも
視覚イメージ化が峻厳に禁則化されている。

その禁則を引き入れての
西岡智のネーム、
妹・西岡千晶の画柄化という決断が
この『カフカ』にはつらぬかれていて、
したがって読者はマンガを読む興奮と
マンガを眼前にして禁じられる興奮を
同時に味わうという
奇異にして至福の事態にとりこまれることになる。
滅多に直面できない体験なのだ。

像=意味結像の不可能性はとうぜん
都市論的結末とユダヤ人心論、
その双方にまたがっていて射程も広い。
カフカ文学の謎にはそういう分光作用がかけられる。

それにしてもマンガという媒体は
なんとまあそのコマ割から
律動を生じてくるのだろう。
視線滞留時間をこれほど厳密に組織化できる才能など
西岡兄妹のほかにいるはずもない。

たとえばそうして
「断食芸人」に豹が出現する瞬間に息を呑む。

その「断食芸人」の主人公も視覚化されていると同時に
微妙に視覚化されていない。
あるいは「流刑地にて」の処刑機械でもそれは同様だ。

つまりだからこそマンガ諸短篇は
「カフカを生きていて」、
それゆえにストーリーの省略も解釈の枝分かれも
そのままカフカ性の増殖につながっている
――こう結論することができるだろう。

いやはや、すごいマンガだった。
僕は今期「少女マンガ講義」なので授業対象にはできないが、
さっそく僕の生徒には一読を薦めておこう。

さて、上の詩篇は西岡智さんの同書での
「あとがき」の一部からインスピレーションを得た。

彼はもともとカフカの「変身」のマンガ化は
多様な意味で不可能だとおもっていたが
食餌行為にまつわる反復と変化の演劇性として
「変身」を再構成できると確信したという。
その際に突破口になる文のくだりがあった。

そうして掲出された文を
僕の上の詩が増幅した、ということでした
 
 

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2010年04月21日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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