「現代詩手帖」稲川方人氏の発言への反論
「現代詩手帖」五月号の稲川方人さんの僕への発言のうち
とりわけ奇異と僕自身が感じた箇所に
稲川氏とはことなり謙虚に
具体的な反論を加えておきます。
まずは氏の発言を全文転記打ちしたのち
番号を振って、順に阿部が反論するというかたちをとります。
一応、読みやすさ確保のため
改行なり補いなりを加えましたので、ご了承ください
●
稲川
詩の実作の内部において構築しうるものが
世界なんだという言い方を【阿部さんは】するわけですが【1】、
そんなことは
わざわざ実際に詩を書いている人間が
言うべきではない【…】。
詩を書くものの意識としては
楽屋【2】を見せてはいけない。
つまり詩が世界を構築するものであり【3】、
その内部でそれぞれの詩人【4】がいい詩【5】を書けばいい
というのは当たりまえのこと【6】のことであって、
そんなことは言わなくてもいいことで【7】
実作【8】を見ればいいんです。
さきほど杉本さんが、
ぼくが詩に抑圧をかけていないかと言われたことにもつながりますが、
ひとつはそこですね。【9】
倫理的な発言をすることで【10】、
自分の実作、自分の一行を構築する力に圧がかかる【11】ということです。
いかに強い詩をつくるか、いかに強固な詩をつくるか【12】、
それはそれぞれの詩人が抱えている個的な問題なわけですから【13】、
ひとりひとりの問題です。
それをわざわざ言う必要はない【14】、
そんなことをぼくはひとこともいっていないわけですよ【15】。
だから【16】阿部さんの言っていることは基本的に違うと思う。
もしぼくの倫理を批判する【17】のだったら、
ぼくの詩の一行と照合して批判すべき【18】だと思います。
●
いやはや、転記打ちしていて、
その脱論理、対象化の曖昧さ、ごまかし、まやかし、詐術性、
文意のぬるさに辟易してしまう。
以下、順に反論。
【1】そんなふうに単純に要約される原稿を
僕が「詩手帖」の前号で書いた覚えはない。
少なくとも精神論と技術論が詩作において二重化する場所に
いま生じている危うさを伝えたはずだった。
そのとき「倫理的たれ」という上からの不要な掛け声によって
詩作状況がいかに抑圧されているかを示唆し、
詩は言語、詩脈によって言語から世界に実在性を再付与させる表現として
救済されなければならないと主張しただけだ
【2】
「楽屋」とは「手の内」「自己技法」「再帰性」
みたいな意味につかっているのだろうか。
そうであればそれは複数性をもつべきだし、
僕自身、自分の「手の内」だけを単数的に書くことは
どんな原稿の場合もありえない(当然、前号原稿でも)。
こういうものにはコクトー的に複数的な迷彩を張るべきものだ。
それと、この稲川発言は元原稿を読まなかったひとに
「阿部が手の内を見せて得々としている」と
誤解をあたえる「誘導」をおこなう(戦略的なのだ)。
さて、「楽屋」という奇異な角度をもつ言葉から
僕の評論が批判されるとはおもわなかった。
僕の評論を継続的に読むひとは
「楽屋」が僕の評論の鍵語になるとは絶対にかんがえないはずだ。
【3】
個々の詩は世界と地上的連続性をもつべきだとおもうが
詩のなかに世界そのものが現れるようにつくられるべきだ、
そのようなつよさをもつべきとまでは僕はいっていない。
というかそこに擬制される「つよさ」こそを警戒するのだ。
これも稲川の要約ミスだろう。雑駁すぎる。
【4】
前号原稿のひとつの提案は
「詩人」という呼称をつかわずにいようということだった。
そういう言葉を平気でつかってしまう無神経。
僕は無用な権威化を回避するため「詩作者」という呼称しか使わない
【5】
「いい詩」とは何だろう。僕ならこんな雑駁な言い方はしない
(そういえば「いい映画」ともいったこともない)。
この言葉を詩につかうなら、定義が必要だろう。
僕には読者への働きかけがつよく
世界認識を変えるような奥行きをもちながら
同時に一筋縄ではゆかない物質性をもつ詩が
あえていうなら「いい詩」という定義に当てはまる気がする
【6】
「あたりまえ」といわなかったのがその稲川方人自身だった。
『詩的間伐』の各所にその証拠がみられる。
また僕自身も「詩の自明性が疑義に付されている」と
今号に書いてある。
この時点で「詩人がいい詩を書くのは当たり前」と
稲川氏は宗旨替えをしたのだろうか。
繰り返すが、僕自身、そんな無内容なことを
一度もおもったことなどない
【7】
「そんなことは言わなくてもいいことで」=
気をつけよう、「言わなくてもいいこと」を
「いま」「言っている」のは稲川のほうだ。
阿部は「言わなくてもいいこと」は「いっていない」。
論理のすりかえ。生理的に気持悪いのは
それが世代的手法だったからだ。
【8】
だれの「実作」なのだろうか。
僕は前号評論で「実作」を可能な限り引用している。
そうじゃなくて阿部の「実作」というのなら
それについて言及するのは稲川のほうの責任だ。
僕は「楽屋」を語るつもりはない。
あるいは稲川の「実作」というのなら
僕は以前、「未定」に長い『聖-歌章』論を書いている。
【9】
あいまいな「受け」。
文意を前後から判断すると
「抑圧者を演じているのは自覚的で
自分は詩論と詩作双方によって他への抑圧を演じているが
その理由は阿部のいっていることと
対蹠的な位置に立つためだった」と
事後的に語りだすための変換のようだ。
「そこ」という語の場所性を
とりあえず上記「対蹠的な位置」と読んだ。
【10】
「倫理的な発言をすることで」
稲川がそのような発言をしているようにおもわれているのは
たぶん風聞の域にすぎないだろう。
実際は倫理性を過剰に課すことで
倫理そのものを空洞化させる発言しか彼はしていない。
一方で、「過度に倫理的たるな」という僕の発言は倫理的だ。
どうやらそのような二元性反転につき
稲川の思考力はとくに弱いようだ。
【11】
「自分の一行に圧をかける」
たぶんそういう詩の書き方では「いい詩」は実現されないだろう。
「圧をかけつつ」「解放する」、
そこでもそういう二元性が必要なのだ。
とうぜん現在の稲川的一行には圧があるが解放がない。
【12】
「いかに強固な詩をつくるか」
マッチョ発言。「弱い詩の功徳」をかんがえないのだろうか。
僕は今号の詩手帖原稿でその領域の意味を示唆した。
【13】
決め付け。少なくとも僕自身が
詩作においてそんな単純な立脚をしていない
【14】【15】
繰りかえしになるが「わざわざ言っている」のはここでの稲川自身。
稲川の自己再帰的視線の「質」を疑う。
【16】
なにが「だから」なのか
(どんな前論理によってどんな後論理がつづいているのか)
さっぱりわからない。
ひどく脱論理的な接続詞の使用、というほかはない。
【17】
「ぼくの倫理を批判するのだったら」は曖昧な言い方だ。
第一、語法として成立できない。
だれもひとの倫理(性)など批判できないからだ。
稲川はこう言い換えるべきだっただろう。
「ぼくの過度の倫理発言によって
多くの者の詩作に抑圧をあたえている
僕の非倫理的態度を批判するのだったら」と。
そういう稲川を僕は批判した
【18】
【8】にすでに書いた。
すでに書いたことが反復されなければならないのは
稲川自身が同語反復をしているからだ。
ただし詩論と詩作の分離はこの鼎談記事の主調音のひとつだが、
いまここでの稲川は
詩論にたいして実作の照合をおこなえ、といっている。
それにたいしていまの僕は稲川の場合、
それは面倒くさいとおもう。
それで今号では中尾さん、倉田比羽子さんに言及することで代えた。
なおここでの稲川の僕への反駁は
詩論的なものなのだろうか。
ならば稲川的論理によるならば
稲川は僕の実作との照合をおこなわなければならなくなる。
後段のほうで詩の「美的構築」に
僕(阿部)が関与している、ととれる稲川発言も出てくる。
何かびっくりする。
僕の詩に美的配慮があるのは無論だが
「美」としてだけ要約される詩など
一度も書いたことがない。
こういう誤誘導の下に戦略的悪意があるとするなら怖い。
ともかく僕の実作との照合をしてほしい、と願うのみだ
総じて稲川氏はコワモテを装っているが
ものすごく脆弱で自己意識のない論理、
酔っ払いの繰言のような論理を操っていることが
みてとれたとおもう。
さみしく、かなしいことだ。
現在の氏は僕がむかし知っていた彼自身とは
まるで別人のようにおもえる
「楽屋」を語ってはならない、というのは
「楽屋」を語っていない僕には
論理的に対応不能の反駁なのだが、
要約すると、
「詩人」は一種の秘教主義・密教主義を遵守せよ、
という主張に変換できるだけだろう。
しかし果たしてこのような物言いが
いま有効性をもつのだろうか。
たとえば「びーぐる」の最新号で
自身の詩的身体の分裂を
具体例たっぷりにユーモラスに書いた廿楽順治までが
この稲川氏の硬直しきった論法では
否定されてしまうことになる。
しかし「楽屋を語ってはならない」とは
いかにも射程のはっきりしない発言だなあ。
だれに向かって(あるいは自身のどこに向かって)
いっているのか。
揚げ足なら簡単にとれる。
この「詩手帖」の鼎談記事自体が
『詩的間伐』の「楽屋」を
ひとの期待値以上に「自負」「自恃」にみちて
稲川・瀬尾両氏が語りつづける企画だからだ。
それで杉本真維子さんがはじかれそうになる瞬間すら
多々あったと僕は感じたのだけれども
(真維子さんは明らかに稲川的「抑圧」に
反論しようとしていたとおもう)
う~ん、ヘンだ。やっぱりやりきれない
2010年04月30日 阿部嘉昭 URL 編集
ふたたび「楽屋」について:ふと脳裡をよぎったことは三つ。
●今年二月はじめ首都大学東京での詩のイベントでは
北川透氏の講演がプログラムのひとつに組まれていた。
要請は「詩の現状を省察する」といったものだったとおもうが、
北川氏は「自ら=楽屋の現状」をただ語ることで
その要請に応えた(らしかった)。
つまりそこでは「詩の総体=わたし」という
擬制が働いたのだが、
このことにほぼ北川氏自身が自己批判的でなかったとおもう。
これが「詩人」の自意識を表した事件として
僕の記憶のなかでいまだに揺れている。
●「現代詩手帖」では佐々木敦氏による
連載インタビューがずっと続いている。
そこでは統一された佐々木氏の質問があって
それが「詩との出会いは何だったか」
「なぜとりわけ詩の形式で物を書くのか」だ。
これに応えることで詩作者たちは
自分の「楽屋」をおおやけにしなければならない
磁場に巻き込まれてゆくのだが
稲川さん的な語彙をもちいるならば
このインタビューは
詩作に興味をもちはじめて間もない読者には誘導的でありながら
詩作状況の深部においては「反動」性を形成するとおもう。
しかしここで荒れ狂った答のみを連続させた
「勇者」がたしかにいた。
内容の是非はともかく岸田将幸と安川奈緒の両氏がそれだった。
●僕自身も詩作の「楽屋」を語ったことがたしかにある。
稲川氏が批判対象とした「詩手帖」の
「何が詩を硬直させるのか(上)」はその範疇ではないが、
僕自身のサイトに載っているインタビュー、
「詩大陸への接岸」なら一種、楽屋での自分語りだ。
●
しかしふたたび問うが、「楽屋」とはなんだろうか。
舞台での表現(現れ)に前提される
身の置き場が舞台裏にはたしかにあり、
そこでは準備やメイクや衣裳づけなどがおこなわれるとする。
それは俳優にたいしてならば実定的な想定が可能な空間だが、
文字表現者であれば
むしろ「楽屋の非実定性」のほうが問題になる。
それは無空間でありながら輻輳的で
身体的でありながら非身体的な
「錯綜」が生じている運動の場のことではないのか。
となって、文字表現者の「楽屋」は
元来「語りえぬもの」であって、
その「語りえなさ」の複雑な逆転としてしか
「楽屋語り」もない、という認定が生じることになる。
「楽屋」という意外な言葉を稲川氏に語りおこされて
たどり着いた僕の考えとはまあそういうものだが、
稲川氏にどうもそのような「回転的な認識変化」が感じられない。
つまり前言したように彼自身が当該鼎談で
素朴に「楽屋語り」をしているからだ。
その鼎談での稲川氏の鍵語は「身体」だろうが、
身体もまた詩作のばあい実定的ではないが
確実に責任主体として感知されるべきものというべきだろう。
あるいは可視性と不可視性の「あいだ」にある「すべて」こそが
詩の表面にただ現れるものだとも換言できる。
僕はこの点を折々に意識するが稲川さんはどうなのか。
「決め付け」はしないようにしよう。
●
「現代詩手帖」「びーぐる」「詩と思想」が相次いで届いていた。
「詩手帖」はいま言及している鼎談記事が
心理的な抵抗圧になってしまい、その全体を読み通す気がしない。
未明に起きだしてふたたび手にとった「びーぐる」はいま読了。
岡井隆インタビューが細緻で素晴らしかったので
この号は書棚の岡井隆コーナーに入るだろう。
岸田『〈孤絶-角〉』をめぐる対談も読みが丁寧で、
その粘り強さに敬意をおぼえた。
「詩と思想」は「ネット詩特集」。
mixiでの僕の日記「またまたネット詩談義」において
みんなで書きあったコメント欄が採録されているが
(全三回の連載のうちの一回目)、
マイミクのかたがたには内容自明とおもわれるので
ここでは言及を控える。
特集のもうひとつの目玉となるべき
「ネット詩アンソロジー」が意外や空転していたとおもう。
取り上げられた詩篇に不満があったのだった。
もっと新鮮で意欲的な詩篇がたぶんあるはず。
僕が関わった「文学極道」であれば
とくにこの点が確実にいえる。
勿体なかった
2010年04月30日 阿部嘉昭 URL 編集
●●さんへ稲川さんが自分の用語に
独自の負荷をかけるのは常として、
●●さんの示唆まで付け加えるならば、
詩作はまずは言語状況の専制、強要にたいする
政治的歴史的抵抗であり、
それを意識化できない無意識は
すでに国家に帰属している、
その程度の詩的発語では
他の文芸ジャンルに伍す21世紀の文芸たりえないという
喫緊の危機意識がある、
とまず前提したうえで、
詩がその内実に詩的豊饒をもつというのは
「詩人」がとうぜん肝に銘ずべき「楽屋」語りに属していて、
それを一種の密教性堅持から語ってはならない、
語ることは詩の自明性に反動的に奉仕することにつながる、
とどうやらいっているようですね。
ただしそういう布置の整理をしてみると
やはり「楽屋」は「詩人」の内面を表す場所性をもつ、
とかんがえるべきでしょう。
その内面を稲川さんは徹底的に意識として構築すべきだといい、
無意識の存在をみとめない(ありえない「硬直」ですが)。
ただし一応慎重に、阿部の詩作の基準は無意識ではなく、
「美」によっているという、
狡猾な「張替え」をしているのだと捉えました。
僕の詩作の対象化に著しく失敗しているという問題はさておき、
ひとつの問題は、そのように語る稲川さん自身が
「詩人」の内面=「楽屋」を逆定位していて、
むしろ僕のほうにはそういう内面性重視がないという点ですね。
僕は無意識と意識を弁別すること自体に意義がなく、
詩篇は踏み外しによって書かれ、
それで既定性を撃つという考え方をします。
同時に稲川さんは、「楽屋」を否定形にせよ語ることで
それが実定化されるという論理の逆説に気づかない。
だからすべての発言が
「おまえ自身、楽屋語りをしているじゃないか」という
ツッコミを招く滑稽に気づかない。
「硬いものの滑稽」を地でいっています。
それと、稲川的に詩に権能を付与することで
詩ではなく「詩人」の特権化が招かれる危機にも無自覚です。
だから彼の発言はいつも抑圧化を結果します。
そしてそこには「詩がどう書かれてもいいのだ」という放置と、
それによる後続詩作者への期待がない。
僕は今度の論考(下)では
詩の分節性・構造的明視性・平滑感・架橋性が
詩篇が読者を獲得する条件となるといいましたが、
稲川さんは、彼の上の言い分を延長するなら
詩が密教的いかめしさをもつということは
非難点に当たらないといっているようにおもえる。
したがって彼は自分の硬直した隠喩系統の詩に正当性を自認している。
一方、僕は隠喩派ではありません。
「書かれた詩脈」の物質性だけを読むべきだといつもいっています。
なお、たとえ稲川的詩観がその独自性としてあるとしても、
そこに「倫理」の所在を説き、ましてや他者にもそれを強要するのは
紛れもない勇み足だとおもいます。
倫理が本当の倫理を標榜する以上、
それはいつでも無謬性を擬制し、論難不能となりますが、
倫理の領域とは選択にこそあるべきで、
無選択をしいる言説はそれ自体が倫理から離れているからです。
同時に、表現に倫理を結びつけるそのこと自体が
表現にとってはおかしなことになる。
表現は最初にまず表現であって、
そのなかに表現選択にともなって倫理が伏在しているとすると
それは他者にたいし孤立的規範となるほかなく、
押し付けることなど不可能だからです。
よって稲川さんは、倫理の規定そのものを
倫理学的もしくは哲学的に誤っていることになる。
むろん「無意識」を否定し「意識」だけをもつ者も
現実的にありうるはずがない。
以前にも書いたように「倫理」は柄谷行人が「論文」の策定基準として
80年代後期に広く標榜したものでしたが、
それを無理やり詩作に接続したのが稲川さんだった。
その接続によって多くの「いい詩」が虐殺される、
そうした暴力の拡大にも彼は無自覚のままです。
結局は自分の田んぼのみに水を引き込む行為で
それにより詩作そのものの多様性が圧殺される。
僕はそういった言説の無神経と暴力性にずっと抗っているのです。
ただしいまのはすべてを敷衍して
稲川言説を好意的に解釈した場合の意見。
実際、僕が引例した箇所は
言葉の成行きに脱力するほどの無配慮が行き渡っていて、
本当なら引例ののち、「これはひどい」とさえ言えば済むものです。
自分が引き合いになっていなければ
僕もそういう書き方をしたかもしれません。
2010年04月30日 阿部嘉昭 URL 編集
あ、僕のほうには「内面性重視がない」というのは誤解を招く書き方だったかもしれない。
「悲哀の調律」みたいなものは認めているのですから。
ただしそれは先行する内面からもたらされるものでなく
結果上の詩の組成からもたらされるという考えは崩しません
2010年04月30日 阿部嘉昭 URL 編集
そもそも稲川方人って言ってることを理解できる人はいないのでは?2014年03月13日 革命詩人 URL 編集