領地
【領地】
眼のなかの反語の反りがのぼりゆく焔のしるしを知った。
世界中の風が、藤をたらしている。
身は花なるものの鬨の響きにただ尋ねなく同意して
垂線が地面を描くこの空間のなかを終わりまでおののく。
いまが渦中なのだろう、藤のゆれさえ視えない。
ものを読むと、思索はつねにそこに立ち返ってしまう。
たとえば詩篇と詩作者を残酷に分離して読もうとするのに、
発語のゆたかさの根拠と、
同時に「何を言い足りないままにしておくか」、その差配とに、
一種かけがえのない身体の根拠を見てしまうのだ。
そう、世界がみえるという可視性のなかには
「世界のみえなさ」までもがふくまれていて
そのことが自分への反射項として切実に胸を打ってくる。
次に出る「詩手帖」の論考では
近藤弘文の詩篇を「悲哀の調律」という言葉で称えた。
この言葉は中沢新一の何かの著作にあったもので
以前、塩田明彦の『害虫』評に援用した記憶がある。
詩が奥底で湛えている「情」。
そのコードが悲哀に向けられてチューニングされたとき
たぶん詩は自他の曖昧な境界に
つかめない魅惑として結像してくる。
どんな世界発見が詩に展開され
それが哲学的な鋭意であったとしても
結局、詩篇は詩篇であることの不如意によって
うつくしく自らを二重化しているのではないか。
三村京子の歌唱録音がいま最終段階に入っていて
そこでも僕は「情の流露」を説く。
たとえば三村さんの歌は
三村さん自身をつねに流露していて
そのこと自体が神々しく、かつ同時に痛ましい。
このとき自己閉塞から離れる魅惑の誘引項は何かといえば
これもまた「情」なのではないか。
われわれは事実からは身を飛ばすことができる。
けれども「情」からは自由になりえない。
身体そのものが情で組成され、
それは暗闇のなかでも「相手」と識別される誘因となるしかない。
逆にいうと、そういうことを知らない詩は
たぶん言葉の自在性を過信し自己の引き上げのみを賭した咎で
たんなる無価値に堕してしまうのではないか。
世界の眺望がある。
そのなかで詩作者の像が哀しく霞むが
そうした陽炎のような感触こそに
身体の切実な郷愁があるという気がする
2010年04月24日 阿部嘉昭 URL 編集